第36話 手水舎で礼が終わらない
「はい、次の子。お尻、見せてー」
大晦日の朝、ゆうべ新聞紙が波打っていた入口の箱の、下の段で、私は青島を一個ずつ持ち上げていた。
「……まめ。それは、みかんに言っているのか」
箱を下ろしてくれたスイが、真顔で聞く。
「みかんに決まっとーやん!」
かびは、小さな傷から入る。その傷が下の側にあったら上からは見えないので、軍手の指でそっと持ち上げて、お尻まで見て、すぐ同じ場所に戻す。
濡れとらん。しみもない。鼻を寄せても、かびの匂いはしない。
次の子も、その次の子も、つやつやの肌をしている。
「全員、無事!」
私の声が、貯蔵庫の奥まで跳ねていった。
北の角の湿度は、九十二のまま。
窓を開けるのは冷えた朝だけ、がじいちゃんの決まりで、けさは、なんだかぬるい。
開けたい。開けたいけど、開けたらぬるい空気を呼びこむだけやん!
「次の点呼は、三が日明けね」
「てんこ、とは」
「一個ずつ、無事か確かめること!」
毎日さわると、それだけで傷がつくので、三が日は上から見て匂いをかぐだけにしておく。
スイが「てんこ」と小さくくり返して、新しい言葉をもらった顔でうなずいた。
母屋に戻ると、居間のこたつの上に、ゆうべお母さんが入口の箱から取ってきた、年始の青島の鉢がのっている。
その晩は、年越しのそばをすすって、九時に寝た。除夜の鐘は、夢の中で聞いた。
◇
元日の朝は、きりっと冷えて、窓を開けてよか、の朝がやっと来た。
貯蔵庫の高い窓を少しだけ開け、昼前に閉めに戻ることにして、家族六人で坂の上の神社へ歩いて向かう。
坂の途中で振り返ると、上の段の端に、支柱を添えた細い木が何本か立っている。
枯れた古い木の跡に、私が農業大学校に行っとったあいだ、じいちゃんが植えた若木だ。背丈は、まだ私くらい。つまり、小さい。
鳥居をくぐって手水舎に着くと、すぐ後ろに、地区の人が十人ほど並んだ。
元日の朝から、神様は繁盛しとー。
屋根の下に石の鉢が一つあって、竹の筒から細い水がずっと流れ出て、鉢のふちからあふれている。
「神様に会う前に、水で手と口を清めるとって。左手、右手、口、左手の順」
颯太が、スマホの画面を読みあげる。
「柄杓のあったころは、一杯で、手も口も済ませよった」
じいちゃんの話だと、いまは柄杓がなくて、流れる水に手を出すらしい。
「水に、清めてもらうのか」
スイの声が、ぴんと張った。
「頼みごとなら、礼がいる」
あ。これ、長いやつやん。
ところが、スイは竹の筒の前で、まず止まった。
「……止まらないのか、この水は」
「裏の山の沢の水たい」
じいちゃんが、自分の手を筒の下に出しながら答える。
「止めんでも、どうせ流れよる水ば、ここに通しとるだけ。あふれたとは、溝から下の川に戻る」
じいちゃんは、五秒で済ませた。
スイの肩から、ほっと力が抜ける。
それから、石の鉢の前に片膝をついた。
元日の手水舎で片膝をつかれたら、後ろの地区の人たちも、そりゃざわつく。
「すべての水よ。スイラン・アルナ・ナギア・ルーダ——」
ここまでは、いつもの長い名乗りだ。
次は、借りる量と、使い道を言うところ。
「いま、この筒の水を——」
スイの口が、止まった。
「……いまの水は、もう行った」
え?
「この水は、別の水だ」
スイは、最初から長い名前をやり直した。
「いま、この——……もう、行った」
お父さんとお母さんが、後ろの列に黙って頭を下げている。
三回目の名乗りで、颯太が足踏みを始めた。
「スイさん、俺の合格が後ろで待っとーけん! 無限ループ入っとーって!」
流れる水には、「この一杯」が言えない。
水守の決まりが、正しすぎて詰んどー!
颯太が、スマホをポケットに突っこむ。
「範囲指定! 範囲指定して、スイさん!」
「はんいしてい、とは」
「手のひらに受けた分だけ借りる、ってこと! 受けた水は、もう流れていかんやろ」
颯太の代わりに私が訳すと、スイは、筒の下に出しかけた自分の手を見た。
「……手のひら一杯」
スイの目が、すっと澄んだ。
「それなら、言える」
左手に受けて、礼。右手に受けて、礼。左の手のひらに受けて口をすすぎ、足もとの溝へ返して、礼。もう一度、左手に受けて、礼。
四回受けて、三回ずつで、十二回!
手のひらの水はぴくりとも動かんまま、魔法なしの礼だけで、この長さ!
列の中ほどで、どこかのおばあちゃんが、スイに向かって手を合わせている。
拝む相手、違いますけど!?
拝殿の前では、今度は颯太が長かった。
手を合わせたまま、石みたいに動かない。
「颯太、後ろの詰まっとーよ」
お母さんが袖を引くと、颯太は目を閉じたまま言った。
「受験生は、長く頼んでよかと!」
さっき「合格が待っとー」って、スイを急かしよったやん!
私の願いは、一個だけ。
青島が、初出荷の十五日まで、一個も腐りませんように。
……あと、恋も。一個だけって言ったけど、恋は別腹で。
帰りの石段で、スイに聞いてみた。
「スイは、何をお願いしたと?」
「頼んではいない。報せた」
「報せた?」
「去年、この地の水を、たくさん借りた。その報せだ」
神様に、借用の報告!?
スイは、誇らしげに胸を張っている。
神様、いまごろ帳簿をめくっとーよ、きっと。
◇
うちの青島が、大人気だ。
二日の昼も、年始のお客さんが来るたびに、お母さんが貯蔵庫へお土産の青島を取りに走っていく。
おかげで、お母さんは筆を持つひまもない。
居間では、書き初めだ。
こたつの天板を空けるために、私は年始の鉢を、ストーブの近くの棚によけた。
じいちゃんが、押し入れから古い硯と墨と、手のひらに収まる焼き物の入れ物を出してくる。
じいちゃんの押し入れは、正月だけ書道具屋になる。
「それは」
「水滴。硯に水ば差す道具たい」
「……水を差す道具の、名前が、水滴」
スイが、名前ごと好きになった顔で固まった。
一人一枚ずつ、書いていく。
颯太は〔相棒〕。
「合格やないと!?」
「合格は、神社で頼んだけん」
台所からのお母さんの悲鳴を、颯太はさらっと流した。
受験生の書き初めが、異世界人の相棒って。
お父さんは〔休〕。
「去年も、その字やった」
お母さんに言われて、お父さんは黙って筆を置いた。
去年は、休めんかったらしい。
じいちゃんは〔早〕を、一字だけ太く書いた。
「何の早?」
じいちゃんは答えずに、筆を洗いに台所へ行った。
説明、なし!
さあ、私の番だ。
好きな人の国の字で書き初めをするなら、今しかない。
「スイ。村の字、一個教えて。いちばん大事な字」
スイは、迷わなかった。
「水だ」
「……ですよね!」
聞く前から、知っとった。
スイが、半紙の端に手本を書く。
小さな輪の外を、一回り大きな輪が囲んで、そのまた外を、もっと大きな輪が囲む。
いちばん下に、水面の線を横に一本。
「泉に、一滴落ちたところだ。村の子は、この字をいちばん先に覚える」
五月に野帳を初めて見たときから、波紋みたいな字だと思っていたけど、ほんとに波紋やった。
筆に墨を含ませて、輪を三つと、横に一本。
真ん中の輪が、ちょっとつぶれた。
泉、へこんどー。
「まめの水が、光っている」
スイが、私の半紙を見て言う。
「墨やけど!?」
「墨の中の、水だ。乾くまでは、水だ」
うちの字が。スイの目に。光って。
「こたつの上やと、すぐ乾くよー」
お母さんの一言で、私は半紙を持って立ち上がる。
「乾かんで!」
半紙を両手でかかげて、居間をうろうろする。
持ち歩いても乾くもんは乾くって、知っとーけど!
墨の照りが、輪のふちから、だんだん引いていく。
「……消えた」
スイは残念そうに言ってから、乾いた半紙をのぞきこんだ。
「乾いても、まめの書いた水だ」
顔、熱っ。ストーブのせいにしとこ。
最後に、スイが自分の名前を、名と、母の名と、泉の名と、村の名の順に書く。
村の字で書くと、名前は日本の字よりずっと長くなって、半紙の上から下まで、丸い線がびっしり並ぶ。
その三つ目の名前のところに、見覚えのある輪が三つあった。
「あ。うちの水!」
「ナギアは、泉の名だ。湧く水、と書く」
スイの長い名前の中に、さっき覚えたばかりの字がおる。
初めて、スイの名前が、ちょっとだけ読めた。
◇
ぶにっ。
三日の朝ごはんのあと、棚の鉢から青島を一個取ったら、指が沈んだ。
ひっくり返すと、お尻に白い綿みたいな輪があって、その真ん中に青緑の粉がのっている。
鼻の奥に、つんとかびの匂いが来る。
「うちの青島がー!」
隣の実にも、青緑の粉がうっすらついている。
お母さんが台所から飛んできて、かびた実を袋に入れ、口をきゅっと縛った。
「かびたとは、捨てる。隣のは、洗うて、今日食べる」
粉のついた実は、こすらずに流しの水でそっと洗って、もう鉢にも箱にも戻さない。
この鉢、入口の箱から来たやつやん……!
しかも、ストーブのそばに置いたの、うちやん! 犯人、うちやん!
「姉ちゃん、犯人が第一発見者のパターンやん」
颯太の一言は聞こえなかったことにして、スイとじいちゃんと、貯蔵庫へ走った。
入口の上の箱は、無事。
スイが箱ごと下ろして、下の段。大晦日に、二人で点呼した段だ。
一個目、よし。二個目、よし。三個目、四個目、よし——。
五個目で、手が止まった。
お尻に、親指の爪くらいの、色の濃い所があって、水を含んだみたいに、ちょっと透けている。
指の腹で触れると、皮がぶよっと沈んだ。
白い綿は、まだない。
その三つ隣に、もう一個。
「大晦日に見たときは、なんもなかったとに!」
「傷は、見えんうちから入っとる。穫るときの爪か、軸か」
じいちゃんが、柔らかい実をのぞきこんだ。
「じゃあ、点呼しても、見つからんと!?」
「出てくるまでは、分からん」
大晦日の「全員、無事!」は、なんやったと……。
じいちゃんは、入口の戸を振り返った。
「昼に戸の開くたびに、ぬるか空気の入るけんな。入口は、どうしてもそうなる」
お土産を取りに、正月の戸は何回も開いた。
大人気の青島が、あだになっとー。
スイが、柔らかい実を一個、手のひらにのせた。
「……この実は、皮の一か所に、水が寄っている。だが、それが腐れか、ぶつけた傷か、浮いた皮かは、私には分からない」
「それは、うちの指と鼻の仕事!」
北の角の家用の箱も見に行ったら、無事で、かびの匂いもしない。
九十二の角ばっかりにらんどったやん、うち!
じいちゃんは、柔らかい二つを袋に入れて口を縛り、それに触れていた何個かを、かごに分けた。
かごの分は、お母さんに回して、家で今日と明日で食べる。
「鉢で先に出てくれたけん、箱で広がる前に分かった。……早か」
十二月、結露を見つけた朝、じいちゃんは「腐ったとを、早う見つけて抜けばよか」と言った。
書き初めの〔早〕は、これのことやったと!?
犯人、まさかの手柄になったー!
部会の初出荷まで、あと十二日。
「十五日までに、全部の箱を一回ずつ、下の段まで点呼する。入口の列と、かびの出た列は毎朝!」
「……全部か」
「全部!」
お父さんは六日から会社で、お母さんは加工所、颯太は受験勉強なので、残るのは、じいちゃんとスイと私の三人だけ。
三人で、全部の箱のお尻!?
じいちゃんが、袋の口をもう一回縛る。
「なら、おれも見る」
「私は、箱を下ろす」
スイも、軍手をはめる。
毎朝の列は、大晦日と同じで上から見て匂いをかぐだけにして、匂いの怪しい箱だけ、一個ずつ持ち上げる。
袋は、外のふたつきのごみ箱へ直行で、貯蔵庫のそばには一個も置かせん!
その晩、居間のテレビで、天気予報のお姉さんが声を一段低くした。
「来週の後半にかけて、この冬いちばんの強い寒気が流れこむ見込みです。平地でも、雪のおそれ——」
じいちゃんの箸が、止まる。
「九日、十日あたりたい。……貯蔵庫ば、凍らせたらいかん。凍ったら、売り物にならん。上の段の若木にも、布ば着せないかん」
点検の真っ最中に、寒波!?
「……雪」
スイが、テレビを見たままつぶやく。
「七月に、白いシートの段を見下ろして、まめが言っていた。白い氷が、空から降ってくる」
「言うたけど……」
「見られるのか」
スイの目が、ぱあっと輝く。
「……見たい」
「喜ばんで!」
スイは、真剣な顔で颯太のほうを向いた。
「颯太。雪の、はんいしてい、は」
「考えんで! かびに寒波に、雪の礼まで!? うちの正月、まだ三日目なんやけど!」




