第3話 水漏れは二人で探す
園の案内は、作業場の前の散水栓から始まった。そして、散水栓で十分間止まった。
「この水は、どこから来る」
「町の水道」
「町の、どこから」
「……知らん」
知らなかった。二十年、ひねれば出る水を使ってきて、一度も気にしたことがなかった。うちに来た晩、台所の蛇口を三回確かめていた人に、私は最初の一問で負けた。
作業場の隣の貯蔵庫では、彼は壁に手を当てて湿り気を確かめた。その先で、モノレールのレールが斜面をまっすぐ上っていく。
「これは、水を運ぶのか」
「みかん。秋になったら、採ったみかんをこれで下ろすと」
「……そうか」
露骨にがっかりされた。うちのモノレールに謝ってほしい。
段々畑に入ると、彼の歩く速さが変わった。腰で、来たときの小さな袋が揺れている。父のズボンのベルトに通して、それだけは手放さない。
どの段も、木の根元に沿って黒い管が這っている。
「これが、水の道か」
「点滴の管。小さい穴がいっぱいあいとって、木の根元に、ぽたぽた水を落とすと」
「ぽたぽた」
三段上がるあいだに、四回言った。
「気に入ったと?」
「気に入った」
本気の顔だった。
目印の木の前は、通り過ぎた。あの枝の花は、今朝も四十一だった。
いちばん上の段に、ため池とポンプ小屋がある。この段だけ、管のまわりの草がきれいに刈ってあった。祖父と彼の仕事だ。
そこで、彼が振り返った。
段の向こうに、海が広がっていた。朝の光を受けて、白っぽく光っている。
彼は、段の端まで一歩出た。両手が、水をすくう形に開いていた。
「あれは、全部、水か」
祖父が、私の分として残しておいた質問だ。
私は首のタオルを握った。用水路の前で泣いた人である。今度は、量が違う。
「海。塩の水やけん、飲めんよ」
彼は、長いこと黙っていた。
「……なんて、もったいない」
泣かなかった。もったいながっていた。
生まれたときから毎日見ている海が、生まれて初めて、もったいないものに見えた。
ポンプ小屋の壁には、祖父が描いた配管図が貼ってある。ため池から、ごみをこすフィルターを通ってポンプへ。ポンプから太い管が斜面を下りて、段ごとに枝分かれして、点滴の管につながる。鉛筆の線のところどころに、祖父の字で書きこみがあった。
〔たぶんここ〕
〔わからん〕
結論しか言わない人が、紙の上では迷っている。
「今日は、夏の前の試運転。今年から、うちの仕事になったと。ポンプを回して、全部の段に水が届くか確かめる」
「全部の段に」
彼は配管図の線を、指でなぞりはじめた。池から、いちばん下の段まで。枝分かれの一本一本まで。全部。
◇
フィルターは、朝いちばんに洗ってある。ポンプのスイッチを入れると、小屋の中が低くうなった。
太い管の中を、水が走りだす。彼は斜面のほうを向いて、ゆっくり息を吐いた。
「流れた。……道が分かる」
止まっている水は黙っている。動きだした水は、おしゃべりだ。
二人で段を下りながら、点滴の管を一本ずつ見ていった。上の二段は、穴から水がぽたぽた落ちている。彼が満足そうにうなずく。
三段目から下で、急に弱くなった。いちばん下の段では、思い出したように一滴、また一滴、としか出てこない。
「おかしい。いちばん下は、ふつう足りんくなるはずがないとに」
「なぜだ」
「上から落ちてくるぶん、水が押されるけん。去年までは、いちばん下まで、そろって落ちとった」
ということは、三段目のあたりで、どこかへ逃げている。
私は三段目に戻って、分かれ目を一つずつ見て回った。継ぎ目を手で触り、まわりの土が濡れていないかを見た。目で追える管は、全部追った。どこも乾いていた。
「漏れとらん。見える分は」
見えない分が残っている。三段目の、土の下だ。
彼が、三段目の通り道に立った。目を閉じるでもなく、景色を眺める人の顔で、足もとを見ていた。
「土の下の水は、どこでも少しずつ動いている。どれが余計な動きなのか、君が三段目だと決めて、見える管を全部確かめるまで、分からなかった」
それから、通り道の端の、土の上を指さした。
「ここだ。管が土に潜って、この下をくぐっている。くぐる手前で、水が横へ逃げている」
私はポンプ小屋まで駆け上がって、配管図を見た。上から三段目。太い管が、通り道の下をくぐっている。三段目には、埋めた継ぎ手の印が三つあった。
彼が指したところの印の横にだけ、祖父の字があった。
〔たぶんここ〕
じいちゃん、そこやった。
掘る前に、順番を決めた。まずポンプを止める。次に、三段目の手前のバルブを閉める。下の管の水を抜く。それから掘る。順番を間違えると、掘った穴が池になる。
「池になるのは、困るのか」
「困る。……なんでちょっと残念そうなん?」
「池は、多いほうがいい」
この人の村には、池が足りていないのかもしれない。
スコップで三十センチほど掘ると、黒い管が出てきた。継ぎ手に、横一本のひびが入っていた。
予備の部品は、ポンプ小屋の棚にあった。祖父が中古の何かを買うたびに一緒に買いこんできた継ぎ手が、菓子の空き箱にぎっしり詰まっている。ためこみ癖が、今日だけは正しかった。
ひびの入った継ぎ手を外し、新しいのに替える。管は、手を離すとすぐに土の中でずれた。
「押さえとって。そこ、動かさんで」
彼が両手で管を押さえ、私が継ぎ手を差しこんで締めた。泥が跳ねて、彼の頬に一つ、私の前髪に二つついた。
バルブを開けて、もう一度ポンプを回した。穴の底の新しい継ぎ手が濡れてこないのを、三分見てから、土を戻した。
それから、いちばん下の段まで下りて、確かめた。
点滴の穴から、水が一滴ずつ、同じ間隔で落ちていた。隣の木も、その隣の木も。どの段の、どの木の根元にも。
ぽたぽた。
彼は、それを見ていた。うちの園の、うちの木の、うちの水だ。彼のものは一つもない。それなのに、池に浮かんで取水口に見とれていた顔より、もっと嬉しそうな顔をしていた。
私は泥だらけの手で前髪を直しかけて、やめた。
ポンプを止めに、二人でまた上まで上がった。小屋の前で、彼が言った。
「紙は、あるか」
私の胸ポケットの野帳は、畑の記録の途中だ。小屋の棚から、新しいのを一冊と鉛筆を一本出して渡した。手のひらくらいの、硬い表紙の帳面だ。
彼はその場にしゃがんで書きはじめた。池の取水口。ポンプ。斜面を下りる太い管。上から三段目に、小さな丸。
丸の横に、字が添えてあった。水面に小石を落としたあとの波紋のような、丸い線の重なった字だった。
「何て書いたと?」
「ここで、二人で直した」
読めなかった。一文字も。読めなくてよかった。読めたら、何回も読んでしまう。
「……作業記録なら、日付も書いとかんと」
私は彼の手から鉛筆を取って、野帳の表紙に、今日の日付を書いた。照れたときは、記録に逃げるにかぎる。
◇
お昼は、ポンプ小屋の前で食べた。小屋の蛇口から池の水をバケツに受けて、二人で泥だらけの手を洗い、母が持たせてくれたおしぼりで拭いてから、おにぎりを食べた。
それから私は、リュックの中から、果物屋の小さな化粧箱を出した。
中には、みかんが二個。祖父が「研究費」と言い張って買ってきた、高いみかんの残りだ。台所の棚の上にあったのを、今朝、椅子に乗って下ろしてきた。祖父には言っていない。研究には、現場での実証が要る。
ふたを開けたとき、彼がバケツのほうを見た。
「その水、少し、変だ」
バケツの水面が揺れていた。風はない。
水の真ん中から、濡れた小さな頭が出てきた。
丸い耳。黒い鼻。ひげ。カワウソに似た、手のひらほどの獣が、バケツの縁に前足をかけて、こちらを見ていた。
私は固まった。
たっぷり固まってから、その場で小さく跳ねた。
「な、な、なんこれ!?」
「グランハルデだ」
彼は、知り合いに会った顔をしていた。
「村の、手紙を運ぶ獣だ。弟子のミロが名前をつけた」
「……長か」
獣は濡れたまま、背中の油紙の袋を揺すってみせた。それから、前足の爪を三本立てた。
「みかんを三つ、と言っている」
「なんで分かると?」
「なんとなく、分かる」
「うちにはもう、露地のはないっちゃん。甘夏なら、下にいっぱいあるけど」
獣は、ぷいと顔をそむけた。
うちの甘夏を、鼻で笑われた気がする。この園で、甘夏の悪口は許さない。まだ何も言われていないけれど。
獣の黒い目が、私の手の化粧箱で止まった。
「一個なら、出す」
私は箱から一個出して見せた。爪は三本のままだった。
「手紙持ってきて、返事持って帰るとまで込みで、一個やけん」
彼が、獣のほうを向いて何か言った。私の知らない言葉だった。獣は、私と、私の手のみかんと、箱の中の残りの一個を順番に見た。
爪が、二本になった。
それから、一本になった。そこまでに、たっぷり十秒かかった。
「来てすぐ払いを急かすけん、早生。……わせでよか」
うちの園でいちばん早く採れるみかんの呼び名を、つけてやった。彼は、気に入ったようだった。うちの祖父に、同じ目にあわされた人の顔だった。
わせは、みかんを両腕で抱えこんだ。自分の胴ほどもある実だった。
油紙の袋から出てきたのは、折りたたんだ紙が一枚だった。彼は紙を開いて、声に出して読んだ。
師匠へ。
生きていたら、返事をください。
水当番は、回しています。
あと、倉庫の鍵を持っていっていませんか。
ミロ
読み終えた彼は、黙って腰の袋に手を入れた。
袋から、古い鍵が一本出てきた。
私は吹き出した。
「笑うな」
「だって、持っとーやん」
「……あいつ、絶対に、得意な顔をしている」
これまで聞いたことのない、砕けた言い方だった。
鍵のかかった倉庫の前で、少年が一人、腕を組んで立っている。会ったこともない子の顔が、なぜか浮かんだ。たぶん、生意気な顔だ。
そして、鍵より先に、師匠が生きているかを書く子だ。
彼は、野帳の後ろのページを一枚破って、返事を書いた。短かった。
「何て書いたと?」
「鍵は返す。生きている」
「順番、逆やない?」
「鍵のほうが急ぐ。あの倉庫に、水当番の桶が入っている」
反論できなかった。
鍵と返事を袋に入れてやると、わせはみかんを抱えたまま、バケツの水に頭から飛びこんだ。水面が一度だけ揺れて、それきりだった。バケツの水は、一滴もこぼれていなかった。
残りの一個は、半分ずつ食べた。
彼の半分は、すじが一本もなくなるまで六分かかった。私の半分は、三秒で消えた。研究費は、これで全部、現場で使い切った。祖父には、結果だけ報告する。
「……あんた、帰れると?」
三日目にして、やっと聞いた。
「帰れる」
彼は、池のほうを見た。
「人が渡れるのは、次は二年後の春だ」
二年。
私は頭の中で、うちの園の暦で数えた。収穫が、秋に二回。花が、春に二回。
片手の指で、足りた。
しばらく、二人とも黙っていた。
黙っているあいだに、彼の服が目に入った。父のシャツは泥だらけだった。父の長靴には、かかとが半分しか入っていない。
「二年も、その服一着で暮らすつもり?」
「ほかには、持っていない」
来たときの長い上着は、母が洗って干してくれている。あとは、父の借り物だけだ。
「じゃあ、明日は買い物」
◇
夜、自分の部屋でノートを開いた。
〔買い物〕
と書いた。その下に、
〔デート?〕
と書いて、消した。消しゴムで三回こすった。
〔作業着〕
と書き直した。正しい。作業着を買いに行くのである。地下足袋も要る。仕事の買い物だ。
ページをめくって、新しいページのいちばん上に書いた。
〔恋愛計画表〕
スマホが鳴った。廊下の向こうの部屋にいる弟からだった。
【颯太】設定、二晩目。家族構成で詰まっとー
【颯太】スイさんって兄弟おる?
知らない。二年いる人のことを、私はまだ、ほとんど何も知らない。
明日、何を着ていくかは、まだ決めていなかった。
……嘘だ。決めていた。私のタンスで、ただ一着、畑に着ていけない服だ。




