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第35話 返し手は息で決まる

「男前は、返し手!」


 十二月三十日の月曜、坂の下の公民館の前で、ママの声がいちばん大きかった。


 ママの忘年会は、昼の餅つきから始まる。


「二十八は縁起のよか日やけど、店の大掃除。二十九は苦、三十一は一夜飾り。やけん、うちの餅つきは三十日たい」


 ママが言うと、日取りまで口上に聞こえる。


「王子は杵! ハツヨさんたちは丸め! 颯太は、もち米!」


 直売所の三人組が、そろって手袋をはめた。


 颯太は「受験生を運搬係に……」とぼやきながら、台所へ走っていく。


 お父さんは、黙って臼を運んでいる。


「かえしで、とは」

「杵が上がっとーあいだに、臼の餅をひっくり返して、濡らした手で湿らせる係」


 スイの顔が、ぱっと明るくなった。


 水の係だ。そりゃ、明るくなる。


 そこへ、じいちゃんが坂を下りてきた。


 段ボール箱を一つ、箱の横腹を自分のお腹に当てて抱えている。


 貯蔵庫の真ん中の列にあった、〔千代〕の箱だ。


「千代。今年の分たい」

「……毎年、重かね」


 ママは、ふたを少しだけ開けて中をのぞき、すぐに閉めた。


 それから、ちらっと私を見た。


 口が開いとったらしい。


 いつからの「毎年」なのかは、今日も聞けない。


 その貯蔵庫が、いまちょっとまずい。


 二十四日に、じいちゃんが青島の皮を指で押して言った。


「予措は済んだ。窓は、これからは冷えた朝だけたい」


 それまでは、雨の日のほかは窓を開けて、皮の水を抜いていたのだ。


 窓を閉めてから、北の角の湿度がじりじり上がって、けさは九十一。


 九十を超えたままやと、せっかくしおらせた皮が、また水を吸い戻してしまう。


 十日がかりの予措が、水の泡やん!


「じいちゃん。お昼に一回、貯蔵庫を見に帰ってもいい?」

「貯蔵庫は、逃げん」


 じいちゃんは、臼に熱湯をかけながら言った。


「部会の初出荷は、十五日たい。それまでに、まめのほうが倒れたら、角どころやなか」


 十五日は、貯蔵庫の青島が初めて売り物として出ていく日で、あと十六日しかない。


 分かっとー。分かっとーけど、気になるもんは気になる!


 頭をぶんぶん振って、湯気の上がる臼を見た。


 餅つきは、少女漫画でいえば、ケーキ入刀だ。


 スイが返して、私がつく。二人で一つの臼。


 これはもう、初めての共同作業やろ!


  ◇


 お母さんが火の番をしていたせいろの蓋が開くと、白い湯気が、どっと冬の空に上がった。


 前の晩から水に浸けたもち米が、つやつやに蒸し上がっている。


「この湯気は、一粒ずつ、分かる」


 スイは、もち米より湯気に夢中になっている。


 どっちが主役よ。


 最初の一臼は、じいちゃんが返して見せた。


 王子が杵の先でもち米をこねて、それから、つく。


「返したら、手を臼の外に引いてから『はい』。杵は、その声ば聞いてから下ろす」


 どん、はい。どん、はい。


 じいちゃんの手は、杵が上がるたびに臼に入って、餅をくるりと返して、もう外にある。


 速すぎて、手が四本に見える。


「手水は、餅の肌の光るくらい。多かったら、餅のゆるむ」


 二臼目は、いよいよスイの番で、じいちゃんが臼の横にぴったりつく。


 スイは桶で手を濡らすと、手首を一回、ぴっと振った。


 餅の上に、三滴。


 返して、「はい」。どん。


 また濡らして、ぴっ。三滴。


 毎回、きっかり三滴。


「……三滴で、足りるとか」


 じいちゃんの眉が、ぴくっと上がった。


 餅の肌は、ちゃんと光っているし、ゆるみもしない。


 もち米の桶を抱えた颯太が、目を丸くして固まっている。


 魔法かどうか、確かめている顔だ。


 魔法やない。礼もしとらんし、手首だけで、きっかり三滴。……職人やん!


「男前の手水!」

「手首の返しまで、男前やねえ」


 丸め台の三人組が、身を乗り出した。


 餅を丸める手が、完全に止まっている。


 ここからが、私にとっての問題だった。


 どん、はい。どん、はい。


 王子の杵とスイの返しが、一発目から、ぴったりそろっている。


「スイ。お前、返しの才能あるぞ」

「王子の杵は、まっすぐだ」


 見つめ合って、うなずき合う二人。


「男同士で、息の合うとー!」


 叫んだら、ハツヨさんに飴を一個握らされた。


「まめちゃん、妬かんでよかよ」


 妬いてない。……妬いとーけど!


 一臼つき終わるごとに、スイは桶の手水を空けて、水道で新しい水に替える。


 古い水は、植え込みの土にそっと返していた。


 三臼目、ようやく私の番が来た。


 杵を握ると、思っていたより、ずっと重い。


 振り上げると、杵の重さに体ごと持っていかれた。


「はい」


 スイの声から、私の杵が落ちるまで、二秒かかる。


 どん。


 その二秒で、餅の湯気がみるみる細くなっていく。


「まめ、杵に振られよる」


 ママの声が、容赦なかった。


  ◇


「まめ、代わるか」


 王子が、親切そうな顔で手を出してきた。


「代わらん!」


 五月のいずみでは、デュエットを王子に取られた。杵まで取られてたまるか!


 でも、このままだと、餅が冷める。


 どうしたら、拍子が合うと?


 ……あ。


「スイ。あの歌、歌って。五月の、水汲みの」


 スイが、臼の向こうで、少しだけ目を見開いた。


「拍子を、水汲みで取るのか」


 スイは、桶に手を浸したまま、小さく口ずさんだ。


「泉の水を 一杯汲んで」


 歌の切れ目で、スイが声を張る。


「よいや——」


 よいや、で私が杵を振り上げるあいだに、スイの手がくるりと餅を返して、臼の外に抜ける。


「さあ!」


 スイの「さあ」で、杵が落ちた。


 どん。


「段の畑へ 運んでゆこう」


 よいや、で振り上げて、さあ、で落とす。


 どん。


 杵の重さが、さっきまでと違う。


 重いまま、ちゃんと私の言うことを聞く。


「こぼすな こぼすな 桶の水」


 どん。どん。どん。


 湯気の向こうで、スイの息と私の息が、同じ拍子になる。


 臼の中の餅が、だんだん白く、つやつやに光ってきた。


 合った。合っとー。振り上げるたびに、耳まで熱い!


 臼の向こうで、スイの口の端が上がった。


 そのせいで、次の「さあ」が、一回だけ裏返った。


 裏返った「さあ」でも、杵は、ちゃんと落ちた。


「……おれより、合うとるやないか」


 王子が、腕組みをして、ちょっとだけ悔しそうに言った。


 勝った。何の勝負か分からんけど、勝った!


 そのとき、丸め台のほうから、鼻歌が聞こえた。


 言葉はない。でも、返しの節だ。


 五月にいずみで、スイに一行ずつ教わって、私が歌った返しの節。


 ママだった。


 取り粉で白くなった手袋のまま、丸めた餅を並べながら、鼻歌でなぞっている。


 ただ、おしまいが、すっと上がる。


 私の習った節は、上がらなかった。


 スイの手が、臼から抜けたところで止まった。


 「さあ」が来ないので、私は杵を肩にかついだまま待つ。


 重い。重い重い、これ、いつまで持っとけばいいと!?


「まめ、杵ば下ろせ。臼の外に」


 じいちゃんの声で、やっと杵を下ろした。


 スイは、丸め台のママを見たまま動かない。


「ママ、前に店で聞いて、覚えたっちゃろ。どの歌でも、おしまいにこぶしを入れて上げるやん」

「歌は、聞いたら覚えるもんたい」


 ママは、こっちを見もしないで、次の餅を丸めた。


「はよ、つきんしゃい。冷めるよ」


  ◇


 つきたての餅は、三人組の鍋のぜんざいに、どんどん入っていく。


 ママが、お玉を持ったまま言った。


「つきたては、ここで食べて帰りんしゃい。小さく切っとるけん、よう噛みんしゃい。正月は、喉に詰める年寄りの多かけん」

「私は、年寄りではない」

「若いもんも詰めるとよ」


 スイが、箸でぜんざいの餅を持ち上げた。


 小さいのに、餅が、椀から離れない。


 スイの腕が、どこまでも上がっていく。


「……これは、水か?」

「食べ物!」

「ゆっくり流れる。切れない」


 真剣な顔で見つめないで。ぜんざいが冷める!


 夕方には、鏡餅ができた。


 公民館の床の間に飾る大きいのと、台所に置く小さいのと、ママが店に持って帰る小さいのだ。


 ママが、〔千代〕の箱から青島を一つ選んで、大きいほうのてっぺんにのせた。


「今年のてっぺんは、これたい」


 じいちゃんが誰にも持たせなかった箱の、いちばんの一個だ。


 じいちゃんは、黙ってお茶をすすっている。


 そこへ王子が、作業着のポケットから、自分の家のみかんを出した。


「地区の鏡餅のてっぺんは、若手の代表のみかんで!」

「てっぺんは、一個しかなか」


 ママの一言で、王子のみかんは、台所の小さい鏡餅のてっぺんに決まった。


「……台所も、地区の一部たい!」

「台所は、水を使う所だ。いちばん大事な場所だ」


 スイが、真顔でうなずいた。


「やろ!? スイ、分かっとるやないか!」


 王子が、小さい鏡餅を抱えて台所へ走っていく。


 スイは、満足そうにそれを見送った。


 王子の慰め方まで、水基準やん!


 日が暮れると、忘年会はいずみに移った。


 ママが、店の戸の前で颯太に手を振る。


「中学生は、ここまで」

「受験生なんで、帰って勉強します……」


 颯太は、お母さんと先に帰っていった。


 ほんとに勉強するとやろうね?


 いずみのカウンターの奥には、ママが持って帰った小さな鏡餅があった。


 てっぺんには、うちの青島がのっている。


 帰り道は、細い雨になった。


 スイは、雨に礼もしないで、坂の途中で足を止めた。


「……店主どのの返しは、村の、畑の者の歌い方だ」

「ママは、五月に店で聞いとったやん」

「五月にまめに教えたのは、泉の側で覚えた返しだ。おしまいは上げない。上げるのは、畑で水を受け取った者だけだ」

「ママのは、こぶしやろ?」

「こぶしではない。上がる高さまで、村の畑の節だ。こちらで、私はああは一度も歌っていない」


 スイは、雨の向こうの、いずみの灯りを振り返った。


 ……じゃあ、ママは、どこで。


 五月も、ママは、私より半拍早く返しを口ずさんどった。


 聞いたら、ママは笑ってごまかす。


 じいちゃんは、黙ってお茶をすする。


 どっちも、もう目に浮かぶ。


 家に着くと、その足で貯蔵庫に寄った。


 見回りのときだけつける入口の柱の裸電球も、奥の北の角までは薄くしか届かない。


 北の角の温湿度計に顔をくっつけて、やっと読めた数字は、九十二。


 また上がっとー! 雨やけん、窓も開けられんやん!


 入口の箱の新聞紙が、波打っとー。なんで?


 箱の実が、少し減っている。土間には、濡れたつっかけの跡がある。


 ……あ。雨の降りだしてから、お母さんが年始の分を取りに来たっちゃろ。


 戸を開けたときに、雨の夜の湿った空気が、いちばん手前の箱に当たったのだ。


 新聞紙をめくると、いちばん上の箱の実は、乾いとー。セーフ!


 下の段は、箱を下ろさんと見られん。


 実の入った箱を下ろすのは、スイの係だ。夜中に一人で下ろして腰でも痛めたら、じいちゃんの言うとおりになる。


 あした、明るくなったら、スイと下ろす!


 新しい新聞紙にかけ替えて、電球を消した。


 母屋に戻る途中、離れの縁側から、小さな鼻歌が聞こえてきた。


 返しの節だ。


 おしまいを、すっと上げている。


 確かめるみたいに、くり返している。まだ歌いよー。これで五回目。


 ……村の節やって、分かっとー。分かっとーけど、なんでうち、ママにまで妬いとーと!?

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