第34話 貯蔵庫の結露を探す男
「師匠へ。こたつという魔物から、師匠と豆を救い出すため、救助隊を出します」
ミロの七通目は、いきなり出動の知らせだった。
「やっぱり、うちのことまで書いとったー!」
十二月十八日の水曜、朝の石段に、私の悲鳴が白く散った。
明るくなってすぐ、手紙運びのわせが、青島を二つ受け取って帰っていった。スイは石段の途中で、立ち止まっては訳している。
「隊長は、私です。隊員は、まだいません」
「一人やん!」
「こたつは、水守の古い記録にありません。新種です。名前は、師匠がつけてください」
スイが、空を見上げる。
「新種だ」
ちょっと得意げに言わんで。
「名前、考えんでよかよ! こたつは、こたつ!」
布団をかぶって「圏外!」と叫んだ晩のことは、池の向こうの村まで届いてしまった。救助される側として。
石段の下では、じいちゃんが、作業場の隣の貯蔵庫の戸を開けて待っていた。
「来たか。見回るぞ」
冬の貯蔵庫は、ずっとじいちゃんの持ち場だ。私が見回りについて行くのは、今年が初めて。
貯蔵庫は、ブロックの壁に、北へ下がる片流れのトタン屋根をのせた建物だ。窓は、北と南の高いところに、金網つきの小さいのが一つずつ。
木の引き戸を入ると、ひやっとした空気と、みかんの匂いが押し寄せてくる。
土間に敷いたすのこの上に、青島のコンテナが、何段も積んである。
土曜にはお父さんも加わって、上の段の青島を穫りきった。いまは、ここで予措の最中だ。
「よそ、とは」
「皮の水を、ちょっとだけ抜くと。そしたら、年明けまで置いても傷みにくいけん」
上の窓を開けっぱなしにして、抜けた水を、冬の乾いた風に持っていってもらう。
スイが、一歩入ったところで止まった。
「……ここは、池の底だ」
「池?」
「箱の数だけ、実がある。実の数だけ、水がある。右も、左も、上の段も、水だ」
スイは目を閉じて、ゆっくり息を吸う。
「秋の水を、正月まで、貯めている。……ため池と、同じだ」
なんか、胸の奥が、じんと——
ぴちょん。
「ひゃっ!」
首すじに、氷のつぶみたいなしずくが落ちてきた。
見上げても、屋根の裏は暗くて、どこから落ちてきたのか分からなかった。
北の壁ぎわの、いちばん上のコンテナ。
その青島に、水の玉が、いくつも乗っている。
……うちの青島が、濡れとー!
◇
「濡れたままやと、腐れが入りやすいとよ。青かびは、くっついとー隣にうつることもあるけん」
言いながら、私はもう一つ目の青島に手をのばしていた。
じいちゃんが、首のタオルを外す。
「こすったらいかん。やさしゅう拭くか、風に当てて乾かす」
二人で一個ずつ、赤ちゃんの顔を拭くみたいに、水の玉を吸わせていく。
「スイ。どこから落ちよーか、分かる?」
スイが目を閉じる。
五秒。十秒。
「……分からない」
「え」
「多すぎる。実の中の水に紛れて、小さなしずくが、見えない」
お祭りの人ごみで、ひそひそ話を聞き分けるようなものらしい。
「……役に、立たない」
肩が、目に見えて下がった。
水守が、池の底で、しょげとー。
じいちゃんは、拭く手を止めずに言う。
「毎年、何個かは腐る。腐ったとを、早う見つけて抜けばよか」
「でも、うちは、一個も腐らせたくないと」
「全部、背負わんでよか」
「背負うとやない。知りたいと。どこで、なんで落ちてくるか」
言いながら、天井を見上げる。
……あ。
「スイ。天井には、みかん、置いとらんやろ」
スイが、はっと顔を上げて、目を閉じる。
「上なら、分かる。屋根の裏に、薄い水が残っている。もう、動いていない。どこへ流れていたかまでは、分からない」
「やっぱり、夜明けやね」
結露は、晴れて冷えこむ夜から、夜明けにかけてできる。
農業大学校で習ったことだ。
ゆうべは宵のうちに晴れて、風が落ちた。
予措で実から抜けた水を抱えた空気が、冷えきったトタンに触れて、しずくに戻ったのだ。
皮から抜いた水に、屋根から仕返しされたわけだ。
「冷えて、風のない夜明けに、上を見張ろう。上を見るのはスイ、下を見るのはうち」
「分かった」
スイの肩が、ちょっとだけ戻った。分かりやすっ。
ただ、あしたは、朝から雨の予報だ。
「雨の日は、窓ば閉める。ほかは、夜も開けとく。毎年、そうしよる」
じいちゃんが、高い窓をあごでさした。
見張るのは、雨あがりで冷えて、風の止む金曜の夜明けだ。
雨の木曜、私は軽トラで町のホームセンターに走って、小さなデジタルの温湿度計を二つ買った。財布が、ひと足先に冬になった。
作業場の机に二つ並べて一時間にらめっこし、同じ数字になったのを確かめてから、北の角と真ん中に一つずつ置く。
晩には、お母さんが、古紙に出す古新聞をひと山出してくれた。
「腐ったら、ジュースにもならんけんね。使いんしゃい」
いちばん上のコンテナに、新聞紙を一枚ずつ、縁から縁へ渡していく。
実には触れさせない。
しずくが落ちたら、しみが残る。
「新聞が、見張り番か」
スイが言った。
「そう。うちらが寝とーあいだも、書いといてくれる」
◇
金曜の夜明け前は、高い雲の奥が、月でぼんやり明るかった。
貯蔵庫の前で、じいちゃんが戸を開けて、戸の外に石を一つ置く。
「戸は、開けとけ。閉じこめられたら、かなわんけんな」
……え。
冬の夜明け。暗い倉庫。閉まる戸。閉じこめられる二人。少女漫画の、鉄板中の鉄板。
それを、じいちゃんが、石一個で潰した。
そもそも、じいちゃんがおる時点で、二人きりでもない。
中は真っ暗で、懐中電灯の丸い光の中で、私の息が白い。
スイは奥に立って、ずっと上を向いている。
「来た」
「どこ?」
「屋根じゅうだ。トタンの裏いっぱいに、薄い水が生まれている。……坂を、北へ下りていく」
私には、暗いトタンしか見えない。
屋根の裏の細い水の糸が、波板の溝を伝って坂を下りてくるのを、スイの声で想像する。
あ。
「北に下がる屋根やけん……屋根の水が、北の角に寄ってくるとやん!」
「そうだ。ほかの粒は、細かいまま止まっている。北の角の継ぎ目で、一本になる。太っていく」
スイの声が、少し低くなった。
「一つ、落ちる」
スイが言った、その真下にいたのは、私だった。
また首すじ——と、肩をすくめる。
冷たいのは、来なかった。
懐中電灯を上に向けると、光の中で、しずくが一つ、私の頭の上で止まっていた。
それが、ふわっと、スイの手のひらに下りていく。
「……二度目は、落とさない」
おとといの首すじのこと、まだ覚えとったと。
懐中電灯の丸い光が、ぐらっと揺れた。
揺らしたのは、私の手だ。
落ち着け、うち。仕事中!
「まさか、一晩じゅう、そうやって受けるつもりやったと?」
「つもりだった」
「無理やろ!」
しずく一つずつでも、屋根じゅうの分を朝まで受けたら、スイは喉がからからで倒れてしまう。
スイは戸口まで行って、短く頭を下げてから、手のひらのしずくを外の土に返した。
さあ、新聞紙の出番だ。
懐中電灯で、いちばん上のコンテナを照らしていくと、入口のほうの新聞は、まっさら。
真ん中も、まっさら。
北の角に近づくと、丸いしみが点々と並んでいた。
継ぎ目の真下の列だけ、一直線に。
うちらが寝とーあいだに、しずくが自分で地図を描いとった。
温湿度計も見ると、湿度は、真ん中が八十八。
北の角は九十五を超えて、温度も二度低い。
「北の角だけ、雨の日の空気やん!」
懐中電灯をコンテナの縁に置いて、野帳に貯蔵庫の四角を描いた。入口、二つの窓、箱の列、継ぎ目の線。しみの点と、二つの数字。
スイが、横からのぞきこんだ。
「水の地図の、二枚目だ」
夏に、去年のJAのカレンダーの裏に二人で描いた、あの地図の続きだ。
……二枚目。男前の、二枚目やん。
「二枚目は、スイのほう……」
口から、出とった。
「私は、地図ではない」
「知っとーよ!」
野帳の線が、びよんと曲がった。今朝の私の手、ぜんぜん仕事せん。
じいちゃんが、自分の懐中電灯で北の角を照らす。
「……北の角は、昔から、よう腐る」
「知っとったと!?」
「やけん、毎年、角には家で食べる分を置いとる」
家で、食べる分。
「うちらが毎年食べよったの、角のみかんやったと!?」
「早う食べれば、腐らん」
理屈は、ぜんぶ正しい。
「……やけん、暮れのみかん、毎年ちょっと酸っぱかったっちゃん」
「寝かせる前やけんな」
正しい。全部正しい。それが、いちばん腹立つ!
◇
夜が明けたら、並べ替えだ。
段取りは、私が組む。
「屋根の形は変えられんけん、箱のほうが引っ越し! スイ、北の壁から一歩ぶん離して! 継ぎ目の下は、立入禁止!」
北の列は一段減らして、屋根から離す。
真ん中の列は、戸の風も北の冷えも届かないので、いちばん落ち着いている。場所はそのままで、上と下だけ入れ替える。
「どうせ、入れ替える時期たい」
じいちゃんも、あっさり乗ってくれた。減らした段の箱は、暮れに出す分として作業場へ回す。
「壁と箱のあいだに、道を空けるのか」
スイが、北の壁を見る。
「水路と同じだ。道がなければ、水はたまる」
「風の水路やん」
「そうだ」
スイが、ちょっとうれしそうな顔をした。
実の入ったコンテナを運ぶのは、スイの仕事だ。
上の段から、箱ごと一つずつ、すーっと下ろしていく。実は、あけ替えない。
段取り係、見とれとー場合やない!
スイが、真ん中の列の段ボール箱に手をのばすと、じいちゃんが先に言った。
「その箱は、おれが持つ」
じいちゃんは、箱の横腹を自分の腹に当てるように抱えて、スイが列を組み直すのを待ってから、また同じ真ん中の、すのこの上に戻した。
上には何も積まずに、新聞紙を一枚かける。
さては、自分用のいちばんいいやつやな。
野帳に写したら、しみの新聞はお役ごめん。
まっさらのも、一晩で湿っとー。月曜に比べるけん、全部新しいのにかけ替える。
そこへ、お母さんが、かごを提げて戸口に来た。
「角の箱から、もらうよー。今日のぶん」
「お母さんまで!」
「角のは、早う食べるか、マーマレードにしよったやん。毎年」
冬の朝にパンに塗っていた、あの橙色。
あれ、角の味やったと。
学校に行く颯太が、戸口から顔だけ出した。
「俺も知っとった。毎年、角の箱から取ってこいって、じいちゃんに言われよったもん」
「知らんかったの、うちだけ!?」
私の叫び声が、貯蔵庫じゅうのみかんに跳ね返った。
じいちゃんが、新聞の端をそろえながら言う。
「まめは、小さかとも、角のとも、文句言わんで食べよったけんな」
「それ、褒めとーと!?」
スイが、真顔でうなずく。
「褒めている」
「あんたに聞いとらん!」
三日後の月曜。金曜と同じくらい冷えて風のない夜明けを、天気予報で選んだ。
比べるなら、同じ条件で。
北の角の新聞紙は、しみ一つない! 真ん中も、入口も、まっさら!
継ぎ目の真下の土間に、濡れた丸が一つ。落ちたのは、箱ではなく土の上だ。
じいちゃんが、いちばん上の新聞紙を一枚取って、懐中電灯の光で広げた。
「乾いとる新聞は、読める」
「それ、先週の新聞やん!」
北の角の湿度は、八十六。金曜は、九十五を超えとったのに!
ただ、きのうは一日北風で、空気が乾いていた。湿り気までは、そろっていない。
年明けまで、雨あがりの朝も見張り続行!
スイが、北の角の下で上を向いて、目を閉じる。
「上の水は、少しだけだ。その下に、箱はない」
じいちゃんが、北の角の暗がりを見た。
「……今年は、角も、腐らんかもしれんな」
じいちゃんが、何十年も拭いてきた角だ。
胸の中に、あったかいものが、どんどんたまっていく。ここ、冷やしとかんといかん場所なのに!
懐中電灯を戻すと、丸い光が、真ん中の列の段ボール箱に当たった。
金曜に、じいちゃんが誰にも持たせなかった箱だ。
横腹に、じいちゃんの角ばった字で、二文字。
〔千代〕
帳面の字は、いつも小さく詰まっている。この二文字だけ、大きくて、ていねいだった。
「じいちゃん、これ……」
「暮れに、持っていく。毎年たい」
じいちゃんは新聞を脇にはさんで、いつもの見回りの三倍の速さで出ていった。
……毎年って、いつから!?
地区で、ママを千代と名前で呼ぶのは、じいちゃんだけだ。
腐る角も、腐らん真ん中も載った地図が、じいちゃんの頭の中には、ずっと前からあった。
そのど真ん中に、ママの名前。




