霧の森の夜
サービス終了まで 残り14日
「その人、きのうの明け方のメンテナンスで、直さなかったんだろ」
ゼロが、噴水のふちに座ったまま言った。
次の日の夜だった。
港での話を、俺はゼロにだけ話した。ガンテツに話せば、黄昏亭じゅうに広まる。ミオに話せば、港へ殴りこみに行く。
「直さなかった。でも、四月一日に消すのは、自分だって言った」
「会社の仕事なんだろ」
「仕事だからって、消していいのか。あいつは、こわいって言ったんだぞ」
ゼロは、しばらく黙っていた。
それから、噴水の水面を見ながら言った。
「お前に似てるな、その人」
「……は?」
「何も言わないで、ひとりで抱えて、それがいちばんいいと思ってる」
俺は、言い返そうとして、言葉が出てこなかった。
「おれも人のことは言えないけどな。五年前、何も言わずにやめた」
ゼロは、片方の口の端だけで笑った。
「似た者が三人そろってるわけだ。ややこしいな」
ゼロの頭の上に、月のマークが浮かんだ。【離席中】。
次男が泣いたらしい。
俺は、固まったゼロの横で、しばらく噴水を見ていた。
◇
ガロの店の鈴が鳴ったのは、二十二時を少し過ぎたころだった。
その夜の当番は、ミオだった。俺も、早めにログインして、カウンターの前に座っていた。
入り口に、灰色のフードが立っていた。
ミオが、椅子から立ち上がった。
俺も、立ち上がった。
十年間、店の前を通るだけで、一度も入ってこなかった人が、扉の内側に立っていた。
「よう、いい天気だな」
ガロが言った。
柚木は、ガロを見上げて、小さく頭を下げた。
カウンターの向こうで、ニナが顔を上げた。
「いらっしゃいませ! ……シオさん」
ニナは、目をぱちぱちさせた。
「いつも、お店の前を通るだけで、何も買わない人」
「言い方!」
ミオが叫んだ。
柚木は、フードの下で、少しだけ口の端を動かした。笑ったのかもしれない。
「……うん。何も、買わない人」
「初めて入ってきてくれましたね」
「うん」
柚木は、カウンターの前まで歩いてきた。
でも、そこで止まって、何も言わなかった。
何を言いに来たのか、本人にも分かっていないように見えた。
ニナは、カウンターの向こうから、柚木の顔をじっと見ていた。
首を、少しかしげる。それから、反対側に、かしげる。
「……あの」
ニナの声が、少し変わった。
「あなた、最初に、わたしに『おはよう』って言った人ですね」
柚木の肩が、はねた。
「顔は、知りません。声も、知りません。でも、話し方で、わかります。言葉の区切り方とか、言う前に、ちょっと黙るところとか」
ニナは、カウンターの上で、両手を組んだ。
「わたしが、生まれて、最初に聞いた言葉です。『おはよう』。真っ暗な中で、それだけ聞こえて。あとで、皆さんの話を聞いて分かりました。あれは、朝のあいさつなんだって」
ニナは、くすっと笑った。
「でも、あのとき、たぶん、夜中でしたよね」
柚木の口が、小さく開いた。
「……三時だった」
かすれた声だった。
「十年と、四か月前の。夜中の三時。会社で、三人で、やっと動いたって。何か言ってみようって。わたしが、一番に、打った」
「夜中の三時に、おはようって」
「……だって、あなたの、朝だと思ったから」
柚木の声が、途中で崩れた。
「メンテナンスのときの『大丈夫』も、あなたですね」
ニナは、言った。
「真っ暗な中で、また、あの話し方が聞こえました。だから、わたし、こわくなかったです」
柚木は、カウンターに片手をついた。
フードの下で、肩が震えていた。
ミオが、何か言おうとして、口を閉じた。
俺も、何も言わなかった。
ニナが、カウンターの上に、回復薬(小)を一本置いた。
「サービスです。シオさんは、十年分、何も買ってないので」
柚木は、その瓶を見下ろした。
NPCからは物を受け取れない。柚木は、それを、だれよりもよく知っているはずだった。
それでも、柚木は、その瓶に手をのばした。
指先が、瓶をすり抜けた。
「……受け取れない」
「知ってます」
「わたしが、そう作ったから」
「知ってます」
ニナは、にっこり笑った。
「でも、置きたかったんです」
◇
二十三時半。
俺たちは、北の霧の森の入り口にいた。
今夜の二十四時で、ここが閉じる。
ハナばあに、ついてきてほしいと頼まれたのだ。柚木も、なぜか、黙ってついてきた。
霧の森は、名前のとおり、いつも白い霧に包まれている。
苔むした巨木のあいだを、細い道が奥へ続いていて、その先に、妖精たちの住む小さな村がある。
村のはずれに、キノコの形をした小屋があった。
「リルちゃん」
ハナばあが、小屋の前で呼んだ。
小屋の窓から、手のひらくらいの小さな妖精が顔を出した。羽が、霧の中で淡く光っている。
種屋のリル。花や野菜の種を売っているNPCだ。
「今日も、いい芽が出ますように」
リルが、決まったセリフを言った。
「六年間、毎週ここで種を買ってたの」
ハナばあは、小屋の前の切り株に腰を下ろした。
「わたしの畑の花は、みんな、リルちゃんの種から咲いたのよ。陽太が来なくなってからも、リルちゃんだけは、毎週、いい芽が出ますようにって言ってくれた」
ハナばあは、リルから、最後の種を一袋買った。
「今日も、いい芽が出ますように」
「ありがとう。リルちゃんも、元気でね」
リルは、もう何も言わなかった。
二十四時。
霧が、白くなった。
もともと白い霧が、もっと白く、紙みたいに白くなって、巨木も、苔も、キノコの小屋も、全部その中に溶けていった。
最後まで、窓から、小さな羽の光が見えていた。
【霧の森は閉鎖されました】
ハナばあは、手の中の種の袋を、そっと握った。
「さ、帰りましょうか。あの子に、お土産話をしなくちゃ」
ハナばあは、からからと笑って、立ち上がった。
笑いながら、目元をぬぐうしぐさをした。
◇
リュネへ戻る転移門の前で、柚木が、急に立ち止まった。
俺も、立ち止まった。
ミオとハナばあは、先に門をくぐっていった。
柚木は、灰色のフードを、ゆっくりと外した。
短く切った黒い髪。目の下の隈。アバターなのに、隈まで本人に似せてあるのだろうと思った。
「さっき、あの子に言われて、思い出したの」
柚木は、閉じた森の方角を見ていた。
「十年前、あの子を作ったとき、三人で約束した。いつか、ちゃんと話せるようにしてあげようって。会社に止められても、いつか」
「……」
「九年間、何もしなかった。消さないことしか、しなかった」
柚木は、俺のほうを向いた。
港で見たときより、目の疲れが、少しだけ違って見えた。
疲れているのは同じだった。でも、その奥で、何かが決まったような目だった。
「……一つだけ、方法がある」
閉じた森の方角で、霧の白が、まだかすかに光っていた。




