第1話 うちの池から顔のいい男が出た
去年の今ごろの写真の中で、この枝は白かった。花が多すぎて、葉っぱがどこにあるのか分からないくらいだった。
今年は数えられる。数えた。四十一。
裏年というやつである。
それでも花の匂いだけは、今年も斜面じゅうから上ってくる。よその園の花の匂いも混ざっているのだろう。うちの木の足りないぶんを、ご近所が埋めてくれている。ありがたいような、悔しいような。
スマホをしまって、ため息をついた。
そのとき、上のほうで、どぼん、と水の音がした。
ため息への返事にしては、大きすぎた。
この木のある段の先には、うちのため池がある。私は長靴のまま、残りの段を駆け上がった。
ため池のまわりにはフェンスがある。〔危険 はいるな〕の看板と、救命用の竹竿が一本、立てかけてある。
フェンスの扉を開けて、私は止まった。
池の、取水口に近いあたりに、男の人が浮いていた。
仰向けで、両手を少し広げて、目は開いていた。溺れている人の顔ではなかった。何かに見とれている人の顔だった。
視線の先は、取水口だ。コンクリートでできた、何の変哲もない四角い取水口。毎朝六時半にそれを見に上がってくるのが、この春から家の園に出ている私の、最初の仕事なのに。今朝は先客が見とれていた。
「ちょっと! 大丈夫と!?」
返事がない。聞こえていないのではなく、聞いていない顔だった。
私は竹竿をつかんで、水面に差し出した。
「これにつかまって!」
男の人の手が、竹竿の先をつかんだ。
つかんだ瞬間、私の長靴が、土手の土の上を前へ滑った。
向こうは大人の男で、水を吸った服を着ている。こっちは百五十センチに届かない。物の道理として、引っぱられるのは私のほうだった。
「ちょ、待って、待って待って待って」
長靴のつま先が水に入りかけたところで、男の人はようやく事態に気づいたらしい。竹竿を放さないまま、岸の石に自分で足をかけて、ざぶりと上がってきた。そして、竹竿の反対の端で土手をずり落ちかけていた私を、竹竿ごと引き上げた。
助けに行ったはずの私が、助けられていた。まだ朝の六時半だった。
◇
顔を上げて、言葉が止まった。
濡れた前髪の下の顔が、きれいだった。灰色がかった淡い色の髪から、しずくが落ちている。日に焼けた肌に、水の色に近い薄い目。背が高くて、私の目の高さに、ちょうど彼の胸があった。生成りの長い上着に腰帯を締めて、腰に小さな袋を下げている。どこの国の服なのか、見当もつかない。
頭の中で、少女漫画のページが一枚めくれた。
朝の池。見知らぬ美形。ずぶ濡れ。これはたぶん、そういう出会いの一ページ目だ。
私はまず、前髪を直した。
けがの確認より先だった。引き上げられたのは私だが、助けに来たのも私だ。助けに来た人の身なりが整っているほうが、相手も安心するはずだ。身だしなみは、救助の基本である。
彼は私を見ていなかった。私の肩ごしに、取水口を見ていた。
「ここから、どこへ水を送っている?」
「……畑。てか、あんた誰と?」
「下の家にも?」
「ちょっと、人の話聞いとーと?」
運命の出会いの一言目が「どこへ水を送っている」だった少女漫画を、私は一冊も知らない。百冊は読んでいるのに。前髪を直した時間を返してほしい。
「取水口の格子に、枝が二本かかっている」と彼は続けた。「水が、左に寄っている」
見ると、本当に枯れ枝が二本、格子に引っかかっていた。私は竹竿で枝をすくい上げた。
私の朝の仕事の半分は、池から出てきたばかりの男が先に見つけた。残りの半分は、この男をどうするかだ。
彼は、そこで初めて私を見た。それから、自分のずぶ濡れの服と、私の手の竹竿と、土手に残った長靴の滑った跡を、順番に見た。急に背筋が伸びた。
「すまない。助けてもらった礼を、まだ言っていなかった」
深く頭を下げる。腰から折る、きれいなお辞儀だった。
「私は、スイラン・アルナ・ナギア・ルーダ。ナギアの泉守だ」
「……どこまでが名前?」
「全部だ」
全部だった。
「うちは、立花みのり。……以上」
二十年使ってきた名前が、急に短く思えた。
彼は自分の袖を見下ろした。肘のあたりから、水がしたたっている。
「失礼する」
そう言うと、池の縁に片膝をついた。指先を水面に触れる。それから、私の知らない言葉で、何かを長く言った。歌のようでもあり、役所の書類を読み上げているようでもあった。言い終えると、三度、深く頭を下げた。
私は数えていた。四十秒。
顔を上げた彼が、濡れた袖に手をかざした。
袖から、水が離れた。
一筋、また一筋と、布から抜け出すように離れて、彼の手のひらの上に集まっていく。集まった水は、丸くなった。大さじ一杯くらいの、透明な玉だった。光ったりはしない。ただ、浮いている。手のひらから、指一本ぶんだけ上に。
私は竹竿を握り直した。夢なら、もうちょっと都合のいい夢を見る。
「それ、服ぜんぶにできる?」
「できるが、少しずつだ」
「もう着替えたほうが早いやん」
彼は少し考えてから、うなずいた。そして手のひらの水を、そっと池へ戻した。
「借りた水は、返す」
四十秒の礼で、大さじ一杯。この人の魔法は、たぶん、効率が悪い。
立ち上がった彼が、ぐらりと揺れた。のどを押さえている。
「すまない。水を、少し」
私は腰に下げていた水筒を差し出した。中身は麦茶だ。彼は一口飲んで目を見開き、そのまま最後まで飲んだ。空になった水筒を両手で返しながら、言う。
「生き返った」
池から上がってきたばかりの人に言われると、冗談に聞こえなかった。
◇
警察を呼ぶべきだろうか、と一度は考えた。救急車かもしれない。
でも、彼はどこも痛そうではなかった。それに、「池から男の人が浮いてきました。袖の水を手のひらで丸めていました」と電話で言って、まじめに聞いてくれる大人の顔が、一つも思い浮かばなかった。
うちには、こういうときに決める人がいる。祖父だ。
「とりあえず、うちに来て。下に家があるけん」
池の水の一部は、取水口の脇から用水路に落ちて、段々畑の横を下っていく。下の地区の田んぼまで続く、古い用水路だ。その横の細い道を、私たちは下りた。左に畑、右に用水路。段の向こうには、海が見える。
私が先を歩き、彼が後ろをついてくる。濡れた服が、歩くたびにぺたぺたと音を立てた。
三段ほど下りたところで、その音が止まった。
振り返ると、彼は用水路の前に立っていた。まっすぐ立って、流れる水を見ていた。
泣いていた。
声も出さず、肩も震わせず、ただ涙が頬を落ちていた。
「なんで泣きよーと?」
「水が」彼は流れから目を離さずに言った。「こんなに、当たり前に流れている」
それ以上は、何も言わなかった。
用水路は、いつもどおり、ちょろちょろと流れているだけだった。底にはザリガニがいる。夏には、私が藻をかき出す。地区の溝さらいでは、毎年祖父が一番に文句を言う。そういう用水路だ。
男の人が泣くのを、こんなに近くで見たのは初めてだった。場所は、ザリガニのいる用水路の前だった。
◇
家に着くと、父はもう車で町の会社へ出たあとで、弟は朝練、母は直売所の朝の当番に出ていた。作業場の前で、祖父が一人、軽トラの荷台を片づけていた。
祖父は七十五歳で、小柄で細くて、真っ黒に日に焼けている。外で麦わら帽をかぶっていない祖父を、私は見たことがない。
「じいちゃん、あのね。池に、この人が」
祖父は顔を上げて、私の後ろの男を見た。それから、畑の上の、池のあるほうを見た。もう一度、男を見た。
一秒くらいのことだった。
「ああ、うちの客たい」
祖父はそう言って荷台に戻り、背中のまま言い足した。
「まめ。着替えと飯ば出しちゃれ」
……じいちゃん、男前に弱かったと?
七十五年も生きて、まだ孫の知らない一面が残っているとは思わなかった。それと、客の前で、まめと呼ぶのはやめてほしい。小さいから、まめ。地区の人はみんなそう呼ぶ。祖父に言わせると、まめに働くから、だそうだ。どちらにしても、二十歳の女につけるあだ名ではない。
「警察とか、呼ばんでいいと?」
「呼ばんでよか」
いつもより短くて、いつもより強い声だった。頑固が出た、と私は思った。こうなると、祖父は理由を言わない。
祖父は荷台から降りて、彼に名前を聞いた。彼はさっきと同じお辞儀をして、同じ名前を言った。スイラン・アルナ・ナギア・ルーダ。
「長か」祖父は言った。「……スイでよか」
水の人の名前が、スイ。出来すぎやろ。
着替えには、まず祖父の作業着を出した。肩で止まった。次に父のタンスを開けた。父の服を着た彼は、袖から手首が全部出ていた。ズボンの裾は、すねの真ん中で終わっていた。美形が着ると、サイズの合わない服でも、ちょっと狙った格好に見える。腹が立つ。
昼前に帰ってきた母は、祖父から話を聞くと、彼を頭から足まで一度見て、言った。
「和也の服でも短かね」
それから、お昼のおかずを一品増やした。うちの母は、だいたいのことを、服と飯の問題に直してから片づける。
夜、父が帰ってきた。父は、祖父や母ほど簡単には片づけなかった。台所のテーブルで、ゆっくり聞いた。
「どこから来たと?」
「ルーダという村の、ナギアの泉から。泉の水位を測っていて、落ちた」
仕事中の事故やん、と私は思った。
「気づいたら、ここの池に浮いていた。それ以上は、うまく言えない」
父が黙ると、彼は自分のコップの水に指先を触れて、小さく頭を下げた。池のときより、ずっと短いお辞儀だった。
コップの水が、細い輪になって浮いた。指輪くらいの大きさで、ゆっくり一回りして、またコップの中へ戻った。
父はしばらく口を開けていた。それから、祖父を見た。祖父は味噌汁を飲んでいた。母は黙って、彼の茶碗にご飯のおかわりをよそった。
「……じいちゃんがそう言うなら」
父はそう言った。目の前で見たものと、祖父の一言。この二つがそろうと、うちの家族には反論の材料がない。
「颯太には、まだ言わんどき」と母が言った。「あの子、明日には学校中に言うけん」
弟の颯太が帰ってきたのは、部活のあと塾に寄って、夜の八時を過ぎてからだった。中学三年生で、本棚の半分が異世界ものの漫画だ。
台所に入ってきた弟は、袖の短い美形を見て、それから私を見た。
「姉ちゃん。それ、どこで拾った?」
「人に向かって、それって言うな」
「じゃあ、どこで拾った人?」
祖父が箸を置いた。
「離れの部屋ば、使わせちゃれ」
それで、今夜、彼がいてよい場所ができた。明日のことは、明日の祖父が決める。
夜中に水を飲みに起きると、台所に明かりがついていた。
流しの横に、水の入ったコップが三つ並んでいた。その前に、彼が立っていた。
「これは、ひねると、いつでも出るのか」
「出るよ」
「三回、確かめた」
三回とも、出たらしい。
「その水、どうすると?」
「捨てない」
彼はコップを一つずつ持って、玄関の花瓶と、窓辺の鉢植えに分けて注いだ。三つ目は、自分で飲んだ。それから、明かりを消した。
廊下の暗がりで、弟が待ち構えていた。声をひそめて言う。
「姉ちゃん。あの人、絶対、普通やない」
うちの弟は、異世界ものを読みすぎている。今回に限っては、たぶん、読みすぎていない。
部屋に戻る前に、廊下の窓から外を見た。
畑の上のほうを、懐中電灯の明かりが一つ、ゆっくり上っていくところだった。明かりの上に、麦わら帽の影が揺れている。祖父だ。夜中でも、外では脱がないらしい。
その先には、ため池しかない。
取水口の枝を、自分の目で確かめに行ったのだろう。孫の仕事を信用していない。頑固な人は、夜中まで頑固だ。
それにしても、夜中に池を見回る祖父を、私は今夜、初めて見た。




