第37話 白い水が空から落ちてくる
ゆうべの雷で、家族六人がいっぺんに飛び起きた。
「鳴ったな。あしたは、寒うなるぞ」
じいちゃんだけがそう言って、さっさと布団に戻っていった。
年が明けてから、冷たい雨は何回か降った。四日も、六日の夜も、七日も、白いのか透明なのか分からん粒ばっかりで、地面に着いたらすぐ水になった。
そのたびにスイは縁側へ出て、空を見上げて、肩を落として戻ってくる。
「……まだ、白くない」
雪を、待っとーらしい。
一月九日の朝は、北西の風が、ごうごう鳴っていた。
じいちゃんの段取りは三つで、朝のうちにポンプと小屋の蛇口の水を抜き、昼から上の段の若木に布を着せ、夕方に貯蔵庫の冷え止めをする。冷え止めは、窓と戸を閉めて、箱に毛布をかけることだ。
若木には、本当はきのう着せるはずだった。きのうは全部の箱の点呼で一日つぶれて、夜は雨と雷だったのだ。
ポンプの水を抜いたじいちゃんとスイが、池から下りてきたのは十一時すぎ。じいちゃんは石段の途中で一回、取水口のほうを振り返った。
そのあいだに、北の空の低いところが、墨を流したみたいに暗くなっていた。
「……段取りより、早かな。夕方から、もっと吹くぞ」
じいちゃんは、去年の冬も若木に着せた白い不織布の束を、肩にかつぐ。
「若木は、おれがやる。お前らは貯蔵庫」
えっ、ちょっと待って!
私が農業大学校に行っとったあいだに、じいちゃんが一本ずつ植えた若木だ。この風の中で一人でかぶせたら、布が、じいちゃんごと飛んでいく。
若木は、冷たい北西の風に当たったら葉を落としやすいし、ひどかったら枝まで枯れる。暗くなったら、斜面には出られない。
でも、貯蔵庫には、十五日に出ていく青島が待っとる。毛布かけだけでも、何十箱だ。
若木は、三人おらんと布が飛ぶ。貯蔵庫に二人回したら、上はじいちゃん一人。
両方なんて、どう数えても無理やん!
十月、待たせる木を決めた朝に、スイが話してくれた村の日照りの配り方を、私は思い出していた。
「三人で、若木が先。危ない所から先に」
スイが、はっと私を見た。じいちゃんは、布の束をかつぎ直しただけで、何も言わなかった。
「貯蔵庫には、毛布だけかけてくる! 先に上がっとって!」
二人が布をかついで石段を上がっていくのを見送って、私は貯蔵庫へ走る。
毛布を抱えて、北の列の出荷の箱から順にかけていく。十五日に出ていく青島が、先。母屋まで取りに戻る時間は、ない。
ふと見上げると、北の高い窓が、けさ開けたままになっていた。冷えた朝だけ開けてよか、の窓で、夕方の冷え止めで閉めるつもりだったのだ。
手をのばして、つま先で立つ。……指先が、金網に届かん。
小さいのが、こんなとこで効いてくると!?
脚立は、上る係と脚を見る係の二人がかり、がうちの決まりだ。
戸口から上の段を見上げると、白い布が、もう風をはらんで暴れていた。
スイを呼んだら、あれが飛ぶ。
窓には、夕方まで待ってもらう。
最後に、北の角の家用の箱の前に立ったとき、腕の中の毛布は、もう一枚も残っていなかった。
「……待っとって。若木が済んだら、すぐ来るけん」
……箱に、頼みごとしてしもうた。
◇
上の段は、風の通り道だった。
六本の若木が、支柱に一本ずつ寄りかかって、細い枝をふるわせている。
「押さえれ!」
じいちゃんが叫ぶと、スイが風上に回って、ふくらんだ不織布を両腕で抱えこむ。じいちゃんが、支柱のてっぺん、真ん中、株元と、ひもで縛っていく。
私は、ひもを切って渡し、すそに畑の石をのせて回る係だ。葉っぱは押しつぶさない。布の中でも、ちゃんと息ができるように。
一本目は、風が布を三回さらって、縛り終えるまでに一時間かかった。
二本目からは、スイが布の端を先に足で踏む。三本目。
四本目のひもを渡したとき、スイの手が、止まった。
灰色の空から、白いものが、ふわっと落ちてくる。
一つ、二つ。すぐに数えきれなくなる。
「……水が、白い」
スイが、空を見上げたまま言う。
四日も六日も七日も肩を落とした雪が、やっと白い!
雪は、布に落ちたとたんに溶けて、小さなしみになる。
「落ちたら、水に戻るのか」
スイは片膝をつきかけたけれど、布がばたっと暴れたので、立ったまま、雪に一回だけ頭を下げた。
梅雨入りの日の雨には、片膝をついて長々と礼をしたのに、初めての雪は一回で済んだ。……布のおかげで。
布の肩のくぼみに、溶けた雪が少しずつたまって、いまにもしみこみそうだ。
「しみこむ前に、どかす」
スイは、そのくぼみに指先をそっと触れて、小さく頭を下げる。くぼみの水が、すうっと浮いて、段の土へ落ちた。
それから、濡れた布に、手のひらを当てた。
「……これが、ぬるい水なら、いいのに」
スイは、自分の手を見つめる。
「水は、温められない」
布も若木も、冷たいまま。
水守にもできんことがあるとやね、と思った私の横で、スイはもう布を押さえ直していた。
「温められないなら、押さえる」
私も、石を抱えたまま叫ぶ。
「そのぶん、しっかり押さえて!」
五本目、六本目。雪が来てから、布は倍暴れるし、ひもは指にくっつく。
最後のすそに石をのせたとき、雲の下の空が、もう青く暗くなりかけていた。
スイの手のひらが、真っ赤だ。
私はポケットからカイロを出して、その手のひらにのせた。
「手のひら一杯の、あったかいの」
スイが、両手でカイロを包んで、ちょっとだけ笑う。
……渡したほうの私の手まで、なんで熱いと?
◇
石段を下りきったところで、あたりが、ふっと暗くなった。
その足で、貯蔵庫へ走る。入口の柱の裸電球をつけると、北の窓から、細かい雪がまだ吹きこんでいた。
スイが、つま先も立てずに手をのばして、北の窓をすとんと閉めた。ついでに、南の窓も。
うちが、つま先立ちで届かんかった窓が!
北の角の家用の箱のいちばん上で、溶けた雪が、水の玉になって光っている。
一、二、三……七個。
「……待たせて、ごめん」
濡れた実を、一個ずつタオルでこすらずに押さえて拭いて、かごへ移す。箱そのものは動かさない。暗いうちは運ばない、がうちの決まりだ。
「誰を、待たせた?」
かごの端を持ってくれたスイが、小さい声で聞く。
「昼に、ここに来て、この箱に待っとってって言うたと。窓は、閉められんかったけど」
スイは、北の角の箱を、しばらく黙って見ていた。
北の角は、三度。箱の上にかけた毛布のふちも、雪でしっとりしている。
「濡れた毛布は、替えないかん」
「母屋の、取ってくる!」
「飯が先たい。手の凍えとる」
じいちゃんに言われて、自分の指がかじかんでいるのに、やっと気づいた。
その晩ごはんは、水炊きだった。
お母さんが朝のうちに炊いておいた白いスープの鍋が、こたつの上のコンロで、ことこと鳴っている。こたつは四人で満席なので、お母さんは角に膝をついて、お玉の係だ。
「骨つきの鶏ば、だし入れんで、水から炊くと。最初にスープば飲むとよ」
お母さんの説明を、スイは真剣な顔で聞いて、鍋をのぞきこむ。
「水を、炊く……?」
鍋とお母さんを見比べて、もう一回。
「水は、炊くと、何になる」
「お湯!」と颯太。
「スープ!」と私。
じいちゃんだけ、鍋を見たまま言う。
「……そりゃ、水炊きたい」
三人とも、答えがばらばらやん!
スイは、ことこと鳴る鍋を、ちょっとうらやましそうに見ている。鍋は、水を温められるもんね。
それから、お椀のスープを一口飲んで、目を閉じる。
「……今日は、白い水が、二度来た」
うまいこと言うた顔せんで!
そこへ、お父さんが肩の雪をはたきながら帰ってくる。
「坂の下の道が、みんなゆっくりでな」
じいちゃんから毛布の話を聞くと、お父さんは鍋より先に、母屋と離れの毛布を全部袋に詰めて、貯蔵庫へ向かっていった。颯太がスマホで足もとを照らして、ついていく。
「スイさんの相棒は、毛布も運ぶけん」
「待って、お父さん。うちらの今夜の毛布は!?」
その晩、家族六人は毛布なしで寝た。うちの青島のほうが、あったかくして寝とー!
◇
十日の朝、明るくなるのを待って外へ出ると、段々畑が、うっすら白かった。
夜中に降った雪が、溶けずに残っている。
気持ちだけ駆け足で、石段の雪を一段ずつ踏んで上の段へ上がると、六本の布の上にも、白いのが薄くのっていた。そっとすそをめくると、葉は緑のまま。
いまのところ、六本とも無事!
そのまま、いつもの取水口の見回りに上がる。凍ったふちには寄らずに、長靴で雪を払ってから、取水口のコンクリートの上から見る。
池のふちが、ぱりぱりしとー! 流れのない所に薄い氷が張って、格子のすき間にも、細い氷が光っている。
それと、格子の下に、泥がたまっていた。
……泥って、こんなにあったっけ。
石段を下りて、貯蔵庫へ。北の角は、一度。ゼロは割っとらん! 窓と毛布、えらい!
乾いた毛布の下の出荷の箱は、全部無事だった。
スイが、北の角の家用の箱を、内側の列へ移す。
お母さんが、かごの七個をのぞきこむ。七個とも、柔らかい所はない。
「洗うて、今夜のうちに搾ろう。ジュースなら、無駄にならん」
濡れた七個を見ていたら、十二月の朝の自分の声を思い出した。
「でも、うちは、一個も腐らせたくないと」。結露を見つけた朝、じいちゃんにそう言い返したのだ。
一個も、は無理やった。七個、待たせて、濡らした。
でも、どれを待たせるかは、うちが決めた。
スイが、空いた北の角を見ている。
「まめは、待たせる所に、待てと言いに行った。村では、それが、いちばん難しい」
胸の奥が、きゅうっと鳴った。スイの顔、見られん!
じいちゃんが、北の列の毛布に手をかけた。
「待てて言いに行ったとなら、よか。……明るかうちに、めくるぞ」
それから十四日まで、毎朝、入口の列と角の列を見て回った。かびの出る箱は、もう増えん!
十五日の朝は、時雨と冷たい北風。初出荷の日くらい、晴れてくれてもいいやん!
明るくなるのを待って、作業場の軒下で、スイが軽トラの荷台に出荷の箱を積み、ゴムひもと雨よけのシートをかける。運転は私で、助手席にスイ。
選果場の荷受けには、もう王子の軽トラが並んでいた。
「初出荷の一番は、若手の代表がもろうたぞ」
「二番は、うちがもらう!」
スイが、荷受けに箱を一つずつ下ろしていく。
十二月から見張ってきた箱が、一つも欠けずに、奥へ運ばれていく。
私は、小さく手を振る。
「行ってらっしゃい!」
この冬の私、箱にばっかりしゃべっとー!
出荷の箱は、守りきったー!
帰ると、じいちゃんが、池の取水口の前に立っていた。
十日に見た泥のことは、まだ聞けていない。
「十五日の済んだけん、言うとく」
じいちゃんは、長靴の先で、格子の下の泥を指す。
「今年は、池を干す」
「……干す?」
「水ば抜いて、底の泥ば上げる。届け出とる池は、手入れせんといかん」
それだけ言って、じいちゃんは石段を下りていった。
横で、スイの顔から、すっと色が引いていた。
この池は、スイが浮かんできた池で、春の花があと二回咲いたら、スイが帰っていく池だ。
「……干したら、向こうとつながっとーとこ、どうなると?」
小さい声で聞くと、スイは池を見たまま答える。
「分からない。水守の記録に、ない」
水守の記録にないことを、うちのじいちゃんが、長靴の先一つでさらっと決めた。
じいちゃん、この池、ただの池やないとよ!?




