↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
5/18

第5話 キャラが被ってる

「……誰だ」

 甘夏の箱を抱えた彼が、私を見ていた。

 私だ。立花みのりだ。ついさっきまで、隣で値札を書いていた。


 日曜日の朝の、芹ヶ浦(せりがうら)ふれあい市である。

 地区の農家が、自分で値段をつけて、自分の棚に並べる直売所だ。売れ残ったら、夕方に自分で引き取りに来る。当番の日は、レジにも立つ。

 今日は母の日なので、母は休みだ。休みにすると決めたのは、母である。当番は娘に回ってきた。母の日に、母のいない棚で、母のマーマレードを売る。ほかには、甘夏の終わりものと、みかんジュースと、家の畑の新玉ねぎ。入口には、カーネーションのバケツがずらりと並んでいた。

 レジに入る前に、私は息を吸って、棚の前に立った。

「いらっしゃいませ。本日は、甘夏の終わりものがお買い得でございます」

 それだけのことだった。

 それだけのことで、彼は箱を抱えたまま固まった。


 標準語は、仕事着である。

 畑には作業着を着ていく。直売所には標準語を着ていく。博多弁のまま「甘夏、安いとよー」と言うと、地区の人は笑って買ってくれるが、遠くから車で来た人は半分くらい通り過ぎる。農業大学校の販売実習で、先生が教えてくれたことだ。先生は、実習の甘夏を一個も買ってくれなかった。

「……君は、二人いるのか」

「いいえ。一人でございます」

 彼の顔が、もう一段、固まった。

 分かっていた。昨日、軽トラを降りたときから分かっていた。それでも、この人の前で着たい服ではなかった。


「あら、まめちゃん。今日は当番ね」

 入口から、おばあちゃんが三人入ってきた。ハツヨさんと、キミ子さんと、トシエさん。自分たちの棚に青ものを並べ終えると、野菜を一つずつ持ち上げて、全部の棚の値段を見て回って、覚えて帰る三人組だ。

「はい、まめちゃん。『あーん』はせんでよかけん、ポケットに入れときんしゃい」

 飴を三つもらった。一人一つずつ。いつものことだ。私は二十歳で、この直売所の当番で、農業大学校を出ているが、三人の中では孫である。

「ありがとうございます。いただきます」

 標準語のまま頭を下げると、ハツヨさんの目が、私の肩ごしに止まった。

 キミ子さんの目も止まった。トシエさんの目も止まった。

 三人とも、甘夏の箱を抱えた男前を見ていた。祖父の〔設備投資〕で買った作業着は、袖がちゃんと手首まであった。祖父の設備投資は、売り場で初日から元を取っていた。


  ◇


 駐車場に、軽トラが一台入ってきた。

 止まるなり、運転席から男の人が降りてきた。荷台に寝かせてあったのぼり旗を起こして、荷台の柵にくくりつける。白地に、赤い字だった。


〔芹ヶ浦地区 唯一のみかん王子〕


 隣の園の吉武光司(よしたけこうじ)である。二十四歳。お父さんの園の跡継ぎで、園に出て三年目になる。地区で二十代の農家は、この人と私しかいない。自分で自分を「みかん王子」と呼んで、ネットに写真を上げている。見ている人の数は、地区の人口より少ない。

 吉武は、前髪を指で整えると、入口に立って両手を広げた。

「おはようございます。みかん王子です。今朝も、僕の甘夏が、皆さんをお待ちしておりました」

 王子のときの吉武は、標準語で、一人称が「僕」になる。


 その横を、二箱目を抱えた彼が通った。

 三人組は、両手を広げた吉武に背を向けて、箱を追いかけていった。移動に一秒もかからなかった。毎週日曜、吉武の棚の前で「光司くんは今日も男前やねえ」と言っていた三人である。

「あんた、どこの子ね」

「背の高かねえ」

「腕の太かねえ」

「ルーダ……」

「箱運びの者でございます」

 私は看板娘の声で割って入った。この人に、外向けの答えを教えておくのを忘れていた。弟の四十ページは、まだ届いていない。

 吉武は、両手を広げたまま、行き場をなくしていた。

「キャラが……被っとる……」

「被っておりません。あちらは、本物でございます」

「おい!」

 言ってから、気がついた。標準語を着て売り場に立つ人間が、この直売所には、二人いる。


 吉武は軽トラに戻ると、荷台の道具箱から油性ペンを出した。のぼり旗の「唯一の」を、黒く塗りつぶして、横に書き足す。


〔芹ヶ浦地区 初代みかん王子〕


 吉武は、ペンを握ったまま売り場に戻ってきて、言った。

「この地区のみかん王子は、おれが先たい」

「世襲でございますか」

「先着順に決まっとろうが」

「いちばん王子らしくない決め方でございますね」

 「初代」の字だけ、まだ乾いていなかった。


 それでも、昼前には、吉武の棚の甘夏は半分なくなっていた。

 値札の字が大きくて、読みやすい。いちばん色のいい袋を、手に取りやすい高さに置く。〔おすそわけに〕と書いた小袋を、レジの近くに並べる。自分の宣伝はひとつも当たらないのに、甘夏の宣伝は全部当たる。

 悔しいが、この人の売り場は本物だ。私は吉武に見られていないのを確かめてから、うちのマーマレードを、手に取りやすい高さまで一段下げた。


 吉武はまだ、三人組の輪の真ん中を気にしていた。わざと聞こえる声で、私に言った。

「うちの園は、井戸からポンプで上のタンクに上げて、タイマーで点滴しよるけん。時間になったら、勝手に水が出るぜ」

 輪の真ん中で、彼が振り向いた。

「勝手に、水が出る」

「お、おう」

「井戸は、どのくらい深い」

「二十メートル。親父の代に掘った」

「タンクはどこだ。どれだけ入る。水の味は。夏に涸れたことは。海が近いが、塩は混じらないか。タイマーというのは、誰が、何で決めている」

「ちょ、ちょっと待て」

 吉武が一歩下がった。彼は二歩近づいた。

「王子。その井戸を、見せてくれないか」

 吉武の口が、半分開いたまま止まった。

 王子、と本気の声で呼ばれたのは、たぶん初めてなのだと思う。自分の園の水の話を、こんなに真剣に聞かれたのも。

「……今度な」

 吉武は、前髪を、意味もなく整えなおした。


  ◇


 昼前に、弟が来た。自転車の前かごに、分厚い紙の束を積んでいた。

 廊下の向こうの部屋から「家族構成で詰まっとー」と送ってきた弟である。部屋の明かりは、三晩、夜中まで消えなかった。

 三晩の結果は、四十ページあった。

 ふつうに綴じられる厚さではないので、黒い大きなクリップで挟んである。表紙には、印刷した字でこう書いてあった。


〔スイラン・アルナ・ナギア・ルーダ氏 身元資料 第一版〕


「弟の颯太です。姉と、スイさんが、お世話になっております」

 三人組も吉武も、弟のことはランドセルのころから知っている。弟は、名刺を出しそうな顔をしていた。姉弟そろって、今日は仕事着らしい。

「スイさんは、うちの遠い親戚筋の人で、外国育ちです。詳しくは第一章に書いています」

「どこの国ね」とキミ子さんが聞いた。

「出身地は二か所あって、それは第二章で」

「なんで二か所あると?」

「出身地については、第三章に……」

「はいはい」とハツヨさんが言った。「そこの男前、箱を一つ取って」

 彼は、言われたとおりに箱を取った。三人組は、弟の第三章より、箱を取る腕のほうを見ていた。


 吉武だけが、律儀に一枚めくった。

「家族構成、『調査中』ってなっとるぞ」

「まだ本人に聞けとらんけん」

 同じ家におるやん、と言いかけて、やめた。聞けていないのは、弟だけではなかった。

 弟は、資料の写しをもう一部出して、彼に渡した。

「スイさんは読めんでよかけん。持っとくだけで、説得力が出るけん」

 離れでチェックリストを突きつけて、「これ、読める?」と確かめたのは、弟本人である。

 彼はうなずいて受け取り、胸の前に両手でまっすぐ持った。

 逆さまだった。

 表紙の「第一版」が、彼の胸の前で、逆立ちしていた。

 看板娘は、お客様の持ち方に口を出さない。三晩、夜中まで起きていた中学三年生にも、説得力の向きまで面倒を見る余力は残っていなかった。


 そこへ、祖父が来た。新玉ねぎの箱をもう一つ、一輪車に載せて、坂を押して下りてきた。

 吉武が、祖父に小声で言った。

「茂さん。こないだ言いよった中古の噴霧器、ネットに出とったですよ」

「見た」

「茂さん。この男前、どこの子ね」とトシエさんが聞いた。

 祖父は箱を棚の下に置いて、彼を見て、言った。

「ああ、うちの客たい」

 池から来た男に、作業場の前で言ったのと、一字も違わなかった。

 それで、終わった。

「そうね。茂さんとこのお客さんなら」

「よか人やろうね」

「颯太くん、その紙、重かろう。下ろしときんしゃい」

 祖父は、一輪車を押して帰っていった。

 弟は、黙ってクリップを留めなおした。

 祖父の八文字に、弟の四十ページが負けた。


  ◇


 三人組は、その日、値段を覚えて帰らなかった。

 昼過ぎ、客が引いたころに、吉武が私の棚の前まで来た。王子の声ではなかった。

「おい、スイ」

 弟が三回言った「スイさん」から、「さん」だけ外したらしい。

「勝負せんや」

 男の人が二人、女の前で、勝負。

 少女漫画なら、賞品は、だいたいヒロインである。私は、値札のペンを握りなおした。

「おれが勝ったら、地区の若手の代表は、おれやけんな」

 賞品は、肩書きだった。

 代表は、はじめからこの人である。地区の若手は、この人と私しかいない。


 彼は少し考えてから、入口のカーネーションのバケツの前へ行って、片膝をついた。バケツの水に、指先を触れる。

 お客さんが二人、振り返った。

 その片膝の形が、うちの池の縁で見た、あの長い礼と同じだった。

「ちょ、あんた、なんしよーと!」

 口から博多弁が出た。仕事着が、一瞬で脱げた。

「……失礼いたしました」

 お客さんに頭を下げて、着なおした。

 彼は片膝のまま、吉武を見上げた。

「その申し立て、受ける。水に誓って。私が勝ったら、王子の井戸を見せてくれ」

「お、おう。よか」

「王子も、誓ってくれ」

 吉武は、しばらくバケツを見下ろしていた。それから、カーネーションのあいだの水に、人さし指を一本だけ入れた。

「……誓う」

「ただし、裁き手が要る」

「さばきて?」

「どちらの側にも立たない者だ。水の争いは、その者が決めたことに、両方が従う。村では、そうしてきた」

「審判ってことやろ?」

「そうだ」


 審判は、見つからなかった。祖父は家族で、三人組は聞かれる前に「うちらはスイくんの味方たい」と名乗り出た。私は「中立でございます」と言ってみたが、「お前がいちばん身内やろうが」と言われた。それは、そうだった。

「いずみのママは?」とトシエさんが言った。

「日曜の昼は寝とんしゃあよ」とキミ子さんが言った。

 地区でスナックをやっているママのことだ。顔役だが、日曜の昼に起きているところを見た人はいない。

「では、何で勝負なさいますか」と私は聞いた。

「……今から考える」と吉武は言った。

「左様でございますか」


 閉店の前に、母のマーマレードが売り切れた。吉武には言わない。

 片づけのあいだ、彼は何度か、私のほうを見ていた。空の箱を軽トラに積みながら、彼が聞いた。

「明日は、どちらの君だ」

「畑やけん、こっち」

「そうか。……そっちのほうが、話しやすい」

 標準語の私は、売り物用だ。この人には、何かを売るつもりで話したことが、一度もない。

 帰りに、入口のカーネーションを一本買った。母の日なので。


 翌朝、王子は、種目を一つだけ決めてきた。

 王子がうちとの境の石垣の上でその紙を広げた月曜日の朝、うちの段々畑には、もう一人、知らない人がいた。眼鏡をかけて、木の枝の前にしゃがみこんで、鉛筆の先で花を一つずつ指しながら、唇だけを動かしていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。