早瀬社長
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五反田の駅を出たところで、柚木は、すぐに分かった。
アバターと、同じ顔だったからだ。
短く切った黒い髪。細い肩。グレーのコート。
そして、目の下の、うっすらとした隈。
「……隈まで、そのままなんだな」
思わず言うと、柚木は、少しだけ眉を寄せた。
「最初に会って、それ?」
「悪い」
「アバターを作るとき、隈を消し忘れた。十年前から」
「十年前から、隈があったのか」
「十年前から、寝てない」
柚木は、冗談なのか本気なのか分からない顔で言った。
春分の日の五反田は、人が少なかった。
ビルのあいだの細い道を、二人で歩いた。電車で二時間かけて出てきた俺は、なんとなく、場違いなところにいる気がしていた。
ルミナスゲートは、古い雑居ビルの七階にあった。
エレベーターを降りると、すぐに受付のカウンターがある。だれもいない。
壁に、色あせたポスターが一枚貼ってあった。
《アストラ・リンク 始動。――あなたの、もう一つの世界へ》
十年前、駅の広告で見たポスターだった。
リュネの広場を背景に、噴水の前で、冒険者たちが空を見上げている。
その端の、道具屋の窓に、小さく、栗色のおさげが描かれていた。
◇
社長室は、思ったより狭かった。
本棚と、古いソファと、大きな机。窓の外に、隣のビルの壁が見える。
机の向こうに、白髪の男が座っていた。
「早瀬です。遠いところを、わざわざ」
早瀬誠一は、立ち上がって、頭を下げた。
社長というより、町の工務店の親方みたいな人だった。
ゆるいカーディガンに、スニーカー。手が大きくて、指の節が太い。
「真壁です。……いつも、遊ばせてもらっています」
言ってから、変なあいさつだと思った。
早瀬は、少しだけ笑った。
「十年、ありがとうございます。それから、終わらせることになって、申し訳ない」
早瀬は、ソファをすすめた。
柚木は、俺の横に座った。膝の上で、両手を固く握っていた。
「話は、柚木から聞いています。道具屋のニナが、話すようになったこと。あなたたちが、あの子を残したいと思っていること」
「はい」
「あなたの口から、聞かせてもらえますか。なぜ、残したいのか」
俺は、話した。
三月一日の夜のこと。ツケのこと。十年分の帳簿のこと。広場の二十歩と、草原の一時間。
「こわい」と言ったこと。「いなくならないで」と言ったこと。ガロのことを、「同じことを言う人」と言ったこと。
うまく話せたとは思わない。営業で十年しゃべってきたのに、言葉がうまくつながらなかった。
早瀬は、一度も口をはさまずに、最後まで聞いていた。
話し終えると、早瀬は、しばらく窓の外の壁を見ていた。
「真壁さん」
「はい」
「ゲームは、終わるものです」
静かな声だった。
「人が集まって、にぎやかになって、やがて人が減って、終わる。私は、四十年この仕事をしてきて、いくつも終わらせてきました。アストラは、その中でいちばん長く続いた。いちばん、終わらせたくなかった」
「……」
「だから、終わらせ方を、間違えたくないんです」
◇
「百人が残りたいと言っている。それは、分かります」
早瀬は、机の上で、大きな手を組んだ。
「でも、ニナの中にいるのは、百人じゃない。一万二千人でしょう」
柚木の肩が、小さく動いた。
「十年間で、あの店に来た一万二千人。そのほとんどは、もうアストラにいない。やめた人。忘れた人。思い出したくない人もいるかもしれない。その人たちの言葉が、ニナの中に入っている」
「……はい」
「残った百人が、いなくなった一万二千人の言葉を、勝手に持っていく。それは、正しいことでしょうか」
俺は、答えられなかった。
考えたことがなかったわけじゃない。
でも、どこかで、考えないようにしていた。
「私は、あなたたちを責めているんじゃない」
早瀬は、首を横に振った。
「むしろ、うらやましいくらいだ。十年たっても、毎晩、道具屋に通う人がいる。作った側として、こんなにありがたいことはない」
早瀬は、少しだけ目を細めた。
「私も、道具屋の娘には、一度だけ会ったことがあるんですよ。ずいぶん昔に」
それから、まっすぐ俺を見た。
「だから、条件を出します」
柚木が、息を止めたのが分かった。
「ニナに言葉を残した人の、過半数。その人たちが、ニナを残すことに同意するなら、データを外に出すことを許可します」
「過半数……」
「同意しない人の言葉は、移す前に消す。それは法律の決まりです。でも、それとは別に、私の条件として。いなくなった人たちの半分以上が『残してほしい』と言うなら、それは、残った人のわがままじゃない。みんなの思い出です」
早瀬は、机の上の卓上カレンダーを見た。
「期限は、三月三十一日の二十三時。それまでに、過半数が集まらなければ、予定どおり、零時にすべて消します」
俺は、膝の上の拳を握った。
「……一万二千人のほとんどは、連絡先も分からないんです」
「分かっています」
「どうやって集めろって」
「それを考えるのは、私ではありません」
早瀬は、静かに言った。
「意地悪で言っているんじゃない。いなくなった人たちに届かないなら、それは、その人たちにとって、もう終わった世界だということです。終わった世界を、無理に開け直すことはしたくない」
早瀬は、立ち上がった。
「届くなら、開けましょう。私も、それを見てみたい」
◇
駅前のコーヒーチェーンで、柚木は、しばらく何も言わなかった。
カップを両手で持ったまま、テーブルの木目を見ていた。
ガロの店のカウンターを見るときのニナに、少し似ていた。
「……ごめんなさい」
やっと口を開いたと思ったら、それだった。
「何が」
「社長が、ああ言うのは、分かってた。たぶん、そう言うと思ってた。でも、言わないで連れてきた」
「先に聞いてたら、俺は来なかったと思うか」
「……分からない」
「来たよ」
俺は、冷めかけたコーヒーを飲んだ。
「あの人の言ってることは、正しい。ニナは、百人のものじゃない」
ガラス窓の外を、家族連れが通りすぎていった。祝日の午後だった。
ニナに言葉を残した一万二千人も、今ごろ、どこかで、こんなふうに休みの日を過ごしているのだろう。アストラのことなんて、思い出しもしないで。
「柚木さん。ニナに言葉を残した人の数、もう一回、教えてくれ」
柚木は、スマホを取り出して、画面を見た。
「一万二千四百十一人」
「過半数は」
「六千二百六人」
帰りの電車の中で、俺は、窓に映った自分の顔を見ていた。
一万二千四百十一人。
その過半数は、六千二百六人。
残り、十一日。




