第7話 笹舟一艘ぶん
九時からの勝負である。八時に分かれへ下りていったら、審判がもう杭を打っていた。
……早すぎん?
力丸さんだった。休みの日の力丸さんは、首にタオル、足に運動靴。眼鏡と紙ばさみだけが、平日のままだった。
「おはようございます。私用で来ました」
杭は二本。右の溝と左の溝に、一本ずつ。舟を放す場所の目印だ。
「土管までの長さが、二本とも同じになるところに打ちました。十九メートル八十センチです」
「いつ測ったと?」
「六時です」
休みの日の、六時。この人の「私用」は、たぶん、うちの「仕事」より重い。
力丸さんは鞄から、透明な箱を出した。中で、笹舟が二艘、行儀よく並んで寝ていた。
「同じ株の笹で、定規で測って作りました」
笹舟に、定規。
それから力丸さんは、紙ばさみを開いて、決まりを読みあげた。
「確認します。溝は、一組一本。九時から十一時まで、さらいます。十一時に、私が二艘を同時に放します。舟の先が下の農道の土管に入ったところで、決まりです。勝った場合、吉武さんは『地区の若手の代表』。そちらの方は『吉武さんの井戸の見学』」
「うちの分は?」
「ありません」
即答だった。ちょっと傷ついた。
「それから、右の溝は、石垣の出っぱりをよけて、土管の手前で一度曲がっています。左は、まっすぐです。条件の差として、記録します」
その右の溝が、私と彼の受け持ち。水の少ないほうだ。自称みかん王子こと隣の園の吉武と、うちのじいちゃんの組は、水の多い左の溝。
しかも右の溝の水は、月曜日の夕方に彼が言ったとおり、途中でどこかへ逃げている。
不利の上に、不利が乗っていた。
分かれの升の横では、弟の颯太がスマホを構えていた。
「光司くんに、撮っとってって頼まれたけん。王子の初陣。ネットに上げるとって」
ネット。
その一言が、のどに小骨みたいに引っかかった。
「あんた、どっちの味方と?」
「撮影は中立。応援は別」
弟は真顔で言って、私にだけ聞こえる声で付け足した。
「撮る係になっとけば、何を撮らんかは、俺が決められるけん」
あんた、いつの間にそんな悪い顔ができるようになったと?
この秘密は俺が守る、体張ってでも、と漫画の第一巻に右手をのせて誓った弟の、初仕事らしかった。
王子が、作業着でスコップと鍬をかついで、石垣を越えてきた。前髪は、決まっていなかった。本気の日は、決めないらしい。
作業場のほうからは、祖父が一輪車を押してきた。載っているのは、くすんだ赤の機械。ところどころ塗りがはげている。
中古の動力噴霧器である。エンジンで水や薬を勢いよく噴き出す機械だ。木曜日に軽トラで引き取ってきて、その夕方、作業場の前で何度も水を通して洗っていた。
「じいちゃん、それ、何に使うと?」
「溝ば、吹く」
石のすき間の泥を、水で吹き出すつもりだ。
分かった。分かってしまった。嫌な予感しかしない。
王子だけが、目を輝かせて「おお」と言った。
九時。力丸さんが、紙ばさみを胸に当てた。
「始めてください」
私は、真っ先に右の溝に手を突っこんだ。月曜日、水に沈んでいた小枝。まず、あいつからだ。
◇
左の溝は、速かった。腹が立つくらい、速かった。
王子のスコップは、ざく、ぼと、ざく、ぼと、と調子が一度も崩れない。祖父は王子の三歩先を歩いて、ときどき止まった。
「そこは、毎年、石のたまる」
王子がスコップを入れると、本当に石が出てきた。
毎年いちばんに文句を言っていた人が、溝のどこに何がたまるかを全部覚えていた。あの文句は、六十年分の下調べだったらしい。
右の溝は、遅かった。
小枝を取って、底の泥と落ち葉をさらう。夏の藻かきで、体が覚えている。
それなのに、さらっても、さらっても、水が増えない。
なんで増えんと?
左の溝のほうで、エンジンの音がした。
祖父が噴霧器を岸の平らなところに据え、吸い込みのホースを、左の溝の上のほうの澄んだところに沈めていた。始動の紐は二回目でかかった。噴き出すほうのホースの先が、溝へ回りかけた。
「茂さん」
力丸さんの声だった。
「その機械に、前の持ち主さんが何を入れていたか、記録はありますか」
「なか。……洗うた」
「洗っても、残るものがあります。何が入っていたか分からない機械の水は、田んぼへ行く溝には入れないでください」
祖父は、ホースの先を見た。溝を見た。下の田んぼを見た。それから黙ってエンジンを止め、吸い込みのホースを溝から上げて、スコップに持ちかえた。
設備投資、デビュー戦で出場停止。
麦わら帽のつばが、ほんの少しだけ下を向いた。
その一分のあいだに、右の溝では、別のことが起きていた。
力丸さんも、王子も、祖父も、噴霧器を見ていた。それを確かめてから、彼は溝のふちにしゃがんで、溝の水を手のひらに受けた。そして、小さく頭を下げた。
水を手のひらに受けたままのお辞儀は、初めて見た。
「石垣の下は、目では見えない。こうしないと、聞こえない」
手のひらの水が、ひとりでに動いた。細くのびて、方位磁針の針のように、すうっと石垣のほうを指した。
ちょ、それ、人に見られたらいかんやつやん。
こっちを向いていたのは、颯太のスマホだけだった。スマホは、右の溝ぜんたいを撮っていた。その画面の真ん中に、彼の手のひらが入った。
次の瞬間、弟の顔が、スマホのレンズにべたっと貼りついた。
「……颯太?」
「鼻が、かゆかった」
かゆいわけないやん。
弟は、本当に体を張った。顔面で。
撮影係の初仕事の記録は、撮影係の鼻の穴の記録になった。
「石垣のほうへ、逃げている」
彼は手のひらの水を溝に返して立ち上がり、右の溝に沿って三歩下りた。
「……ここだ」
石垣寄りの、土のままの岸だった。水ぎわの草の根元に、親指より太い穴が、いくつもあいている。穴のまわりの土だけ、黒く湿っていた。
知っとー、この穴。夏の藻かきで、毎年見ている。
「ザリガニの穴やん!」
ザリガニは、溝の岸に穴を掘って住む。水ぎわの穴は、そのまま溝の水の抜け道になる。抜けた水は、石垣の下へ回っていた。月曜日に彼が言った「どこか」は、ここだった。
彼が、穴の縁の土の湿りを指で確かめた。その瞬間、穴の奥から赤い大きなはさみが飛び出して、彼の人さし指をがっちりはさんだ。
「振り払いー!」
彼は、振り払わなかった。痛そうな顔のまま、じっと待っている。ザリガニが、自分から離すのを。
なんで待つと? 相手はザリガニやん。この人は、ザリガニにまで礼儀正しい。
颯太が、升の横からバケツを持って飛んできて、ザリガニを受けた。
「俺が飼う」
「飼うのは、かまいません。外に放すのは、いけません。決まりがあります」
左の溝のほうから、力丸さんが振り向きもせずに言った。アメリカザリガニは、捕まえて持ち帰ったら、外に放してはいけない決まりがある。この人、耳でも審判しとー。
穴は、さらった泥でふさぐ。溝の底の泥は、よく粘る。
「押さえとって。そこ、動かさんで」
上から三段目の水の管を、二人で直した日と同じ言い方になった。彼が両手で岸の土を押さえる。私が泥を詰めて、かかとで踏む。踏む。踏む。
その場しのぎだ。ちゃんと直すのは、来月の地区の溝さらい。今日は、十一時までもてばいい。
気づくと、王子が石垣の上から、ふさいだ穴を見下ろしていた。
「おれんとこの石垣の下に、水の回りよったとか」
王子の園の石垣だ。水が回り続ければ、いつか崩れる。
王子は自分の溝に戻ると、バケツに泥を一杯すくって、黙ってこっちへ運んできた。
「……勝負中やろ」
「勝負と石垣は、別たい」
ちょっと、かっこよかった。悔しいので、言わない。
◇
穴を全部ふさぐと、右の溝の水が変わった。
増えた。見て分かるくらい、増えた。
「水が、戻ってきた」
彼が言った。
見ると、泣いていた。
うちに来た朝、ザリガニのいる用水路の前で泣いた人である。今日は、ザリガニに指をはさまれた溝の前で泣いている。この人の涙は、だいたいザリガニの近くで出る。
颯太のスマホが、今度は堂々と彼に向いた。
それを見た王子が、自分の溝の前に、ずいっと立った。
「おれだって泣ける!」
いや、張り合うとこ、そこ?
王子は左の溝をにらんだ。目をかっと見開く。まばたきを我慢する。顔がだんだん赤くなる。
……出ない。
涙は一滴も出ないまま、目だけが真っ赤になった。泣くより、よっぽど痛そうだった。
「泣くのは、採点に入りません」と力丸さんが言った。
十時半。左の溝は、もう底の石が全部見えるくらい、ぴかぴかだった。
まずい。このままやと、普通に負ける。
彼は涙をそのままにして、右の溝に入った。底の小石を拾って、溝の真ん中に二列に並べはじめた。
「何しよーと?」
「水を、細くしている」
二列の石のあいだに、もう一本、細い溝ができていく。私も一つ置いてみた。水があふれて、横へこぼれた。なんで? 彼が私の石を指一本ぶんずらすと、水はぴたりとまっすぐになった。
「少ない水は、広げると遅い。薄いと、舟の腹が底に触る。細くすれば、深くなって、速くなる。村の水路は、全部そうしている」
溝のあちこちには、王子の白い斜面から散ったみかんの花びらが引っかかっていた。
水かさが上がって、その花びらが浮いた。細くなった水に乗って、一列になって走りだした。
見えた。
私の目にも、水の通り道が見えた。
……きれいやん。
魔法ではない。手で石を並べただけだ。でも、どこにどの石を置けばいいのかは、この人にしか分からない。
「それ、さらうのうちに入るとや」と、隣の溝から王子が言った。
「溝の中の物を動かすのは、さらうに含みます」と力丸さんが言った。
最後に、彼は土管の手前の曲がりで手を止めた。力丸さんが、朝「条件の差」と言った曲がりだ。
「ここに、渦ができる」
曲がりの外側に、大きな石が一つ、半分土に埋まっていた。流れてきた水がこの石に当たって、くるりと回っている。
「それ、抜いたらいかんよ。その石が、曲がりで岸の削れるのを止めとーけん」
「……分かった」
彼は、その石には触らなかった。かわりに、渦のすぐ外側に、小石を三つ並べた。
「渦は、消せない。だが、舟の先がこっちを向けば、この筋が拾う」
◇
十一時。
勝負の四人は、膝まで泥だらけだった。
力丸さんが、二本の杭のあいだに立った。両手に一艘ずつ、定規で測った笹舟。
「同時に放します」
しゃがんで、二艘をそっと水に置く。手を離す。
離した瞬間、力丸さんが走り出した。
速っ。
土手を、農道に向かって一直線。舟より先にゴールに着く気だ。眼鏡を片手で押さえ、紙ばさみを胸に抱え、休みの日の運動靴で。いちばん本気で走っているのが、審判だった。
私たちも、溝に沿って早足で追った。
左の舟が、先に出た。水が多いぶん、すいすい下りていく。
右の舟は、出だしが遅い。遅い。……遅い!
でも、彼が並べた石の筋に乗ったとたん、舟が変わった。
まっすぐになった。迷わない。花びらと一緒に、細い水の上を、一本の線をすべるように走っていく。
差が、じりじり詰まる。
半分を過ぎたところで、並んだ!
「行けっ、左!」
王子の声。
「右っ!」
私の声。
土管の手前の曲がりで、右の舟が、渦につかまった。
くるりと、一回。
二回。
お願いやけん、回らんで!
左の舟が、隣の溝で追い抜いていく。
横で、彼が溝のふちに膝をつきかけた。指先が、水のほうへ伸びた。
力丸さんも、王子も、祖父も、颯太のスマホも、舟しか見ていなかった。
私だけが、彼の指を見ていた。
月曜日の夕方、私の舟を小枝の向こうへ越えさせた、あの手のひら一杯。あれを使えば、舟は一瞬で渦の外に出る。
指先は、水に届く前で、止まった。
それから、ゆっくり、手の中に握りこまれた。
三回目。
回りながら、舟の先が、外を向いた。
拾った。
彼が並べた三つの小石の筋が、舟の先をつかまえた。ふさいだ穴の分だけ太くなった流れが、舟の背中を押す。舟が、渦からはじき出された。
行け。行け、行け行け行け!
左の舟が、広い水の上で迷いはじめた。少しずつ岸へ寄って、土管の手前で、岸の草に引っかかった。くるっと、向きが変わる。
隣の溝を、右の舟が走り抜けた。
二艘が、隣り合った二つの土管に、続けてもぐった。
農道の上で、息を切らした力丸さんが、片手を上げた。
「右です」
眼鏡を押さえなおす。
「……舟一艘ぶん、です」
勝った。
勝った。勝った勝った勝った!
気づいたら、私は跳ねていた。二回、跳ねた。
「じいちゃん! 少なか水で、勝ったけんね!」
祖父は、麦わら帽をかぶりなおしただけだった。
◇
土手の上で、王子は空を見ていた。
「……井戸は、見せちゃる」
それから、こっちを見ないまま言った。
「次は、おれが勝つ」
「王子。いい水論だった」と彼が言った。
王子は、前髪を整えなかった。泥だらけの手の甲で、目のあたりを一回こすっただけだった。さっき出なかったものが、今になって出たのかもしれない。採点には、入らない。
私は、彼の横に並んだ。
「……なんで、押さんかったと?」
「水に誓った勝負だ。水に押させるわけにはいかない」
彼は、握っていた手を開いた。
「それに、押してくれた水があった。君がふさいだ穴の分と、石の分だ」
泥だらけの手だった。私の手も、泥だらけだった。少女漫画なら、ここで手が触れる。私たちの手は、触れたら泥が増えるだけだった。
それでも、増えてもいいと思った。思っただけで、手は作業着で拭いた。
力丸さんは、紙ばさみに結果を書いていた。
〔結果 右。舟一艘ぶん〕
〔備考 右の溝は、水が少ない。土管の手前に曲がりがある〕
「記録のために、お名前をうかがえますか」
力丸さんが、彼を見た。彼は背筋を伸ばした。
「スイラン・アルナ・ナギア・ルーダ」
全部言うと!?
止める間もなかった。力丸さんは聞き返さずに、一字ずつ、全部、書いた。
「記録は、正確なほうがいいので」
弟の身元資料の表紙と、同じ名前だった。四十ページのうち、いちばん正しかったのは、たぶんあの表紙だ。
月曜日に「少なか水でか」と言った人は、何も言わなかった。祖父はスコップを溝の水で洗って、帰りがけに、右の溝のふさいだ穴のところを、長靴の先で一回だけ踏んだ。
踏んで、もう一回見て、作業場へ戻っていった。孫の仕事を確かめたのか、来月の溝さらいの文句の種を探したのかは、分からない。
石垣を越える前に、王子が振り返った。
「スイ。今夜、いずみでカラオケ大会たい。人数の足らんてママが言いよった。打ち上げも兼ねて、来い」
「からおけ、とは」
「歌うと」
彼が、私を見た。
いずみは、地区の、お酒の出るスナックだ。
彼の帰りは、誰かが運転しなければならない。
「うちが、軽トラ出すけん!」
飲酒運転を防ぐのは、地区の若手の務めである。地区の若手は、王子と私しかいない。断じて、ほかの理由はない。
頭の中で、デュエットという言葉が、勝手に光った。
「……デュエット」
声に出ていた。
「でゅえっと、とは」
答えられるわけがなかった。答えたら、今夜の計画が全部ばれる。




