第6話 その勝負は試験設計が甘いです
〔芹ヶ浦地区 笹舟一本勝負〕
〔一、用水路の分かれから下の溝二本を、一本ずつさらう〕
〔二、土曜の朝九時から十一時まで〕
〔三、十一時に笹舟を流し、先に下の農道の土管にもぐったほうの勝ち〕
「種目、決めたぜ!」
朝七時なのに、うちとの境の石垣の上の王子は、前髪がもう決まっていた。
隣の園の吉武である。自分で自分を「みかん王子」と呼んでいる。きのう、直売所で「勝負せんや」と言い、種目を聞かれて「今から考える」と答えた人が、一晩で、のぼり旗みたいな大きな字で、紙を一枚書いてきた。王子はそれを、一息で読みあげた。ゆうべ鏡の前で何回読んだのかは、聞かないでおいた。
「きれいにさらったほうの舟が、速かけんな」
うちの段々畑の横を流れてくる用水路は、いちばん下で、二本の溝に分かれる。地区では、そこをただ「分かれ」と呼んでいる。そこから下の二本を、王子と、こっち側とで一本ずつ掃除して、最後に笹舟を流す。
掃除の腕を、笹舟で比べる勝負だ。
隣で、彼が顔を上げた。
「分け水か」
声が、いつもより少し高かった。
「一本の水を、二つに分けて配る。村では、分け水と呼ぶ。分け水は、水論の始まりだ。どちらが多い、どちらが少ないで、いちばん揉める」
水論。水の取り合いのけんかのことだ。
彼は王子を、まっすぐ見上げた。
「王子。いい種目だ」
王子の口が、半分開いたまま止まった。それから、前髪を整えなおした。本気で褒められると、この人の手は前髪に行くらしい。
「けんかの始まりを、褒めんでいいけん」と私は言った。「てか笹舟て。小学生の遠足やん」
口ではそう言った。頭の中では、別のページがめくれていた。
一本の溝を、二人でさらう。泥が跳ねる。少女漫画で、泥だらけの共同作業は、だいたい距離が縮む回である。
遠足でも、べつにかまわない。
作業場から、麦わら帽の祖父が出てきた。紙を見て、王子を見て、用水路の下のほうを見た。
「下の二本ば、さらうとか」
「そうです。土曜に」
「六月の溝さらいが、楽になるたい。……よか」
地区の溝さらいで、毎年いちばんに文句を言う人である。溝さらいに「よか」と言う祖父を、私は二十年見たことがない。
「審判は」と私は言った。
「目星はつけとる」
王子は、段々畑の上のほうを顎でしゃくった。上の段の木の前で、眼鏡の女の人が、まだ花を数えていた。
「JAの人たい。花の数ば調べて回りよる。うちは先週済んだ」
種目と、日取りと、決め方と、審判。王子は一晩で、全部そろえてきた。
自分の宣伝のこと以外では、この人は、本当にきっちりしている。
◇
三人で、上の段まで上がった。
池へ上がる道の脇の、あの木だった。私が毎朝、足を止めて花を数えている木だ。近くまで来ると、小さな声が聞こえた。
「……三十九。四十」
「四十一です」
最後の一つは、私の口のほうが先だった。
眼鏡の人が、顔を上げた。
「この枝を、数えてらっしゃるんですか」
「毎朝。……記録も」
胸ポケットの野帳を開いて見せた。彼が池に浮かんだ朝から、同じ数字が並んでいる。四十一、四十一、四十一。
「変わらないことも、記録です」
眼鏡の人は、私の野帳の数字を、自分の紙ばさみの紙に写した。毎朝の四十一が、JAの紙に載った。
それから眼鏡の人は、枝の根元を鉛筆で指した。色あせた赤いテープが巻いてあった。祖父の目印だと思っていたテープだった。
「JAの営農指導員の、力丸千景です。着花調査で回っています。決めた枝の花を数えて、今年どのくらい実がなりそうかを見るんです。三十一歳です」
「……聞いとらんです」
「記録は、正確なほうがいいので」
この人の記録には、たぶん、自分も入っている。
彼が、力丸さんの前に出た。
「力丸どの。あなたは、王子の側か。私たちの側か」
私たち、の中に、私が入っていた。
「どちらでもありません。JAは、組合員の皆さん全員の側です」
彼は、その場に片膝をついた。足もとの草の葉にたまった朝露に、指先を触れる。
「ちょ、ここで?」
小声で言いながら、彼の手のひらを見た。水は乗っていなかった。魔法ではなく、頼むだけらしい。JAの人の前で水を浮かせたら、弟が三晩かけて作った四十ページの身元資料が、無駄になる。
「力丸どの。水の争いの、裁き手を頼みたい」
「裁き手、とは」
「審判のことだ」
きのう王子に教わったばかりの言葉を、もう人に教えている。
王子が、紙を力丸さんの前に突き出した。
「この勝負の審判です。お願いします」
力丸さんは、その紙を一字ずつ鉛筆でたどって読み、顔を上げた。
「『もぐった』の定義は何ですか。舟のどこが、どこに入ったら、もぐったことにしますか」
「舟の先っちょが、土管に入ったときたい」
即答だった。
力丸さんの鉛筆が、紙の上で止まった。
「……定義が、あります」
眼鏡の奥の目が、少しだけ大きくなっていた。勝ち負けの決め方まで用意してある勝負を持ちこまれたのは初めて、という顔だった。
「お受けします。細かい条件は、溝を見て確かめます」
力丸さんは、そこで枝のほうへ向きなおった。
「この枝、去年は三百十二でした」
去年の写真で、この枝は葉っぱが見えないくらい白かった。あの白は、三百十二個の花だった。
「着花調査が、あと二本残っていますので。そのあとで」
「おれも数えます。早う終わるけん」
「数える人が変わると、条件がそろいません」
王子は、黙って石垣に腰を下ろした。
王子の勝負は、花を数え終わるまで、待たされた。
隣の木の前で、力丸さんの唇が動いている。石垣の上から、王子が言った。
「お前んとこ、今年は花の少なかね。うちの斜面は、今年も真っ白ばい」
振り返ると、石垣の向こうの斜面は、本当に白かった。
「来年、見ときーよ!」
「おう、見ちゃる」
横で、彼が言った。
「私も、見る」
彼は、あの枝の前にしゃがみこんでいた。
この人が帰れるのは、二年後の春だ。来年の五月も、まだここにいる。
◇
四人で、用水路の横の細い道を下りた。左に畑、右に用水路、その向こうに王子の園との境の石垣。彼は、流れから一度も目を離さなかった。
分かれは、段々畑のいちばん下、家の屋根と同じ高さにある。
コンクリートの四角い升に、用水路の水がたまる。升の、水が出ていく側の壁は一枚の板になっていて、その上のふちに、切りこみが二つある。水は切りこみからあふれて、右の溝と左の溝に落ちていく。二本の溝は、人ひとり通れるくらいの土手をはさんで並んだまま二十メートルほど下り、下の農道の下の、隣り合った二つの土管にもぐる。
切りこみは、二つとも同じ大きさに見えた。右にも左にも同じだけ水が落ちていると、私は二十年、思っていた。
彼が、升の前で足を止めた。水を見たのは、一秒くらいだった。
「右が四。左が六だ」
「……何の四と六?」
「水だ」
彼は、升を指さした。
「ここに来る水を十とすると、右の溝に四、左の溝に六だ。右のほうが、少ない」
「目で、分かるんですか」と力丸さんが言った。
力丸さんは鞄から巻き尺を出した。巻き尺の先を切りこみの底に当てようとして、板に手を伸ばした。
「触るな」
彼の声だった。
うちに来てから、この人のそんな声を、初めて聞いた。力丸さんの手が、板の手前で止まった。
「……すまない」
「測るだけでした」
「分かっている」
彼は、いつもの声に戻っていた。
「分け水の板は、触れただけで、ずるをしたと疑われる。村では、それで十年、口をきかなかった家がある」
後ろで、祖父が言った。いつの間にか、作業場から出てきていた。
「昔から、四と六たい。右の溝の先の田んぼが、狭かけん。おれの親父の、そのまた親父のころに、そう決めたと」
力丸さんは、板に触れないように、巻き尺を切りこみの上にかざした。
「幅は、どちらも二十センチです」
それから、しゃがんで、切りこみを越えていく水を、横から目の高さで見比べた。
「右の切りこみを越える水のほうが、浅いです。幅が同じなら、底の高さが違うのかもしれません。板に当てないと、測れませんが。何対何かまでは言えません。右が少ない、までです」
彼は、見て一秒で。力丸さんは、しゃがんで見比べて。祖父は、ひいひいじいちゃんの代からの決まりで。三人そろって、右が少ないと言った。
二十年この升を見てきた私には、同じに見えていた。
力丸さんが、彼を見た。眼鏡の奥で、まばたきが一回多かった。
「この人、村で水の配り方を決めよった人やけん」
私は先に言った。嘘ではない。村がどこにあるかを、言っていないだけだ。
力丸さんは、紙に何か書きとめた。たぶん、彼が一秒で言い当てたことも、記録された。
それから力丸さんは、升に向きなおった。
「これでは、掃除の腕でなく、水の量で勝ち負けがつくかもしれません。条件が、そろっていません。その勝負は、試験設計が甘いです」
「えっ」と王子が言った。
「板は動かせませんから、どちらの溝を受け持つかを、くじで決めます。その差は、結果に書き添えます」
力丸さんは紙ばさみから紙を一枚外して、二つに裂いた。片方に「右」、片方に「左」と書いて、折った。
「うちが引く」
私が先に手を出した。彼に引かせたら、引く前に、たぶん礼が始まる。
開いた。
右だった。
水の少ないほうだった。
「悪かね」
王子が、ぜんぜん悪くなさそうに言った。
「少なくてもいい」と彼が言った。「勝てば、王子の井戸が見られる」
「おれが勝ったら、地区の若手の代表は、おれやけんな」
きのう、直売所のバケツの水に、二人が誓った賭けである。王子が勝てば、肩書き。彼が勝てば、井戸。どちらにも、私の名前は入っていない。
「それから」と力丸さんは言った。「人数が、そろっていません。そちらはお二人で、吉武さんはお一人です」
「おれは一人で——」
「そろっていません」
王子は口を閉じて、まわりを見た。私を見て、彼を見て、祖父で止まった。
「茂さん。組んでください」
「よか」
返事が、王子の言い終わりにかぶっていた。
「じいちゃん!?」
「光司は、噴霧器ば教えてくれた」
「……噴霧器?」
「ゆうべ、落とした」
直売所で、王子が「中古の噴霧器、ネットに出とったですよ」と耳打ちし、祖父が「見た」と答えた、あの噴霧器だ。見ただけでは終わらず、ゆうべのうちに、ネットオークションで落としていた。
「孫より噴霧器なん!?」
「交際費たい」
草刈り機は設備投資、高いみかんは研究費、孫の敵につくのは交際費。祖父の帳簿に、孫の欄はないらしい。
しかも左の溝は、地区の溝さらいで、祖父が十五のころから受け持ってきた溝である。多いほうを六十年さらってきた人が、多いほうについた。
「じいちゃんにも、勝つけんね」
「少なか水でか」
祖父は、それだけ言って麦わら帽をかぶりなおした。
力丸さんは、最後に条件を二つだけ言った。
「土曜の朝九時まで、溝には手を入れないでください。舟は、私が作ります。同じ笹で、同じ長さに」
「土曜は、JAは休みやろ」と王子が言った。
「休みです。私用で来ます」
王子は石垣を越えて帰っていった。祖父は作業場に戻った。力丸さんは軽自動車で、次の園へ行った。
分かれの前には、右の溝と、私たちが残った。
◇
夕方、作業場の横の竹やぶのふちで、笹の葉を取った。
土曜の本番の舟は、力丸さんが作る。今日のは、溝の流れを見ておくための、練習の舟だ。
「舟の作り方、教えるけん」
「舟を、作るのか。葉で」
「葉で」
端を折って、三つに裂いて、両わきを組む。反対の端も同じ。私は三十秒で二艘作った。小学生のころから、この溝に何艘流したか分からない。
彼は私の手元をじっと見てから、自分の葉を折りはじめた。
折り目を、爪で一回ずつ押さえる。裂く長さを、指の幅で測る。左右の角を、何度も見比べる。
十四分かかった。うちで初めてみかんを剥いたときと、同じ十四分だった。
二人で、右の溝のふちにしゃがんだ。手は入れない。舟を置くだけなら、力丸さんも怒らないと思う。
彼の舟は、角がきれいにそろっていた。そろいすぎて、浮かべたとたん、くるりと裏返った。
「……裏返った」
「きっちり折りすぎ。舟は、ちょっと底がふくらんどかんと」
二艘目は、浮いた。
彼は溝のふちにしゃがんだまま、流れていく葉っぱを目で追った。口が、少し開いていた。葉が、水に乗っている。この人には、それだけのことが、まだ毎回うれしいらしい。
私も、自分の舟を置いた。
「君の舟は、三つ目の石の手前で止まる」
一つ目の石を、越えた。二つ目も、越えた。
三つ目の石の手前で、止まった。
「なんで分かると?」
「水が、そこで迷っている」
私は溝をのぞきこんだ。迷っている水は、どこにも見えなかった。この人の目には、この溝が、どう見えているのだろう。石の前で、水が越えるか回りこむか、相談でもしているのだろうか。
顔を水面すれすれまで下げて、やっと見えた。水に沈んだ小枝が一本、舟の下に横になっていた。上からのぞいただけでは、見えなかった。
彼は一度、石垣の上を見上げた。王子の姿はなかった。溝のまわりには、私たちしかいなかった。
彼が、溝のふちに片膝をついた。水に指先を触れて、小さく頭を下げる。池の縁で見た礼より、ずっと短い。
溝の水が、手のひら一杯ぶんだけ、ふわりと持ち上がった。水は私の舟の下にもぐりこんで、舟を指一本ぶん浮かせた。小枝の影が、舟の腹の下を通っていった。舟を小枝の向こうに下ろすと、水は溝に戻った。音もしなかった。
私の舟は、何もなかったような顔で流れていった。
「……反則やん」
「勝負は、土曜だ」
「そういう問題やないやん」
「君の舟が、止まっていたから」
それだけ言って、彼は立ち上がった。
溝に手は入れていない。指先は、手のうちに入らない。たぶん。力丸さんに聞かれたら、そう答える。答えている私の顔が赤くても、それは竹やぶで笹と格闘したせいである。
彼は、そのまま黙った。
右の溝に沿って、石垣寄りの、土のままの岸を見ながら、下の農道まで歩いていく。土管の口をのぞきこんで、また戻ってくる。分かれまで上がって、升の切りこみを見下ろした。
「この溝の水は、少ない」
「右は少ないって、さっき聞いたやん」
「違う」
彼は、右の溝を見たまま言った。
「分かれで右に落ちた水より、この溝の下のほうを流れている水のほうが、もっと少ない。……途中で、どこかへ行っている」
海を見て「……なんて、もったいない」と言った朝と、同じ顔だった。
私の目には、いつもの溝の水にしか見えなかった。
土曜の朝九時まで、溝には手を入れられない。
少ない水で、多い水と、王子と、じいちゃんに勝たなければならない。その少ない水が、途中でさらに減っていた。
「……上等やん」
口から出たのは、少女漫画のヒロインが、たぶん一生言わない台詞だった。




