第5話 キャラが被ってる
「……誰だ」
甘夏の箱を抱えた彼が、私を見ていた。
私だ。立花みのりだ。ついさっきまで、隣で値札を書いていた。
日曜日の朝の、芹ヶ浦ふれあい市である。
地区の農家が、自分で値段をつけて、自分の棚に並べる直売所だ。売れ残ったら、夕方に自分で引き取りに来る。当番の日は、レジにも立つ。
今日は母の日なので、母は休みだ。休みにすると決めたのは、母である。当番は娘に回ってきた。母の日に、母のいない棚で、母のマーマレードを売る。ほかには、甘夏の終わりものと、みかんジュースと、家の畑の新玉ねぎ。入口には、カーネーションのバケツがずらりと並んでいた。
レジに入る前に、私は息を吸って、棚の前に立った。
「いらっしゃいませ。本日は、甘夏の終わりものがお買い得でございます」
それだけのことだった。
それだけのことで、彼は箱を抱えたまま固まった。
標準語は、仕事着である。
畑には作業着を着ていく。直売所には標準語を着ていく。博多弁のまま「甘夏、安いとよー」と言うと、地区の人は笑って買ってくれるが、遠くから車で来た人は半分くらい通り過ぎる。農業大学校の販売実習で、先生が教えてくれたことだ。先生は、実習の甘夏を一個も買ってくれなかった。
「……君は、二人いるのか」
「いいえ。一人でございます」
彼の顔が、もう一段、固まった。
分かっていた。昨日、軽トラを降りたときから分かっていた。それでも、この人の前で着たい服ではなかった。
「あら、まめちゃん。今日は当番ね」
入口から、おばあちゃんが三人入ってきた。ハツヨさんと、キミ子さんと、トシエさん。自分たちの棚に青ものを並べ終えると、野菜を一つずつ持ち上げて、全部の棚の値段を見て回って、覚えて帰る三人組だ。
「はい、まめちゃん。『あーん』はせんでよかけん、ポケットに入れときんしゃい」
飴を三つもらった。一人一つずつ。いつものことだ。私は二十歳で、この直売所の当番で、農業大学校を出ているが、三人の中では孫である。
「ありがとうございます。いただきます」
標準語のまま頭を下げると、ハツヨさんの目が、私の肩ごしに止まった。
キミ子さんの目も止まった。トシエさんの目も止まった。
三人とも、甘夏の箱を抱えた男前を見ていた。祖父の〔設備投資〕で買った作業着は、袖がちゃんと手首まであった。祖父の設備投資は、売り場で初日から元を取っていた。
◇
駐車場に、軽トラが一台入ってきた。
止まるなり、運転席から男の人が降りてきた。荷台に寝かせてあったのぼり旗を起こして、荷台の柵にくくりつける。白地に、赤い字だった。
〔芹ヶ浦地区 唯一のみかん王子〕
隣の園の吉武光司である。二十四歳。お父さんの園の跡継ぎで、園に出て三年目になる。地区で二十代の農家は、この人と私しかいない。自分で自分を「みかん王子」と呼んで、ネットに写真を上げている。見ている人の数は、地区の人口より少ない。
吉武は、前髪を指で整えると、入口に立って両手を広げた。
「おはようございます。みかん王子です。今朝も、僕の甘夏が、皆さんをお待ちしておりました」
王子のときの吉武は、標準語で、一人称が「僕」になる。
その横を、二箱目を抱えた彼が通った。
三人組は、両手を広げた吉武に背を向けて、箱を追いかけていった。移動に一秒もかからなかった。毎週日曜、吉武の棚の前で「光司くんは今日も男前やねえ」と言っていた三人である。
「あんた、どこの子ね」
「背の高かねえ」
「腕の太かねえ」
「ルーダ……」
「箱運びの者でございます」
私は看板娘の声で割って入った。この人に、外向けの答えを教えておくのを忘れていた。弟の四十ページは、まだ届いていない。
吉武は、両手を広げたまま、行き場をなくしていた。
「キャラが……被っとる……」
「被っておりません。あちらは、本物でございます」
「おい!」
言ってから、気がついた。標準語を着て売り場に立つ人間が、この直売所には、二人いる。
吉武は軽トラに戻ると、荷台の道具箱から油性ペンを出した。のぼり旗の「唯一の」を、黒く塗りつぶして、横に書き足す。
〔芹ヶ浦地区 初代みかん王子〕
吉武は、ペンを握ったまま売り場に戻ってきて、言った。
「この地区のみかん王子は、おれが先たい」
「世襲でございますか」
「先着順に決まっとろうが」
「いちばん王子らしくない決め方でございますね」
「初代」の字だけ、まだ乾いていなかった。
それでも、昼前には、吉武の棚の甘夏は半分なくなっていた。
値札の字が大きくて、読みやすい。いちばん色のいい袋を、手に取りやすい高さに置く。〔おすそわけに〕と書いた小袋を、レジの近くに並べる。自分の宣伝はひとつも当たらないのに、甘夏の宣伝は全部当たる。
悔しいが、この人の売り場は本物だ。私は吉武に見られていないのを確かめてから、うちのマーマレードを、手に取りやすい高さまで一段下げた。
吉武はまだ、三人組の輪の真ん中を気にしていた。わざと聞こえる声で、私に言った。
「うちの園は、井戸からポンプで上のタンクに上げて、タイマーで点滴しよるけん。時間になったら、勝手に水が出るぜ」
輪の真ん中で、彼が振り向いた。
「勝手に、水が出る」
「お、おう」
「井戸は、どのくらい深い」
「二十メートル。親父の代に掘った」
「タンクはどこだ。どれだけ入る。水の味は。夏に涸れたことは。海が近いが、塩は混じらないか。タイマーというのは、誰が、何で決めている」
「ちょ、ちょっと待て」
吉武が一歩下がった。彼は二歩近づいた。
「王子。その井戸を、見せてくれないか」
吉武の口が、半分開いたまま止まった。
王子、と本気の声で呼ばれたのは、たぶん初めてなのだと思う。自分の園の水の話を、こんなに真剣に聞かれたのも。
「……今度な」
吉武は、前髪を、意味もなく整えなおした。
◇
昼前に、弟が来た。自転車の前かごに、分厚い紙の束を積んでいた。
廊下の向こうの部屋から「家族構成で詰まっとー」と送ってきた弟である。部屋の明かりは、三晩、夜中まで消えなかった。
三晩の結果は、四十ページあった。
ふつうに綴じられる厚さではないので、黒い大きなクリップで挟んである。表紙には、印刷した字でこう書いてあった。
〔スイラン・アルナ・ナギア・ルーダ氏 身元資料 第一版〕
「弟の颯太です。姉と、スイさんが、お世話になっております」
三人組も吉武も、弟のことはランドセルのころから知っている。弟は、名刺を出しそうな顔をしていた。姉弟そろって、今日は仕事着らしい。
「スイさんは、うちの遠い親戚筋の人で、外国育ちです。詳しくは第一章に書いています」
「どこの国ね」とキミ子さんが聞いた。
「出身地は二か所あって、それは第二章で」
「なんで二か所あると?」
「出身地については、第三章に……」
「はいはい」とハツヨさんが言った。「そこの男前、箱を一つ取って」
彼は、言われたとおりに箱を取った。三人組は、弟の第三章より、箱を取る腕のほうを見ていた。
吉武だけが、律儀に一枚めくった。
「家族構成、『調査中』ってなっとるぞ」
「まだ本人に聞けとらんけん」
同じ家におるやん、と言いかけて、やめた。聞けていないのは、弟だけではなかった。
弟は、資料の写しをもう一部出して、彼に渡した。
「スイさんは読めんでよかけん。持っとくだけで、説得力が出るけん」
離れでチェックリストを突きつけて、「これ、読める?」と確かめたのは、弟本人である。
彼はうなずいて受け取り、胸の前に両手でまっすぐ持った。
逆さまだった。
表紙の「第一版」が、彼の胸の前で、逆立ちしていた。
看板娘は、お客様の持ち方に口を出さない。三晩、夜中まで起きていた中学三年生にも、説得力の向きまで面倒を見る余力は残っていなかった。
そこへ、祖父が来た。新玉ねぎの箱をもう一つ、一輪車に載せて、坂を押して下りてきた。
吉武が、祖父に小声で言った。
「茂さん。こないだ言いよった中古の噴霧器、ネットに出とったですよ」
「見た」
「茂さん。この男前、どこの子ね」とトシエさんが聞いた。
祖父は箱を棚の下に置いて、彼を見て、言った。
「ああ、うちの客たい」
池から来た男に、作業場の前で言ったのと、一字も違わなかった。
それで、終わった。
「そうね。茂さんとこのお客さんなら」
「よか人やろうね」
「颯太くん、その紙、重かろう。下ろしときんしゃい」
祖父は、一輪車を押して帰っていった。
弟は、黙ってクリップを留めなおした。
祖父の八文字に、弟の四十ページが負けた。
◇
三人組は、その日、値段を覚えて帰らなかった。
昼過ぎ、客が引いたころに、吉武が私の棚の前まで来た。王子の声ではなかった。
「おい、スイ」
弟が三回言った「スイさん」から、「さん」だけ外したらしい。
「勝負せんや」
男の人が二人、女の前で、勝負。
少女漫画なら、賞品は、だいたいヒロインである。私は、値札のペンを握りなおした。
「おれが勝ったら、地区の若手の代表は、おれやけんな」
賞品は、肩書きだった。
代表は、はじめからこの人である。地区の若手は、この人と私しかいない。
彼は少し考えてから、入口のカーネーションのバケツの前へ行って、片膝をついた。バケツの水に、指先を触れる。
お客さんが二人、振り返った。
その片膝の形が、うちの池の縁で見た、あの長い礼と同じだった。
「ちょ、あんた、なんしよーと!」
口から博多弁が出た。仕事着が、一瞬で脱げた。
「……失礼いたしました」
お客さんに頭を下げて、着なおした。
彼は片膝のまま、吉武を見上げた。
「その申し立て、受ける。水に誓って。私が勝ったら、王子の井戸を見せてくれ」
「お、おう。よか」
「王子も、誓ってくれ」
吉武は、しばらくバケツを見下ろしていた。それから、カーネーションのあいだの水に、人さし指を一本だけ入れた。
「……誓う」
「ただし、裁き手が要る」
「さばきて?」
「どちらの側にも立たない者だ。水の争いは、その者が決めたことに、両方が従う。村では、そうしてきた」
「審判ってことやろ?」
「そうだ」
審判は、見つからなかった。祖父は家族で、三人組は聞かれる前に「うちらはスイくんの味方たい」と名乗り出た。私は「中立でございます」と言ってみたが、「お前がいちばん身内やろうが」と言われた。それは、そうだった。
「いずみのママは?」とトシエさんが言った。
「日曜の昼は寝とんしゃあよ」とキミ子さんが言った。
地区でスナックをやっているママのことだ。顔役だが、日曜の昼に起きているところを見た人はいない。
「では、何で勝負なさいますか」と私は聞いた。
「……今から考える」と吉武は言った。
「左様でございますか」
閉店の前に、母のマーマレードが売り切れた。吉武には言わない。
片づけのあいだ、彼は何度か、私のほうを見ていた。空の箱を軽トラに積みながら、彼が聞いた。
「明日は、どちらの君だ」
「畑やけん、こっち」
「そうか。……そっちのほうが、話しやすい」
標準語の私は、売り物用だ。この人には、何かを売るつもりで話したことが、一度もない。
帰りに、入口のカーネーションを一本買った。母の日なので。
翌朝、王子は、種目を一つだけ決めてきた。
王子がうちとの境の石垣の上でその紙を広げた月曜日の朝、うちの段々畑には、もう一人、知らない人がいた。眼鏡をかけて、木の枝の前にしゃがみこんで、鉛筆の先で花を一つずつ指しながら、唇だけを動かしていた。




