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第4話 デートじゃない。作業着を買いに行くだけ

 ワンピースは、作業着を買いに行くための服である。

 作業着を買いに作業着で行ったら、店の人に「もう持っているのでは」と思われる。だから、作業着ではない服で行く。理屈は通っている。

 私のタンスに、作業着ではない服は、この一着しかなかった。


 台所に下りると、トーストをかじっていた弟が、私を見て止まった。

「姉ちゃん、どこ行くと? 結婚式?」

「作業着、買いに行くと」

「その格好で?」

「その格好で」

 土曜日の弟は、朝練も塾もない。夜は夜で、部屋にこもってスイの設定を作っている。家族構成で詰まっているらしい。朝は、暇を持てあましている。持てあました暇は、だいたい私に向かってくる。


 弟の目が、テーブルの上で止まった。

 私のノートだった。持ち物を確かめようとして、置いたままにしていた。

「なんこれ。……恋愛計画表?」

「返して!」

 遅かった。弟はノートを頭の上に掲げて、読みあげた。


〔その一 相合傘(雨の確率を事前に確認すること)〕

〔その二 映画館のポップコーンで手が触れる〕

〔その三 壁ドン〕

〔その四 二人の写真〕

〔その五 手をつなぐ(自然に)〕


「『自然に』って、書いた時点で自然やないやん」

 弟の正論は、いつも高いところから降ってくる。

 私は跳んだ。届かなかった。もう一回跳んだ。指先が、ノートの角をかすめた。中学三年の弟は、もう私より頭一つ大きい。

「てか、今日の降水確率、ゼロパーセントやけど」

 弟がスマホを見ながら言った。その一は、家を出る前に終わった。


 横から、長い腕が伸びてきた。

 彼が、弟の手からノートをひょいと取って、私に差し出した。

「私には、読めない」

 それは知っている。

「……でも、聞こえとったやろ」

「聞こえた」

 この人の正直は、たまに、私にだけ刺さる。

 彼は、私の服を上から下まで一度見た。

「その服は、作業着ではないのか」

 まじめな質問だった。

「……ちがう」

「そうか。では、何をする服だ」

 答えられなかった。答えたら、その一からその五までを、自分の口でもう一回読みあげることになる。


 祖父が、黙って茶封筒をテーブルに置いた。表に、祖父の字で書いてある。


〔設備投資〕


「スイの作業着と、地下足袋。軽トラで行け」

「じいちゃん。スイは、中古の農機具やないけん」

「長う使うもんは、設備投資たい」

 去年の秋の草刈り機と、同じ費目にスイが入った。

 ついでに、計画表のどこにも書いていなかった乗り物も決まった。軽トラで始まるデートは、百冊読んだ少女漫画に一冊もない。

 デートではないので、問題はない。


  ◇


 町のショッピングモールは、入口から水の罠だらけだった。

 まず、入ってすぐの給水器で止まった。

 彼がボタンを押すと、水が小さな弧を描いて上がった。彼は身をかがめて、一口飲んだ。指を離すと、止まった。もう一度押した。上がった。飲んだ。

 彼は、自分の指を見つめた。

「……この指で、水が上がる」

「誰の指でも上がるとよ」

「それが、すごい」

 押しては飲み、押しては飲んで、三分たった。後ろに、水を飲みたい子どもが並んでいた。

「スイ、後ろ、並んどーけん! 一人一回!」

 私は子どものお母さんに頭を下げて、彼の腕を引いた。


 次は、吹き抜けの噴水だった。

 水が、ただ上がって、ただ落ちている。誰も飲まない。何にもまかない。

「何のために上げている」

「……見るため?」

「見るためだけに、水を上げているのか」

 彼は、噴水の前で立ちつくした。祖父が中古の農機具の値札を見るときと、同じ顔だった。とんでもない贅沢を、目の前で見せられている。

「スイ。噴水の飾りと思われよーよ」

 五分たっても動かなかったので、スマホで写真を撮った。その四、二人の写真。あとで見たら、写っていたのは噴水と、噴水に見とれる横顔と、私の指だった。


 映画館の前も通った。今週は、宇宙で戦う映画と、犬で泣かせる映画をやっていた。

「水は、出るか」

「……出らんと思う」

「そうか」

 彼がポスターに使ったのは、一秒だった。給水器には三分使った人である。その二は、ポップコーンを買う前に消えた。


 トイレの前の通路で、彼が急に、私の横の壁に手をついた。

 壁と、彼のあいだに、私がいた。

 その三。壁ドン。少女漫画で、百回は見た構図だった。

「な、なん」

「この壁の中を、水が通っている」

 彼は、壁に耳を寄せていた。私のことは、見ていなかった。身長差のせいで、彼の腕は私の頭のずっと上にあった。

 構図だけ計画どおりで、中身が全部ちがった。


 ホームセンターの園芸売り場には、散水栓の見本が並んでいた。うちの作業場の前の散水栓で、十分間止まった人である。私は、彼の腕をつかむ準備をした。

 彼は見本を一つだけ眺めて、言った。

「うちのと、同じ形だ」

 それだけで、通り過ぎた。

 つかむ準備をしていた私の腕は、行き場をなくした。

 うちの、と言ったのは、聞き逃さなかった。


 農具売り場に入ったところで、私の中で何かが切りかわった。

 地下足袋は、売り場でいちばん大きいサイズが、やっと彼の足に入った。その大きさの中から、底の薄い、やわらかいものを順に四足はかせた。斜面では、底がやわらかいほうが土をつかむ。でも、やわらかすぎると石を踏んだときに痛い。足首は、このくらいまで覆ったほうがいい。試し履き用の小さな台を、上り下りさせた。爪先を押した。かかとを押した。

 三足目で、彼が台の角を、足の指でつかんだ。

「これなら、土が分かる」

 それに決めた。足袋用の、指の分かれた靴下も買った。

 収穫ばさみは、見本を一本ずつ彼の手に握らせて、開いて閉じさせた。

「秋に使う物は、今から手になじませとくと」

「まだ、花が咲いているのに」

「花のうちから、なじませとくと」

 はさみも一本に決めた。作業着は上下二組。帽子と、軍手を一袋。

 気づいたら、四十分たっていた。ワンピースの裾に、地下足袋の箱の埃がついていた。

 顔を上げると、彼がこっちを見ていた。見本のはさみを握ったまま、刃は閉じたままだった。目が合った瞬間に、彼は、はさみのほうへ目を落とした。

 レジでは、祖父の封筒から払った。店員さんが、表書きを二度見した。うちの祖父の費目は、町では通じない。


  ◇


 モールの裏手に、花壇のある小さな広場がある。昼前で、人はいなかった。鳩が一羽いるだけだった。

 空は、計画表のその一に、まったく向いていない青さだった。

 私はトートバッグから、傘を一本だけ出した。

 降水確率ゼロパーセントの日に傘を持ってきた理由は、自分でもうまく説明できない。説明できないので、頼むことにした。

「雨、降らせて」

「無理だ。水は、作れない」

 即答だった。袖の水も、コップの水も、そこにあった水だった。

「……この傘の上だけ」

 彼は、私と、傘と、空を見た。

「それなら、できる」

 できるのか。

 私の恋愛計画に、急に施工業者がついた。


 施工業者は、段取りが早かった。

「水は」

「水筒に、水が入っとー」

 今朝は、麦茶ではなく水を入れてきた。理由は、聞かれなかったので言わない。

「落ちた水は、あの花壇へ返す。傘は、もう少し高く。……そう。そこから動かないでくれ」

 彼は広場をもう一度見回して、人がいないのを確かめた。鳩は、数に入れなかった。それから私の水筒の蓋を開けて、手のひらに一杯ぶん、水を受けた。

「今日は、君にも分かる言葉で言う」

「なんで?」

「借りるのは、二人だから」

 私は、傘の柄を両手で握りなおした。


 彼は石畳に片膝をつき、手のひらの水に、もう片方の手の指先を触れた。うちの池の縁で一度聞いた、あの長い礼だった。

「ナギアの泉に連なる、すべての水よ」

「私は、スイラン・アルナ・ナギア・ルーダ。ナギアの泉守」

「いま、この地の水を、手のひら一杯だけ借りる」

「用いるのは、この傘の上の、二人のための雨」

「借りた水は、終わりに、この花の根へ返す」

「水の巡りを乱さぬことを、ここに誓う」

 三度、頭を下げた。

「……ありがとう」

 四十秒。今日は、一語残らず意味が分かった。

 四行目だけ、もう一回聞きたかった。


 手のひらの水が、ふわりと浮いた。

 傘の少し上まで上がって、そこでほどけた。一杯の水が、数えきれない粒になって、落ちてきた。

 ぱら。

 ぱら、ぱら。

 傘の布が、小さく鳴った。最初は、てっぺんのあたりだけ。それから少しずつ外側へ。雨の音が、傘の内側いっぱいに広がっていく。

 傘の縁から、しずくが落ちた。落ちきる前に、しずくはふっと止まって、また上へ帰っていった。上で、また粒にほどけて、また降ってきた。

 直径一メートルの、雨だった。

 傘の外は、快晴のままだった。石畳は乾いていて、日差しが白かった。傘の下の私だけが、雨の音の中にいた。

 少女漫画で何度も読んだ。雨の音しか聞こえなくなる、というやつだ。

 あれは、本当だった。


 一分ほどだったと思う。

 雨の音は、外側から少しずつ消えていった。最後の一粒が傘のてっぺんで鳴って、それきりになった。

 傘の縁に集まった水が、細い糸になって、花壇の根元へ下りていった。乾いていた土が、そこだけ色を変えた。


 私は、傘の外を見た。

 彼は、最初から最後まで、傘の外にいた。片膝をついたまま、雨のほうを見上げていた。

 相合傘というのは、一本の傘に二人が入って、初めて相合傘である。

 施工業者は、傘の外にいた。


  ◇


 彼は片膝をついたまま、花壇の土に指先を触れて、一度だけ頭を下げた。それから立ち上がって、そのまま花壇の縁に座りこんだ。

 顔が、紙みたいに白かった。のどを押さえている。手のひら一杯でも、細かく、長く使うと、こうなるらしい。彼は水筒の残りを一息で空にして、まだ足りない顔をした。

「水筒、もう空っぽやん。待っとって。動かんでよ」

 給水器に連れていく案は、三分止まる人なので却下した。

 私はワンピースの裾をつかんで走った。モールの中のスーパーで、いちばん大きいみかんジュースを取った。一リットルの紙パックを、二本。

 レジで、祖父の封筒を出しかけて、やめた。これは設備投資ではない。私の計画の、後始末だ。自分の財布から払った。


 広場に戻って、肩を貸した。肩の高さが合わなかったので、腰を貸した。

 フードコートの椅子に彼を座らせて、紙コップに注いだ。

 一杯目を、一息で飲んだ。二杯目も、三杯目も飲んだ。二本目からは、紙コップをやめて、パックごと両手で持った。

 二リットルが、空になった。

「生き返った」

 うちの池から上がってきた朝と、同じ言い方だった。

 手のひら一杯の雨のために、二リットルを買った。この魔法、請求の仕組みがおかしい。


 帰りも、軽トラは私が運転した。

 信号で止まるたび、ブレーキは同じ場所で、同じ深さで踏む。カーブの手前で落とす速さも、毎回同じ。荷台の作業着の袋は、ゴムひもの下で一度も倒れなかった。

 それなのに、助手席の彼は、二つ目のカーブで窓を開けた。

「……揺れる」

「揺らしとらんよ」

「地面が、揺らしている」

「揺れよーとは、地面やなくて、あんたの中の二リットルやろ。遠くの海、見ときー」

 彼は窓を全部開けて、言われたとおり、海のほうを見ていた。


 海沿いの道に出たころ、彼が言った。

「その服で来たかったところは?」

 体が、固まった。足だけは、いつもの場所でブレーキを踏んだ。

 その一からその五までが、頭の中で一度に並んだ。相合傘。映画館。壁ドン。写真。手。

 信号が青に変わるまで、何も言えなかった。

 青になってから、「作業着売り場」と言った。

 彼は、膝の上の収穫ばさみの箱を見て、少しだけ笑った。


 計画は、全滅した。

 段々畑の下まで帰ってくると、開けた窓から、みかんの花の匂いが入ってきた。

 全滅したはずなのに、家の前の坂で、ブレーキを踏む場所が、免許を取ってからはじめて、一回だけずれた。

 軽トラを降りると、母が台所から顔を出した。

「みのり、明日の直売所、あんたが当番やけんね。スイくんも連れていきー。箱運び」

 明日は日曜日だ。朝から、私の口は標準語になる。この人の、目の前で。

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