幕間③ 水守のノート(訳)・その三
〔初めて穫った実〕
(図。軸を二度切った実。へたは残っていて、軸はへたのきわで切ってある)
この家が、今年初めて実を穫る日。朝は雨だった。
家の娘が「まだ?」と聞き、わたしが「まだだ」と答えた。十一回。
昼すぎに乾いた。軸は、家の娘に教わったとおり、二度切った。
剥くのに、十七分かかった。すじは、全部取った。
三つ目の房のとき、家の娘の名を、初めて呼んだ。
茂どのが「今年の実りたい」と言った、その実りと同じ名だ。この家の母どのが、毎朝、台所で呼ぶ名でもある。
実りとは、と聞くと、実がなって、穫れること、と家の娘が言った。家の娘の名は、そこから付いたという。早口だった。
(余白に)実の話でないときに、この名を呼ぼうとすると、わたしのほうが、次の言葉が出てこない。だから、実の話のときだけにしている。このわけは、家の娘には言っていない。
〔品評会の晩〕
晩ごはんのとき、家の娘が王子の実をうまいと言ったことを、わたしが茂どのに伝えた。
茂どのが、帳面に一行書いた。わたしには読めない。
家の娘がのぞいて、「湯豆腐はいいけど、そっちの行は、いらんやろ」と怒った。茂どのは「そっちが、いる」と言った。
わたしの帳面にも、書いておく。
品評会、負け。家の娘が、王子の実を、うまいと言った。晩、湯豆腐。
(余白に)悔しい顔のまま、うまいと言った。この地で聞いた「うまい」の中で、あれがいちばん本当だった。
〔ミロへの返事の控え〕
六通目の、豆への手紙の返事。ミロは、豆は師匠の何か、と聞いてきた。
まず、豆の言ったことを、そのまま訳す。「師匠に、聞いてください」
豆が、師匠に聞け、と言うので、師匠が答える。豆は、この家の娘だ。わたしは、豆の段取りで動いている。
それ以上は、まだうまく訳せない。訳せたら、書く。
こたつのことも、裏に書いた。
(余白に)長くないか、と家の娘に聞かれた。訳すと、長くなる、と答えた。訳すだけってミロに言われていたはずだ、と言われたので、訳した、と答えた。訳したのは、一行目だけだ。
(もう一つの余白に)豆への返事はまだか、と聞いた晩、家の娘は、こたつの布団を頭までかぶって、圏外、と言った。圏外とは何か、まだ聞いていない。ミロには、こたつの中のことだと書いておいた。
〔貯蔵庫の地図〕
(図。四角い貯蔵庫。入口と、高い窓が二つ。箱の列。北の角に、点が一列)
家の娘が描いた、貯蔵庫の地図の写し。しずくの落ちた所が、点になっている。水の地図の、二枚目だ。
そう言ったら、家の娘が「二枚目は、スイのほう」と言った。わたしは地図ではない、と答えた。
あとで、颯太に聞いた。二枚目とは、この地の言葉で、顔のいい男のことだという。
答えを、間違えた。
〔水の字〕
(図。小さな輪を、一回り大きな輪が囲み、その外を、もっと大きな輪が囲む。いちばん下に、横の線が一本。三つの輪のうち、真ん中の輪が、少しつぶれている)
家の娘が、わたしの村の字の「水」を書いた。これは、その写しだ。
墨が乾くまで、その字は光っていた。
乾いて光らなくなってからのほうを、長く見ていた。
〔名前の練習〕
村の字には、音だけを書く字がない。だから、家の娘の名は、意味で書く。
実の字の中に、水の字を入れて、満ちる字を重ねる。実の中に、水が満ちていくこと。
わたしの村の字で書くと、みのりは、そうなる。
(同じ字が、頁の下まで十一回。どれも、実の字の中に、小さな輪が三つ)
十一回目が、いちばんましだ。「まだだ」と答えたのと、同じ数になった。
家の娘は、水の字だけは読める。見せたら、実の中の水を見つけて、また居間をうろうろするだろう。
見せるのは、十二回目にする。
〔温められない〕
冷たい雨が三回来て、三回とも、白くなかった。四回目に、やっと白かった。
白い水は、落ちたら、水に戻った。若木の布にたまった水を土へどかしても、布も若木も、冷たいままだった。水は、温められない。
その晩の鍋は、水を温めていた。少し、うらやましかった。
わたしの毛布は、この家の父どのが、貯蔵庫の箱に着せに行った。家の娘にもらった温かい袋を、枕もとに置いて寝た。朝まで、冷めなかった。
(余白に)雪の日の昼、家の娘は、貯蔵庫の北の角の箱に、待っていて、と言いに行ったそうだ。夕方、本人から聞いた。そのときは、何も言えなかった。言えたのは、次の朝だ。
〔村のため池・その二〕
(図。村の段々畑のいちばん上に、泉と、丸い池。池のいちばん深い所に、小さな四角。そこから細い線が一本、段の下まで)
前の図は、丸と、線が一本だった。今度は、池の底に、栓がある。
この家の池の取水口には、格子がある。格子の下には、泥がたまる。池に入る水は沢と雨だけなので、泥は沢から来るのだと思う。
茂どのが、この家の池を干すと言った。水を抜いて、底の泥を上げる。
村の池にも、いちばん深い所に、栓を描いた。干して、泥を上げられるように。干すときも、残った水は捨てない。この栓から、畑へ落とす。
横からのぞいた家の娘が、四角を指して「ふたやん」と言った。栓だ。
(その下に、小さな字で)この家の池を干すのは、こわい。わたしが浮かんできた池だ。干した池のことは、水守の記録に一行もない。
(最後の頁の余白に。ほかの頁より、あとから書き足した字で)
〔ミロの七通目に、まだ返事を出していない。こたつから師匠と豆を救い出す救助隊は、隊長が一人で、隊員はまだいないそうだ。その隊長に、待て、と書いた。栓を描いた村の池の図も、一緒に入れる。わせは、いつも、この池のそばにたまった水から来る。池を干して、わせが来なくなったら、待て、の一行も届かない〕




