釣りの人
サービス終了まで 残り17日
釣りの人が、また、いた。
夕方の当番で、ガロの店のカウンターの前に座っていたときだ。
窓の四角の向こう、広場の噴水の陰に、灰色のフードが見えた。
わたしが顔を上げると、フードはすっと噴水の裏に引っこんで、それきり出てこなかった。
「ミオさん?」
ニナが、薬瓶を磨く手を止めた。
「どうかしましたか」
「ううん。なんでもない」
なんでもなく、なかった。
あの人を見るのは、これで四回目だ。
黄昏亭の集まりのとき。いちばん奥の柱の陰で、一人だけ手を挙げなかった。
草原の夜。花の道から離れた、遠くの丘の上に、灰色の影がぽつんと立っていた。
ゆうべ、ログアウトする前。店の窓の外を、ゆっくり通りすぎていった。
そして、今日。
名前は、シオ。港の桟橋で、いつも釣りをしている人。
十年近くいるらしいのに、マカベさんもガンテツさんも、話したことがないという。
「ニナ。あの、釣りの人って、お店に来たことある?」
「シオさんですか」
ニナは、少し考えた。
「お店の前は、よく通ります。窓から、中を見ていきます。でも、入ってきたことは、一度もありません」
「一度も?」
「十年で、一度もです。何も買わない人です」
わたしは、立ち上がった。
「ちょっと、出てくる」
「当番は、どうしますか」
「すぐ戻る!」
店を飛び出すと、広場の向こうで、灰色のフードが角を曲がるのが見えた。
◇
わたしの名前は三浦澪。高校二年。
学校では、だいたい一人でいる。
いじめられているわけじゃない。ただ、一年の四月に風邪で一週間休んだら、戻ったときには、教室のグループが全部できあがっていた。それだけだ。
昼休みは、イヤホンをして、スマホで配信のアーカイブを見る。
放課後は、まっすぐ家に帰って、リンカーをかぶる。
アストラを始めたのは、二年前の九月だった。
とっくにさびれていて、だれもわたしのことを知らない世界。それがよかった。
ニナに、その日のわたしのひとりごとを言われたとき、心臓が止まるかと思った。
だれにも知られていないと思っていた場所で、ずっと、知られていた。
恥ずかしかった。
でも、それより、少しだけ、うれしかった。
そのことは、まだ、だれにも言っていない。
◇
灰色のフードは、町の転移門から、港町ポルタへ飛んだ。
わたしも、すぐに飛んだ。
ポルタは、リュネの南の港町だ。白い漆喰の家が坂に並んでいて、その下に、青い海が広がっている。
夕暮れだった。海も、家の壁も、桟橋の板も、全部オレンジ色に染まっていた。
灰色のフードは、坂を下りて、いちばん端の桟橋へ歩いていく。
わたしは、坂の途中の樽の陰に隠れた。
顔だけ出して、様子をうかがう。
フードの人は、桟橋の先に腰を下ろして、釣り竿を出した。
糸を投げる。浮きが、海の上に、ぽつんと浮かぶ。
それきり、動かなくなった。
五分。十分。
浮きは、ぴくりともしない。
わたしが、樽の陰で足がしびれ始めたころ、フードの人が、振り返らずに言った。
「その樽、中身ないから」
「……え」
「中身のない樽は、半分透けてる。隠れても、見えてる」
わたしは、樽を見下ろした。
たしかに、うっすら透けていた。樽の向こうの、わたしの膝が見えている。
「……先に言ってよ」
「今、言った」
わたしは、観念して、樽の陰から出た。
◇
桟橋の先まで歩いていって、フードの人の隣に立った。
近くで見ると、フードの下の顔は、ふつうの女の人だった。
三十代くらい。目の下に、うっすら隈がある。アバターに隈をつける人は、珍しい。
「釣れる?」
「釣れない」
「ずっと釣れないの?」
「ここの魚は、十年前から、数が決まってる。釣れる時間も、場所も、決まってる。この桟橋の先は、何も釣れないように作ってある」
「じゃあ、なんでここで釣ってるの」
「静かだから」
シオさんは、浮きを見たまま言った。
わたしは、遠回しに聞くのが苦手だ。
だから、まっすぐ聞いた。
「あなた、運営の人?」
浮きが、波で小さく揺れた。
シオさんは、しばらく何も言わなかった。
否定しないのが、答えみたいなものだった。
「ずっと、見てたよね。黄昏亭も、草原も、お店の前も」
「……見てた」
「なんで」
シオさんは、竿を少しだけ持ち上げて、また下ろした。
「あの子に、あまり期待させないで」
「期待?」
「外に出られるとか。残れるとか」
シオさんの声は、平たかった。
怒っているのでも、悲しんでいるのでもない。報告書を読み上げるみたいな声だった。
「期待したぶんだけ、最後が、つらくなる」
わたしは、かっとなった。
「じゃあ、何もするなってこと? あと十七日、ニナに、何も見せないで、黙って消えるのを待ってろってこと?」
「そうは言ってない」
「言ってるじゃん」
「言ってない」
シオさんは、やっと、わたしのほうを見た。
疲れた目だった。
でも、その奥で、何かがぐらぐら揺れていた。
「……言って、ない」
三回目は、ほとんど、自分に言い聞かせているみたいだった。
わたしは、それ以上、何も言えなくなった。
シオさんは、また浮きのほうを向いた。
夕日が、海の向こうに沈みかけていた。
「あなた、あの子の話、どこまで知ってるの」
わたしが聞くと、シオさんは、ゆっくり首を横に振った。
「帰りなさい。当番、あるんでしょう」
当番表のことを、どうして知っているのか。
聞こうとしたけれど、シオさんはもう、こっちを見なかった。
◇
リュネに戻る転移門の前で、わたしは、フレンドでもない人のプロフィールを開いた。
名前を指で押すと、だれでも見られる、簡単な情報が出てくる。
名前。称号。所属ギルド。登録日。
シオ。称号なし。ギルドなし。
登録日のところで、指が止まった。
アストラ・リンクのサービスが始まったのは、十年と二か月前の、一月十五日だ。
最初の日に始めたプレイヤーは、「初日組」と呼ばれて、ちょっとした自慢になる。ガンテツさんも、初日組だと言っていた。
シオさんの登録日は、一月十四日だった。
サービス開始の、前の日だった。




