第2話 みかんの剥き方で人はわかる
朝の見回りから戻ると、台所で、父の服を着た美形が味噌汁の湯気を見つめていた。
袖が短いので、手首が全部出ている。その手首をテーブルの縁にきちんとそろえ、背筋を伸ばして、湯気から目を離さない。大事な打ち明け話を聞いている人の顔だった。
豆腐とわかめの、いつもの味噌汁である。打ち明けることは何もない。
「これは、どこへ行く」
「湯気? ……そらっちゃない?」
「水が、上へ逃げている」
昨日の朝、取水口の前で「水が、左に寄っている」と言った人である。この人には、うちの台所の水まで、どっちへ寄っているかが見えているらしい。
「冷めるけん、はよ飲まんね」
母に言われて、彼はようやくお椀を両手で持った。一口飲んで、目を閉じた。湯気の行き先より、味噌汁の勝ちだった。
向かいの席では、弟の颯太がトーストをくわえて、彼を観察していた。朝練に出るまでの十分間を、全部この人に使う気だ。
「どこの国の人?」
「ルーダだ」
「どこそれ」
「泉のそばだ」
嘘ではない。ただ、地図に載る答え方でもない。
「じゃあ、得意な属性は?」
「ぞくせい、とは」
「得意なもの。火とか、風とか」
彼は少し考えた。
「水だ」
颯太の口から、トーストが落ちた。
「颯太、はよ学校。朝練、遅れるよ」
母の声は、いつもより一段高かった。弟は落ちたトーストを拾って口に押しこみ、何度も振り返りながら出ていった。玄関の戸が閉まる直前に、「……水」とつぶやくのが聞こえた。
正直なのは、この人の美点だと思う。今朝に限っては、短所だった。
祖父は、黙って卵焼きを食べていた。
「じいちゃん。夜中、懐中電灯持って池に行ったと?」
「見回りたい」
見回りがしたい、ではない。見回りだ、の「たい」である。うちの祖父は、願望を口にしない。欲しいものがあるときは、別の名前をつけて買ってくる。
やっぱり、取水口の枝を確かめに行ったっちゃん。孫の仕事は、まだ信用されていない。
食べ終わると、祖父は麦わら帽をかぶって立ち上がった。
「スイ。来い」
「はい、茂どの」
……どの?
いつの間にか、祖父の名前を覚えている。昨日の夜、母が教えたらしい。祖父を「どの」で呼んだ人は、七十五年で初めてだ。それなのに祖父は眉一つ動かさず、戸口へ向かった。殿様と呼ばれても、この人はたぶん麦わら帽を脱がない。
「どこ行くと?」
「上の段の草ば刈る。まめは、直売所の袋詰めの手伝い」
二人分の足音が、作業場のほうへ遠ざかっていった。
……園の案内は、うちの仕事やけん。
口の中だけで言った。別に、二人で段々畑を歩きたかったわけではない。この春から園に出ている者として、新しく来た人に園を説明する責任を感じていただけである。責任感が強すぎて、少しむくれただけである。
◇
夕方、祖父が果物屋の小さな化粧箱を出してきた。
居間の座卓の真ん中に置いて、ふたを開ける。白い緩衝材のくぼみに、みかんが六個、一個ずつ座っていた。皮がつやつやと光っている。五月にみかんの形をしているものは、たいていハウスで育った、高い子だ。
「……じいちゃん。これ、一個いくらしたと?」
「研究費たい」
値段を聞いたら、費目が返ってきた。
願望を口にしない祖父の、いつもの手口だ。去年の秋、中古の草刈り機は「設備投資」だった。今日の高いみかんは「研究費」。何の研究かは言わない。うちの園のみかんが採れるのは秋からで、いま家にあるのは甘夏だけだ。客に、ちゃんとしたみかんを食べさせたかったのだろう。
ちょうど弟も帰ってきた。木曜は塾がない。
私は立ち上がった。
「審査するけん」
「何ば」と祖父。
「剥き方」
チラシの裏に、油性ペンで書いた。
〔剥き方審査 基準〕
〔一、剥く速さ〕
〔二、皮のかたち〕
〔三、すじの扱い〕
〔四、一房目を口へ運ぶまでの迷いのなさ〕
みかんの剥き方には、人が出る。急ぐ人は急いで剥くし、雑な人は雑に剥く。農業大学校の二年間、昼休みのたびに同級生で確かめてきたことだ。審査員は、言い出した私が務める。
「まず、審査員が手本見せるけん」
へたの反対側に親指を入れて、三秒で剥いた。白いすじは取らない。すじは取らん派だ。すじにも栄養があるし、何より、取っている時間に次の一房が食べられる。二房まとめて口に入れた。
「姉ちゃん。審査員が、いちばん口いっぱいやん」
両頬をふくらませたまま、審査員は反論した。
「ひひょくも、ひんはのうち」
試食も審査のうち、と言ったつもりだった。
颯太は普通に剥いて、普通に食べた。皮は四枚にちぎれた。速さは、審査員の次だった。
最後が、彼だった。
彼はみかんを両手で包むように持って、しばらく重さを確かめていた。
「重い。……水の重さだ」
それから、へたの反対側に、親指の爪をそっと立てた。
皮を、一続きに剥いていく。ちぎらない。急がない。皮は彼の手の中で、ゆっくりと一枚の花のかたちに開いた。
次に、すじだった。
実を覆う白いすじを、指先で一本ずつつまんで、剥がしていく。剥がしたすじは、花の形の皮の上に並べた。並べている。長い順に。
房を分けるときは、爪を入れなかった。指の腹で、合わせ目をそっと広げた。果汁は一滴も落ちなかった。座卓に敷いたティッシュは、最後まで乾いたままだった。
台所から出てきた母が、お玉を持ったまま立って見ていた。祖父は腕を組んでいた。誰も、口をはさまなかった。
弟だけが、私の耳に口を寄せた。
「姉ちゃん。この人、鑑定とかできんと?」
聞こえたらしい。彼は手を止めずに言った。
「かんてい、とは」
「なんでもない」
私は座卓の下で、弟の足を踏んだ。
すじは、最後の一本まで取られた。彼が皮に爪を立ててから、十四分たっていた。
審査員として、採点しなければならない。
一、剥く速さ。十四分。審査員の二百八十倍。
二、皮のかたち。一続きの花。満点。
三、すじの扱い。審査員と流派が違うため、保留。
祖父が、黙って箱から一個取り、彼の前に置いた。彼はまだ、一房も食べていない。
「じいちゃん、顔のいい男に甘すぎやない? 審査員の分は?」
「なか」
研究費の配分に、偏りがある。
彼は、すじの一本もない房を一つつまんで、口に入れた。
噛んだ。
それから、二つ目の房に手を伸ばした。一つ目を飲みこむより、少し早かった。
「おいしい?」
「ああ」
「そっか」
三つ目をつまむ前に、彼は手を止めて、私を見た。
「君が作ったのか?」
「これは、よその」
少しだけ、間があいた。
「……うちのも、秋になったら食べさせちゃる」
彼はうなずいて、三つ目を口に入れた。
審査基準の四番目は、採点し忘れた。
二つ目の房へ伸びた手の速さを、ずっと見ていたので。
◇
二個目の手術は、十一分で終わった。人は成長する。
残りの二個は、祖父が箱ごと台所の棚の上に上げた。研究は、まだ続く。
その夜、父も帰って夕飯が済んだあと、廊下を忍び足で離れのほうへ行く弟を見た。片手に紙、片手に水をなみなみと入れたコップを持っている。
流しで皿を洗っていた母が、振り向きもせずに言った。
「行かせときー。じいちゃんが、颯太にはもう見せてよかって」
「なんで?」
「朝のあれで、もう半分ばれとーけん」
水だ、のことだ。正直者の短所の後始末は、私の知らないところで、もう済んでいた。
私が離れの戸を開けたときには、弟はもう彼の前に正座して、紙を突きつけていた。チラシの裏に、油性ペンで書いてある。
〔異世界人チェックリスト〕
〔一、ステータスオープン〕
〔二、字が読めるか〕
〔三、コップの水〕
人のことは言えない。チラシの裏に審査基準を書いたのは、四時間前の私だ。
「姉ちゃんは黙っとって。これは確認作業やけん」
弟は真顔だった。
「一番。ステータスオープンって言ってみて」
彼は、言われたとおりに言った。
「すてーたす、おーぷん」
何も起きなかった。蛍光灯が、じじ、と鳴っただけだった。
「……出らんか」
「出るわけないやん」
弟は、がっかりした顔をしなかった。ペンで一番に線を引いた。最初から、そこには期待していない顔だった。うちの弟は異世界ものを読みすぎているが、読み方は案外冷静だ。
「二番。これ、読める?」
弟がチェックリストを差し出した。彼は紙をしばらく見て、首を横に振った。
「読めない」
「一文字も?」
「一文字も」
日本語をこれだけ話す人が、ひらがなを一文字も読めない。弟が、ゆっくりと私を見た。私は目をそらした。
弟が、コップを彼の前に置いた。
「三番。……これ、どうにかできる?」
彼が、私を見た。
私はうなずいた。祖父の許しは、母の口からもう出ている。
彼は、弟のほうへ向き直った。
「嘘をつくより、見せるほうがいい」
コップの水に指先を触れて、小さく頭を下げる。
水が、ひとすくいだけ持ち上がった。宙で薄く広がって、真ん中だけ少しふくらんだ、手のひらくらいの丸いレンズになった。その水のレンズが、すうっと弟の顔の前まで来て、止まった。
水の向こうで、弟の右目が二倍の大きさになった。
数秒して、水はコップへ帰った。音もしなかった。
弟は黙っていた。
私は数えた。一、二、三。弟が三秒以上黙っているところを、私は十五年見たことがない。四、五、六、七。
八秒目に、弟が息を吸った。
「……鑑定やん」
違う。たぶん、ぜんぜん違う。でも弟は、夕方、座卓の下で私に足を踏まれた質問に、答えが出た顔だった。
「俺、協力する」
声が裏返っていた。
「絶対ばれん設定、考えるけん。出身地と、家族構成と、日本に来た理由と」
「普通にしてくれるのが、いちばん助かる」
「それがいちばん難しいっちゃん、この顔は」
そこだけは、私も同意した。
弟は離れを飛び出していき、すぐに戻ってきた。手に漫画を一冊持っていた。本棚でいちばん古い、異世界ものの第一巻だ。表紙の角が丸く擦り切れている。
弟はそれを畳の上に置き、右手をのせた。
「この秘密は、俺が守る。体張ってでも」
洋画の法廷の宣誓みたいだった。手の下にあるのが聖書ではなく、異世界に生まれ変わった男が魔王を倒す話の第一巻なのが、うちの弟らしい。
彼は、その様子をしばらく見ていた。それから弟に向き直って、きちんと頭を下げた。
中学三年生の誓いに、大人がまじめにお辞儀を返している。笑うところのはずだった。弟の耳が、真っ赤になっていなければ。
◇
弟が母屋へ戻ったあと、離れの縁側に出ると、彼が先に座っていた。
夜の段々畑は真っ暗で、上のため池も見えない。それでも彼は、そっちを向いていた。
「今日、茂どのと、上の段の草を刈った」
「うん」
「茂どのが機械で刈って、私は鎌で、黒い管のまわりを刈った。茂どのが教えてくれたのは、機械のそばに来るな、ということと、管を切るな、ということと、あの機械は設備投資だ、ということだけだった」
安全と、管と、自慢。三つのうち二つは、大事なことだった。
「それから、上の段から、遠くに大きな水が見えた。大きすぎて、端が分からなかった。あれは何かと聞いたら、茂どのは、明日、君に聞け、と」
……じいちゃん。
朝、案内を取られたと思ってむくれていた。取られていなかった。いちばん大きな水の説明は、私の分として、ちゃんと残してあった。
それにしても、昨日、用水路の横を下りたときも、海は見えていたはずだ。この人は、ザリガニのいる用水路のほうを見て泣いていた。
「水があちこちを通っているのは、分かる。土の中も、管の中も。だが、管の水は止まっていて、どっちへ行くのかを教えてくれない」
彼は、私のほうを向いた。
「明日、園を見せてくれないか。水の通り道を、全部」
私は胸を張った。
「園の案内は、うちの仕事やけん」
朝、口の中だけで言った言葉を、やっと外に出せた。
明日の朝から、二人で段々畑を歩く。水の通り道を、全部。名前を聞いたら全部が名前だった人の言う、全部である。
少女漫画なら、朝の段々畑を二人きりで歩くのは、だいたい見せ場の回だ。でも、これは仕事である。案内である。
案内の終わりには、いちばん上の段に立つことになる。あの大きな水が、いちばんよく見える場所だ。
用水路の前で泣いた人に、海を見せたら、どうなるっちゃろ。




