第28話 浮皮の前に穫るか待つか
じいちゃんの帳面には、天気と、薬と、なぜか晩ごはんが書いてある。
十月二十一日、月曜日の朝。作業場の机で、その帳面と私の野帳が、にらみ合っている。
正確には、にらみ合っているのは持ち主のほうだ。
「外側の、色の進んだ実から、今日のうちに穫るけん」
「品評会に出す実は、十一月まで待たせる。色の乗る。甘さも、たいがい乗る」
じいちゃんの言い分に、うっかりうなずきかけた。
きのうの夕方、ふかっと沈む皮をこの指で押すまでは、私もそのつもりだったから。
父は会社、颯太は学校、母は加工所で、平日の作業場に残ったのは、言い合う祖父と私と、横で見ているスイだけ。
スイに聞いても、木に成っている実の中の水は「ぼんやり」としか分からないので、今回は決め手にならない。
今朝の六時、下から四段目の真ん中の木の印の実を、二人で測ってきた。
懐中電灯はスイが持ち、私がノギスを当てる。七月から毎朝続けてきた、最後の一回だ。
光の輪は、私の手もとから一ミリも動かなかった。
水守の手、ぶれなさすぎやろ。ちょっと、かっこよかった。言わんけど。
その野帳を、祖父の前に突き出す。
「この何日か、太り方が、夏の半分もないとよ。中が止まって皮だけ育ったら、浮くやん。今日は二十八度、あしたは雷。外側から穫らんと!」
祖父は黙って、棚から古い帳面を一冊抜く。
十月の頁の余白に、祖父の字がある。
〔浮きそうやけん、全部早う穫った。甘うなかった。晩、すき焼き〕
「すき焼きの情報、いる!?」
「いる。晩飯で、その日のことば思い出すと」
ちょっと分かってしまう自分が、くやしい。
すると祖父が、私の野帳をひょいと取って、めくった。
数字の横の余白に、私の字。
〔スイ、懐中電灯の持ち方がうまい〕
……あ。
「この情報は、いるとか」
「いる! その日のことば思い出すけん!」
スイがこっちの字を読めなくて、本気で助かった。
そのスイが、祖父と私の顔を見比べて、ぽつりと言う。
「……茂どのとまめは、同じ顔で、同じことを言う」
「同じ顔やない!」
「同じ顔やなか!」
声はそろった。語尾は、そろわなかった。
そこへ、外からJAの軽自動車の音。
来た。審判が来た!
力丸さんは、貸していたノギスと水分計を受け取りに来た。
シートの合わせ目をめくって水分計の管を二本とも抜き、穴を土で埋めて、シートを戻す。
作業場に戻ると、力丸さんは野帳の最後の数字を見て、うなずいた。
「数字は、記録します」
眼鏡の奥の目が、余白で一回だけ止まる。
「……余白は、記録しません」
お気づかい、ありがとうございます!
気を取り直して、私は身を乗り出した。
「力丸さん。外側から早う穫るのと、十一月まで待つのと、どっちが正しいと思います?」
「条件をそろえないと、どちらが正しいかは、言えません」
知っとった。
「そこをなんとか!」
「そこをなんとか」
祖父と私の声が、また、そろってしまった。
力丸さんは眼鏡を押し上げて、言えることだけを、一つずつ並べる。
「北原早生は、十月の下旬ごろから、浮皮が出やすくなります」
浮皮。教科書なら太字で出てくるやつだ。うちでは三代そろって「浮く」で済ませている。
「出やすいのは、木の外側の、表に出ている実です。暖かくて湿った日が続くと増えます。雨だけではありません」
机の下で、私は小さくこぶしを握る。
「十一月まで置くと、色は濃くなります。甘さは、上がる年も、変わらない年もあります」
今度は祖父が、腕を組みなおす番。
「この木がどこまで待てるかは、言えません」
結局、どっちの味方もせんとかーい!
そのとき、スイが口を開いた。
「村では、日照りの年は、いちばん乾いた畑から先に水を配る。全部を一度には救えないから、危ない所から先に」
……危ない所から、先に。
「そのかわり、待たせる畑には、待て、と言いに行く。それが、いちばん難しい」
私は、ぱちんと手を打った。
「外側から先に穫って、内側は待たせる!」
祖父はしばらく黙ってから、帳面をぱたんと閉じた。
「……待たせる木は、おれが選ぶ。待てと言いに行くとも、おれたい」
え、木に言い聞かせるつもり?
待たせるのは祖父が選ぶ何本かの内側だけで、ほかの木は、月末の土日までに穫りきる。
どっちも折れていないのに段取りは決まって、いちばん難しい役は、じいちゃんがさらっと持っていった。
◇
早生の段の上の三段は、きのうの家族総出で穫り終えて、印の実の五つだけが残っている。
十時、露が乾くと、まずその五つのテープを外して、穫った。
七月から、おつかれさま。
それから下の三段で、外側だけを穫っていく。
祖父と私は、一本の木をはさんで、向かい合わせ。
祖父のはさみが、葉の奥へ伸びた。
「それは内側やろ」
「外側たい。日の当たっとろうが」
「半分しか当たっとらんやん!」
じいちゃん、けさ「待たせる」て言いよったやん! 手が、いちばん穫りよーやん!
葉ごしに口げんかが飛ぶのに、二人の手は、同じ高さの実を、同じ速さで穫っていく。
しゃきっ、しゃきっ。
言い合いと、はさみの音が、気持ち悪いくらいそろう。
なんで手だけ、仲良しなん?
十月も下旬なのに二十八度なんて、夏が帰り忘れているとしか思えない。
二十分おきに、じいちゃんを木陰に座らせて水を飲ませる。「いらん」と言う。飲ませる。
平日で下で受けてくれる母はいないので、満杯の箱は乗せ場の日陰にためて、昼と夕方にまとめて下ろした。
受け手は、コンテナ番一日目のスイ。母の代わりにしては、背が高すぎる。
日が傾くころ、三段の外側は、ほとんど穫り終えた。
コンテナは数えた。口げんかは、途中で数えるのをやめた。
残ったのは、下から三段目の、上の段の石垣のすぐきわに立つ、いちばん背の高い木のてっぺんだけ。
「脚立は、あしたの朝。空の鳴らんうちに、二人でたい。上の段から、身ば乗り出して穫るなよ」
上る係と、脚を見る係。シートの上には立てない。うちの決まりだ。
あしたは、空と競争だ。
◇
次の朝は、明け方にぱらぱら雨が来た。
すぐにやんで、南東の風が葉を乾かしてくれる。
七時半、シートをめくって、土の上に脚立を立てる。
じいちゃんの長靴が、もう濡れていた。天気を見に行ったらしい。
上るのは私、脚を見るのはじいちゃん、実を受け取るのはスイ。
空は、まだ鳴っていない。雲も、海のずっと向こうだ。
しゃきっ、しゃきっ。一個。しゃきっ、しゃきっ。二個。
急げ、私。急げ、はさみ。
最後の一個に、手を伸ばしたとき、海のほうの雲が、みるみる黒くなった。
「まめ、雲の来た! はさみしまえ。下りれ!」
最後の一個が、目の前にあるのに!
はさみを腰の袋に突っこんで、両手で脚立を下りる。
ごろごろごろ……。
思ったより、ずっと早い!
「木の下で雨宿りするな! 家まで歩け!」
三人で段を下りる。急ぐ。でも走らない。
てっぺんに、一個だけ置いてきてしまった。
昼の雨はすさまじく、縁側のガラス戸ごしに見ると、段々畑が雨にかすんでいた。
稲光のたびに、スイの顔がぱっと明るくなる。
「村の雷は、雨を連れてこない。音だけ鳴らして、乾いたまま帰っていく」
スイは、ガラスにおでこがつきそうな顔で、白い雨から目を離さない。
「ここの雷は、ちゃんと雨を連れてくる」
縁側に、二人。じいちゃんは奥で帳面。
雷の縁側で、隣に男前。……これは、いける。
私は、そっと一センチ寄った。
次の稲光で、スイが、ガラスのほうへ二センチ乗り出す。
離れたやん!
また稲光が走って、その横顔が白く光った。
てっぺんの一個の心配をしなきゃいけないのに、私の目は、そっちばかり見ていた。
夕方には晴れ間が出たのに、夜中、また細い雨が屋根をたたく。
布団の中で、私はてっぺんの一個に念を送った。
あと一晩、ふんばってよ。
◇
十月二十三日、水曜日。雨は、七時ごろにやんだ。
濡れた木には触らずに、八時から通り道だけを見て回る。
めくったままのシートの上に、脚立が寝ていた。きのうの夕方の風だ。片付けは、乾いてから。
十時、皮も乾いたので、四段目の通り道に膝をつく。
ふちの石には乗らない。じいちゃんが、私の作業着の背中をつかんでいる。
子どもか、私は。
石垣のふちから、てっぺんの、石垣側の一個に手が届く。穫るのは無理でも、押すだけならできる。
腕を伸ばして、指で押す。
ふかっ。
二十日の浮きかけより、深く沈んだ。
「……浮いとー」
当たった。
当たったのに、ぜんぜんうれしくない!
次は、じいちゃんが待たせた木で、奥の葉の裏まで乾いたのを軍手で確かめてから、内側の実を押す。
皮は張っていて、指がすぐ中の実に当たる。
「……浮いとらん」
あれ? この雨と蒸し暑さなら、内側まで浮くと思っていたのに。
出やすいのは外側、と力丸さんは言った。てことは。
「じいちゃん。内側は浮きにくいって、知っとった?」
「知っとった」
「なんで最初に言わんと!?」
「聞かれんかった」
おとといから、その話しかしとらんやん!
スイが、待たせた木を見上げて、まじめな顔で聞く。
「茂どのは、この木に、待てと言いに行ったのか」
「行った。きのう、明るうなってすぐ。お前が脚立ば出す前たい」
あの濡れた長靴!
「ほんとに言い聞かせに行っとったと!?」
「何と言ったのか」
「……言わん」
そこが、いちばん知りたいとこやん!
言い聞かせが効いたのか、もともと浮きにくいのかは、誰にも分からない。
外側は私の勝ち、内側はじいちゃんの勝ちで、つまり引き分けやん!
「浮いた実は、傷みやすか。雨のすぐあとは、なおさらたい」
じいちゃんの一言で、てっぺんの子は、あした穫って、うちのおやつ行きになった。
十時半、野帳の写真を力丸さんに送る。余白は、指で隠して。
お昼前、電話が鳴った。
「写真、拝見しました。月曜から考えていたのですが、外側を先に穫ったので内側が待てたのか、という点は」
「は、はい」
「条件をそろえないと、言えません」
まだ考えよったと!? しかも、自分で出した問いに!
「それと、品評会の日が決まりました。十一月三日、文化の日です。審査は、部会の方にお願いしました。私は、条件をそろえる係です」
係て。絶対、楽しんどー。
「吉武さんから、申し入れがありました。一個だとまぐれがあるので、一人五個にしてほしい、と。私も賛成です。審査では、五個のそろいも見ます」
「……五個!?」
ちょっと待って。先週、軽トラの窓から「数やなか。味で勝負たい」て言うたの、どこの王子なん!
裏年のうちの木で、じいちゃんが待たせた内側から、大きさも色もそろった五個。
電話を切って、私は段々畑に向かって叫んだ。
「数で来とーやん、王子ーっ!」
じいちゃんとは、声も、はさみの音も、勝手にそろうのに。
肝心のみかんは、五個、そろうと?




