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第8話 カラオケ大会の人数合わせ

 少女漫画の法則によれば、カラオケのデュエットでは、必ず距離が縮む。

 一本のマイクを二人で使うか、同じ画面の歌詞を二人でのぞきこむか。どっちに転んでも、肩が触れる。百冊読んで、例外は一冊もなかった。

 つまり今夜、私の肩は、触れる。


 だから、タンスを開けた。

 作業着ではない服は、相変わらず、この一着しかない。先週の土曜日、作業着を買いに町へ行ったときのワンピースだ。

 運転手にも、身だしなみはある。スナックに泥だらけの作業着で行ったら、ママに失礼である。理屈は通っている。


 台所で、母が鍋をかき回しながら振り向いた。

「今夜も、作業着、買いに行くと?」

「……運転手やけん」

「運転手は、ワンピース着ると?」

 母は、それ以上は言わなかった。言わないで、にやにやした。母のにやにやは、言われるより効く。


 弟の部屋の戸が、少し開いていた。弟は机でスマホを両手に持って、今朝撮った映像をつなぎ終えたところだった。中学生は、ママの店には入れない。うちの母の決まりではなく、世の中の決まりである。

「光司くんに送ったけん。ネットに上げるとは、舟のとこだけにしてって言うといた」

 光司くん、というのは王子のことだ。弟はランドセルのころから、そう呼んでいる。

「なんで?」

「スイさんの顔は、上げたらいかんけん」

 画面から顔を上げずに、弟は言った。

 その背中が、少しだけ大きく見えた。もともと私より、頭一つ背の高い弟だけど。


 軽トラの助手席で、彼が私の服を見た。

「その服は、作業着を買いに行った日の服だ」

 覚えとったと!?

 体が固まった。足だけは、いつもの場所でブレーキを踏んだ。先週、家の前の坂で一回だけずれた足は、今夜はずれなかった。えらいぞ、私の足。

 王子は、歩いて来るらしい。王子の家は坂の途中で、店まですぐだ。うちは、そのずっと上にある。軽トラは二人乗りで、ちょうどよかった。

 ちょうどよかった、と思った自分には、気づかなかったことにした。


 スナック「いずみ」は、地区の坂の下にある。白い看板に、赤い字で店の名前が書いてある。

「あの字は、何と書いてある?」

 彼は、字が読めない。

「いずみ。泉の、いずみ」

「……泉か」

 彼は、看板を少し長く見ていた。店の名前が、泉。水の人には、たまらん名前やろう。

 戸を開けると、カラオケの音と、焼き鳥の煙と、地区のおじちゃんおばちゃんの笑い声が、いっぺんに出てきた。カウンターの端では、常連のおじちゃんが、手伝いで焼き鳥を焼いていた。


「あら、まめ。運転手が、よそ行きやないね」

 カウンターの中から、小柄なおばあちゃんが言った。真っ赤な口紅に、きれいに巻いた白い髪。

 私のワンピースに気づいたのは、今夜これで三人目だ。

 浦野千代さん。七十八歳。地区のみんなは「ママ」と呼ぶ。この店の主で、地区の顔役で、口が悪い。直売所で審判を探したとき、「日曜の昼は寝とんしゃあよ」と言われた人だ。土曜の夜は、地区でいちばん起きている。

「ウーロン茶でよかね。……で、そっちの男前は、こっちに座りんしゃい」

 ママは、彼の顔を見た。

 一秒くらい、見ていた。

 それから、にっと笑った。

「男前やねえ」

 ママも、男前に弱かったと?

 うちに来た朝、じいちゃんにも、同じことを思った。


  ◇


 王子は、焼き鳥が三本焼けたころに来た。坂を歩いて下りてきたので、前髪が少し崩れていた。戸口で、まず前髪を直した。

「王子は、いっつも前髪から先に入ってきんしゃあ」とママが言った。

「颯太が、編集してくれたぜ」

 王子はスマホを、店のテレビにケーブルでつないだ。常連のおじちゃんたちが、椅子ごとテレビのほうへ向きなおる。

 画面に、題が出た。


〔王子の初陣 撮影・編集 颯太〕


 弟は、題まで入れていた。

 分かれの升。二本の溝。泥だらけの四人。舟より先に走る審判。

「眼鏡の子が、いちばん速かね」とママが言った。

 舟が並んで、右の舟が渦で回って、抜け出す。店のあちこちから「おお」と声が上がった。

 そこで、画面にまた字が出た。


〔おまけ〕


 溝の前で泣いている彼が、大写しになった。

「男前が泣きよる」

「水が戻ってきたって、泣きよる」

 おばちゃんたちが、ため息をついた。彼は、テレビの中の自分を、不思議そうに見ていた。

 次に、王子の真っ赤な目が映った。泣こうとして泣けなかった、あの顔だ。店がどっと沸いた。

「そこは切れって言うたやろうが!」

 王子がスマホに叫んだ。叫んでも、テレビは止まらない。

 そして。

 画面いっぱいに、弟の鼻の穴が映った。

 十秒。

 長い。……長い!

 レンズに顔を押しつけたまま、弟の鼻息で、画面が曇ったり晴れたりしている。店が、揺れた。ママはカウンターを叩いて笑っていた。

 彼の手のひらは、どこにも映っていなかった。

 弟は、鼻の穴を隠さなかった。おまけの最後に、堂々と置いていた。みんなが鼻の穴で笑っているあいだは、なんで撮影係が顔をレンズに押しつけたのか、誰も考えない。

 颯太。あんた、天才なん? ばかなん? どっちなん?

「ネットには、舟のとこだけ上げた」と王子が言った。「颯太が、人の顔はいかんて」

 人の顔はいかん、と言った本人の鼻の穴が、店のテレビいっぱいに十秒出た。


 それから、ママがカウンターから身を乗り出した。

「さあ、始めるよ。今夜は歌う人の足らんけん、王子に、誰か連れてきんしゃいて言うとったと」

 いずみでは、土曜の夜にカラオケ大会がある。男前は、その人数合わせに連れてこられたらしい。

 カウンターの端に、歌いたい人が名前を書く紙と、鉛筆が置いてあった。

 私は、鉛筆を取った。


〔立花みのり・スイ デュエット〕


 曲は、昭和の終わりごろの、男と女が交代で歌う恋の歌にした。母が台所でよく口ずさんでいる歌だ。二番の終わりで、男と女の声が重なる。少女漫画なら、そこで目が合う。

 心の中の恋愛計画表に、そっと一行足した。〔その六 デュエット〕


 ママが、紙をのぞきこんだ。

「あら、よか歌ね」

 よし。

 ママは鉛筆を取ると、私の名前を消して、横に「王子」と書いた。

「男前と王子で歌いんしゃい」

「なんでですか!」

「女の子と男前のデュエットやら、見飽きとるとよ。男前と王子のほうが、面白か」

「うちは一回も見とらんです!」

 見飽きるほど見たいのは、こっちである。

 ママはもう、王子にマイクを渡していた。歌う人が足りないと言ったのは、ママである。私の選んだ恋の歌は、王子と男前のものになった。


 王子と彼が、マイクを一本ずつ持たされた。画面に、歌詞が流れはじめる。

 彼は画面を見て、首をかしげた。

 看板の字も読めない人に、流れる歌詞が読めるわけがなかった。

 彼は耳だけで、王子の歌を追いかけた。追いかけて、一行遅れて、ぜんぜん違うところに、故郷の水汲みの掛け声を入れた。

「よいや、さあ」

 王子は、主旋律を取られまいと声を張った。彼は、もっと大きな掛け声で応えた。眉を寄せて、目だけ笑っていた。王子が、さらに張った。

「それ、恋の歌やけん!」

 私の叫びは、おじちゃんたちの手拍子にかき消された。

 私が予約したのは、恋の歌だった。

 今、二つの村が戦っている。

 私はひとりで、ウーロン茶を握りしめていた。


 歌い終わると、ママが点数を言った。

「王子、六十点。男前、九十点」

「おかしいやろ! あいつ、歌詞一個も合っとらんやん!」と王子が叫んだ。

「声のよか」

 声て。

 マイクを置いた彼が、私の横に戻ってきて、小さく言った。

「でゅえっと、とは、二人で歌うことか」

 今ごろ分かっても、遅い。


  ◇


「男前」

 ママが、カウンターに肘をついた。

「あんたの国の歌ば、一個歌いんしゃい」

 店が少し静かになった。外国から来た人の歌、というので、みんなが聞きたそうな顔をしている。

 ママがマイクを差し出した。彼は少し考えてから、受け取らずに首を振った。

「伴奏は、ない。……みんなに分かる言葉で、歌う」

 そして、立ったまま、目を少しだけ伏せた。


「泉の水を 一杯汲んで」

「段の畑へ 運んでゆこう」

「こぼすな こぼすな 桶の水」


 低い声だった。カラオケの機械が黙った店の中を、彼の声だけが、まっすぐ通っていった。

 焼き鳥を焼くおじちゃんの手が止まった。手拍子をしかけた手も、止まった。

 私は、彼の顔を見ていた。

 歌っているあいだ、彼はここにいないみたいに見えた。歌の中の段の畑の、泉のそばで、私の知らない人たちと、私の知らない桶を運んでいるみたいだった。

 遠い、と思った。

 跳んでも、届かないくらい。


 歌い終わって、彼が顔を上げた。

 それから、私のほうを向いた。

「この歌には、返しがある。水を受け取る畑の者が、歌う」

 店じゅうの目が、こっちを向いた。

「……君に、頼みたい」

 心臓が、跳ねた。

 え。うち? 王子でも、ママでもなく、うち? 王子だって、畑の者なのに。

 百冊の少女漫画のどこにも、水汲みの歌の返しに指名される場面はなかった。なかったのに、顔が、勝手に熱くなった。


 彼が、返しの節を一行ずつ教えてくれた。

「受け取りました 一杯の水」

「来年の実で 返します」

 簡単な節だった。簡単なのに、一回目で声が裏返った。

「……もう一回」

 二回目を歌いはじめたとき、横から、もう一つの声が重なった。

 ママだった。グラスを拭きながら、私より半拍早く、「来年の実で 返します」と小さく口ずさんでいた。

「ママ、歌い出すと、早すぎん?」

「この歳になれば、次に何の来るかくらい、分かるとよ」

 その能力で、注文したウーロン茶のおかわりも、先に出してほしい。


 三回目は、ちゃんと出た。

 彼が「こぼすな こぼすな 桶の水」と歌う。私が「受け取りました 一杯の水」と返す。

 彼の声と私の声が、店の中で一往復した。

 来年の実で、返します。

 歌いながら、目印の木の、今年は花が四十一しかなかった枝を思い出した。来年は、見ときーよ。


 結局、今夜私が歌ったのは、水汲みの返しの二行だけだった。

 デュエットでも、恋の歌でもなかった。肩も、触れなかった。

 ……もういい。今日は、これで勝ちにする。


  ◇


 帰りは、王子が先に坂を上っていった。

「スイ。井戸は、親父に話ば通すけん、来月な」

「……来月」

 彼は、一か月を指で数えそうな顔をした。


 帰りの軽トラで、彼が言った。

「さっきの返しは、でゅえっと、だったのか」

 家の前の坂で、ブレーキを踏む場所が、また一回だけずれた。

「……ちがう。あれは、水汲み」

「そうか」

 彼は、窓の外の、暗い海のほうを見た。

「王子と歌ったのより、水が、こぼれなかった」

 答えられなかった。答えたら、きっと、声が裏返る。


 十時を過ぎていた。

 庭で、彼が足を止めた。段々畑のいちばん上のほうを、見上げている。

「上のバケツが、変だ」

 ポンプ小屋の前のバケツだ。

 懐中電灯を持って、二人で上がった。ワンピースに長靴。少女漫画なら、夜の坂道では手をつなぐ。私の手には、懐中電灯があった。

 持ってこんかったらよかった。


 バケツの水面から、濡れた小さな頭が出ていた。

 わせだ。カワウソに似た、手のひらほどの獣。向こうの村から、手紙を運んでくる。前に来たときは、祖父の高いハウスみかん一個で手を打った。

 わせは背中の油紙の袋を揺すってから、前足の爪を、二本立てた。

「二つ、と言っている」と彼が言った。「夜は、高いらしい」

「夜間料金!?」

 ハウスみかんは、もうない。露地のみかんは、秋まで採れない。

「ちょっと待っとって!」

 懐中電灯を彼に押しつけて、スマホのライトをつけた。ワンピースの裾をつかんで、作業道を早足で下りる。段の角では、足をゆるめた。台所の棚から、いちばん大きいみかんの缶詰を取って、また上がった。

 息が切れた。二十キロのコンテナを担いで下りられる足でも、上りは別だ。


 缶切りの要らない缶だった。私が輪に指をかけて見せると、彼が引いた。中の汁は、一滴もこぼれなかった。この人は、缶詰の汁まで粗末にしない。

 私は、懐中電灯を取り返した。

 わせは、缶をのぞきこんだ。前足でつついて、においをかいで、私を見て、彼を見た。

「これは、みかんか、と聞いている」

「みかん。中に、みかんが入っとー」

「何個分か、と聞いている」

「……二個分は、ある」

 たぶん、ある。房で数えたら、三個分はある。

 わせは缶を抱えようとして、重さによろけて、彼をにらんだ。文句を言っているらしい。それでも、缶は離さなかった。


 わせは缶をバケツのふちに置くと、彼の手のひらによじのぼった。

 彼は、慣れた手つきで、濡れた背中をなでた。わせが、目を細めた。

 そして、わせが、私を見た。

 勝ち誇った顔だった。

「……今、勝ったって顔したやろ」

 わせは返事のかわりに、彼の指に頬をこすりつけた。

 少女漫画のライバルは、たいてい、きれいな幼なじみか、お金持ちのお嬢様である。今夜、デュエットは王子に取られた。手のひらは、カワウソに取られた。

 この地区で、小さくてかわいがられる係を、私はずっとやらされてきた。なりたくてなった係ではない。でも、取られるとなると、話は別だ。


 油紙の袋から出てきたのは、折りたたんだ紙が一枚だった。私が懐中電灯で照らし、彼が開いて、声に出して読んだ。


   師匠へ。

   鍵は届きました。

   師匠が帰ってこないので、水当番の名簿を、勝手に改革しました。

   朝の当番を、早起きできる人の順にしました。

   村長には怒られました。師匠の名簿が古いせいです。

   でも、桶は全部、朝のうちにそろうようになりました。

   師匠の名簿のときより、三軒ぶん早く終わります。

   生きているなら、腹を出して寝ないでください。

   ミロ


 腹を出して寝る彼を、一瞬だけ想像しかけて、やめた。離れのほうは、見ないようにした。

 読み終えた彼の顔が、変わった。口の端が下がって、眉が寄って、それなのに目は笑っている。

「……あいつ」

 その顔は、今夜、王子と声を張り合っていたときの顔と同じだった。言い合いたい相手が、この人には、こっちにも、バケツの水の向こうにもいるらしい。


 彼は野帳の後ろのページを一枚破って、返事を書いた。前の「鍵は返す。生きている」より、ずっと長かった。

 わせは返事を袋にしまうと、缶詰を抱えて、バケツに頭から飛びこんだ。水面が一度揺れて、それきりだった。

 彼は野帳を閉じかけて、やめた。開いたページの余白に、短く何か書き足した。波紋みたいな、丸い字だった。

「何て書いたと?」

「水の記録だ」

 それだけだった。

 前に、この人が野帳に「ここで、二人で直した」と書いたとき、私は、読めなくてよかったと思った。

 今夜は、読みたかった。

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