消す係
サービス終了まで 残り15日
午前二時の五反田のオフィスには、わたし一人しかいなかった。
ルミナスゲート、第二開発部。
机は二十四ある。そのうち二十三は、空いている。ほかの部の人たちは、新しいスマホのゲームの開発で、別のフロアに移っていった。
残っているのは、窓ぎわの、わたしの机だけだ。
ディスプレイに、メンテナンスの手順書が開いている。
上から三行目に、事業部長の字で、こう書き足されていた。
『リュネ道具屋NPCの挙動修正(ユーザーからの問い合わせあり)。会話機能の出力を停止状態に戻すこと』
問い合わせてきたのは、一人。真壁透。ゲームの中の名前は、マカベ。
十年前から、毎晩、ニナの店で回復薬を三つ買っていく人。
わたしは、サーバーの管理画面を開いた。
NPCの一覧。そのいちばん上に、試作一号、NIN-A01。わたしたちが「ニナ」と名前をつけた子。
状態は「休止中」。メンテナンスのあいだは、ゲームの中のすべてが止まっている。
ニナも、真っ暗な中で、眠っている。
出力停止のスイッチは、画面の右下にある。
押せば、ニナはまた「いらっしゃいませ」と「まいどあり」と「またのお越しを」しか言えなくなる。九年前に、わたしたちがそうしたように。
わたしは、マウスから手を離した。
かわりに、管理画面の下の、開発用の入力欄に、カーソルを置いた。
ここに文字を打てば、ニナの耳に、声として届く。十年前、ニナを作った夜に、何度も使った入力欄だ。
何を打てばいいのか、分からなかった。
五分くらい、点滅するカーソルを見ていた。
結局、三文字だけ打った。
大丈夫。
送信してから、両手で顔を覆った。
何が大丈夫なのか、自分でも分からなかった。
六時前、わたしは、作業報告の欄に、一行だけ書いた。
『該当NPCの異常な挙動は、再現できず。対応不要と判断』
◇
夜の港は、昼間よりずっと暗かった。
坂の上の家々の窓に、明かりがぽつぽつとついている。その下の海は、ほとんど黒い。
桟橋の板を踏むと、ぎし、と鳴った。
いちばん端の桟橋の先に、灰色のフードが座っていた。
「来たのね」
シオは、振り返らずに言った。
「呼ばれたからな」
俺は、シオの横に立った。
海の上に、浮きが一つ、浮いていた。月の光を受けて、白く光っている。
ミオの話だと、この桟橋の先では、何も釣れないらしい。
「名前、聞いていいか」
「柚木千尋」
あっさりと、本名が返ってきた。
「株式会社ルミナスゲート、第二開発部。アストラ・リンクの保守担当。この二年は、わたし一人」
「……一人?」
「一人。サーバーの管理も、不具合の対応も、お知らせを書くのも。メンテナンスも」
柚木は、竿の先を、少しだけ持ち上げた。
「明け方のメンテナンスも、わたしがやった」
俺は、柚木の横顔を見た。
「直さなかったのか」
「直さなかった」
「なんで」
「……再現できなかったから」
うそだ、と思った。
柚木は、俺の顔を見ずに、続けた。
「って、報告書には書いた」
しばらく、波の音だけが聞こえた。
ニナが、メンテナンスのあいだに聞いたという声。女の人の声で、「大丈夫」。
あれは、たぶん、この人だ。
「ニナの声は、聞こえてたのか。この十年」
「聞こえてない。わたしには、あの子の言葉は、ログの文字でしか見えない」
「じゃあ、あの子のことは、どこまで知ってる」
柚木は、しばらく黙っていた。
それから、竿を膝の上に置いた。
「全部」
◇
「十年前、会社は、話すNPCを作ろうとした」
柚木の声は、平らだった。ミオが言っていた、報告書を読み上げるような声だ。
「プレイヤーの言葉を聞いて、覚えて、返す。仕組みの名前は『ことのは』。作ったのは、わたしと、あと二人。試作の一号に選ばれたのが、始まりの町の道具屋の娘だった。全員が最初に会うNPCだから」
「ニナ」
「そう」
柚木は、海を見ていた。
「最初の一年、話す側は、試しに、ごく一部の時間と客にだけ動かしていた。千人に一人くらい。あなたは、たぶん、当たらなかった。……それで、サービスが始まって一年で、ことのはは止められた。NPCが変なことを言う、という苦情が来たのと、お金がかかりすぎたのと。わたし以外の二人は、そのあと会社を辞めた」
「止められたのに、なんで、今」
「止めたのは、話す側だけだったから」
柚木は、膝の上の竿を、指でなぞった。
「聞く側と、覚える側は、止めなかった。止めるのを、わたしが忘れたことにした」
「……忘れたことに?」
「止めたら、それまでに覚えたものが、全部消えるから」
柚木は、それ以上、説明しなかった。
「だから、ニナは、九年間、聞き続けた。店に来た人の言葉を、全部。何も言い返せないまま」
十年分の「いらっしゃいませ」。
十年分の「まいどあり」。
あの笑顔の奥で、ニナは、全部聞いていたのだ。
俺の「辞めたい」も、「あいつ、今日も来ない」も。
「じゃあ、なんで、三月一日から話せるようになったんだ」
「分からない」
柚木は、すぐに答えた。速すぎるくらいだった。
「調べてる」
それ以上は、聞いても答えない顔だった。
◇
浮きが、波で、ゆらりと揺れた。
「会社は、どうするつもりなんだ。ニナのことを」
「どうもしない」
「どうもしない?」
「サービスは、三月三十一日の二十四時に終わる。サーバーは、四月一日の零時に止まる。データは、その場で消す。会社の決まり。ゲームのデータは、外に出せない。プレイヤーの会話も、個人の情報だから、残しておけない」
柚木は、手順書を読み上げるように言った。
「ニナだけ特別扱いする理由は、会社にはない。ニナは、会社にとっては、十年前に失敗した試作品の、消し忘れ」
「消し忘れ……」
「明け方に直さなかったのは、わたしの勝手。あと十五日、黙っていれば、だれにも気づかれずに終わる。それが、あの子にとっていちばん静かな終わり方だと思った」
柚木は、そこで初めて、俺のほうを向いた。
「だから、あなたたちに言いたかったのは、それだけ。期待させないで、って」
フードの下の目は、ひどく疲れていた。
十年間、ここで、何も釣れない釣りをしてきた人の目だった。
「静かな終わり方、ってなんだ」
自分でも驚くくらい、声が低くなった。
「あいつは、こわいって言ったんだぞ。なくなるのが、こわいって。それを、黙って消えさせるのが、静かな終わり方か」
「……」
「だいたい、データを消すって、だれが消すんだ。四月一日の零時に。そのボタンは、だれが押すんだ」
柚木は、しばらく、何も言わなかった。
浮きが、また揺れた。今度は、波のせいではなかった。
竿を握る柚木の手が、震えていた。
「保守担当は、わたし一人だって、言ったでしょう」
柚木は、海に目を戻した。
「四月一日、零時。ニナを消すのは、わたしです」
桟橋の下で、波の音だけが、何度も鳴った。




