第26話 秋になったら食べさせると言った実
「まだ?」
「まだだ」
この会話、今日はこれで十一回目である。
一回目は、朝の六時半だった。
十月十五日、火曜日。地区の穫りはじめの日で、うちの、今年の初収穫の日。
その夜明けから、雨が降った。
初収穫の日に、雨。なんで今日!
傘を差すほどでもない、細い雨。でも、濡れた実は穫らない。
早生を穫るころはまだ暑くて、濡れた皮に傷がつくと、そこから腐る。分かっとー。
学校でも習ったし、じいちゃんにも毎年言われとー。
分かっとーけど、自分のはさみは、もう腰に下げてある。スイのは、ゆうべ、ぴかぴかにした。
「みのり、初物、お母さんの分も取っとってね」
母は、そう言って加工所に出ていった。母は、家では私を名前で呼ぶ。まめは、じいちゃんと地区の呼び方だ。
颯太は「写真送って」と学校へ、父は会社へ。
縁側に残ったのは、新聞を広げた祖父と、かごを抱えた私と、はさみを握ったまま池のほうを見ているスイ。
虹、出らんかな。出らんよね。日、差しとらんもん。
「じいちゃん、木、見に行かんと?」
「濡れた木に触ったら、病気の菌ば、手で運ぶこともある」
祖父は新聞から目を上げずに言って、それから新聞をたたみ、棚から防除の帳面を出した。
毎年つけている帳面だ。日付と、段と、かけた薬。
祖父の指が、早生の段の欄をたどっていく。盆明けの行。そのあとは、白い。
「早生の段には、穫る何日前までと決まっとる薬しか、かけとらん。最後が盆明けたい。……足りとる」
白いところまで、頼もしい。
部会が決めた穫りはじめの日。帳面の日数。あとは、実が乾くこと。三つのうち、二つがそろった。
雨は、九時過ぎにやんだ。
スイは池を見回って戻ってくると、縁側から段のほうを見た。
「まだだ。葉の上にも、実の皮の上にも、水が残っている」
五回目の「まだ?」には、もう少し細かく答えた。
「段の端の木から、水が消えていく。木の内側の実と、葉の裏は、まだだ」
「葉っぱの裏は、穫らんけん!」
「葉の裏が濡れていると、手を入れたときに、しずくが実に落ちる」
……そうでした。
祖父が、新聞の向こうから言った。
「端は、隣に木のなかけん、風の抜ける。乾くとも、端からたい」
空は、ずっと曇っている。日は、ほとんど差さない。お日さま、今日はお休みらしい。
乾かしてくれるのは、昼に向けて少しずつ上がっていく気温と、風だけだ。
祖父は空のコンテナを、モノレールの荷物台車にのせて、穫る段へ上げにいった。
自分は、横の石段を歩いて。私は縁側で、かごを抱えて待った。
遠足の朝の小学生と、同じ顔で。
八回目。九回目。昼ごはんは、三分で食べた。十回目。
そして、十一回目。
「まだ?」
「まだだ」
言い終わらないうちに、スイが、ふっと顔を上げた。
海のほうから、ぬるい風が上がってきた。段の木の葉が、ざわっと揺れた。
一時。
「……水が、消えていく」
私は、縁側から跳ねるように立った。
◇
下から五段目の、西の端の木。北原早生。うちでいちばん早く穫れる品種だ。
今日、いちばん先に雨が消えたのが、この木だった。
シートの段に入る前に、スイが言った。
「しわの所に、まだ水がたまっている」
踏んだら滑る。通り道を歩く。土壌水分計の管が、シートの上に頭を出している。蹴らない。
乾いたかを決めるのは、私だ。
乾いとって。お願いやけん。
軍手の指先で、実のお尻。へたのまわり。木の内側に手を入れて、奥の実も。
軍手は湿らない。枝を揺らしても、しずくは落ちない。
「乾いとー!」
「よし。穫るぞ」
祖父が言った。三つ目が、そろった。
その前に、一つだけ仕事がある。
この木には、軸にテープを巻いた実が五つある。
七月から毎朝、二人でノギスを当てて太さを測ってきた、印の実だ。
ノギスと水分計は、穫るまで借りている。
この木の分は、今日まで。四段目の真ん中の木の五つは、まだ穫らんけん、乾いてから測っておいた。
今朝の六時は、雨で測れんかった。今日の分は、一時。時刻も書いとく。
ノギスを当てて、最後の数字を野帳に書く。テープを外す。
七月に印をつけた次の朝から、八十五日。
……一日も、抜けとらん!
「スイ。穫り方、教えるけん」
私は閉じたはさみの先で、実の上の軸を指した。
「まだ切らんよ。まず、実を手のひらで下から受ける。引っぱったらいかん。皮が裂ける。それから、へたの上の軸を、ちょっと長めに切る」
スイが左の手のひらで実を受けて、右手のはさみを軸に当てた。
しゃきっ。刃が、すっと入った。
「次は、へたのきわで、もう一回」
しゃきっ。
「二度切り。軸が残ったら、かごの中で、ほかの実を刺すけん。へたは残す。へたが取れたら、そこから腐る」
スイの手のひらに、一個目のみかんがのった。
へたのまわりに緑がまだ少し残る、だいだい色。最後の数字を書いたばかりの、印の実だ。
「重い」
スイが言った。
「……水の重さだ」
五月の剥き方審査で、よその実を持ったときと、同じ言葉だった。今度は、うちの実で。
スイは、木に向かって、短く頭を下げた。
祖父が、スイの手のひらをのぞきこんだ。
「今年の実りたい」
それだけ言って、二本隣の木へ行った。
スイが、手のひらの実を見たまま、首をかしげた。
「……みのり、とは」
「実がなって、穫れること」
「台所で、毎朝呼ばれている名と、同じ音だ」
「う、うちの名前、そこからついとーけん!」
早口になった。なんで早口になるのか、自分でも分からん。
二個目は、私が切って、かごとは別の小さな袋に入れた。こっちは、わせの分。
八月の急ぎ便のツケが、まだ残っている。三個目は、私の分。かごへ。
二本隣の木から、祖父の声がした。
「まめ。先に、食わせちゃれ。五か月、待たせとろうが」
……じいちゃん、五月のあれ、覚えとったと!?
◇
「石の上の水も、もう消えた」
スイが言うので、上の段の端に出て、石垣のいちばん上の、平らな石に並んで腰をおろした。
スイは、一個目のみかんを両手で包んだ。
私はスマホの時計を出した。
五月は、十四分。二個目は、十一分。人は成長する。今日は、たぶん十分を切る。
スイが、へたの反対側に、親指の爪をそっと立てた。
皮が、一続きに開いていく。ちぎらない。急がない。石垣の上に、だいだい色の花が一つ咲いた。
次に、すじ。白いすじを指先で一本ずつつまんで剥がし、花の形の皮の上に並べる。並べている。長い順に。
五か月たっても、流派は一ミリも変わっていない。
五分。すじは、まだ半分ある。
十分。まだ、三分の一。
十四分。五月の記録に、並んだ。
「……遅うなっとー!」
思わず声が出た。
「五月より、遅うなっとーやん!」
スイは、手を止めずに言った。
「急いで剥きたくない」
「……なんで」
「まめの園の実だ」
スマホを持つ手が、ちょっとだけ震えた。時計の数字が、ぶれて読めん。
十七分。最後のすじが、皮の上の列のいちばん端に並んだ。
新記録である。遅いほうの。
すじの列を写真に撮って、颯太に送った。返事は、六時間目のあとに来た。
【颯太】長っ
スイが、すじの一本もない房を一つつまんで、口に入れた。
五月に採点し忘れた、審査基準の四番目。一房目を口へ運ぶまでの迷いのなさ。
迷いゼロ。四番目、百点。
それから、五月の私が見とれていた、二つ目の房へ伸びる手。
速い。一つ目を飲みこむ前に、もう二つ目をつまんでいる。
「おいしい?」
「ああ」
「……そっか」
五月と同じやりとりだ。違うのは、これが、うちのみかんだってことだけ。
三つ目をつまむ前に、スイが手を止めた。
それから、私を見た。
「みのり」
……え。
「これは、みのりが作ったのか」
スマホが、手から滑って膝に落ちた。
名前。名前呼び。少女漫画なら、一冊に一回の大事件である。
あだ名から、ある日いきなり、名前。読んでいる全員が、ページをめくる手を止める、あれ。
あれが、いま、石垣の上で、みかんの房を持ったスイの口から来た。
心の準備が、一ページも足りん。
「……な、なんで、急に名前?」
口から出たのは、それだった。
「この実が、みのりだから」
「この実は、北原早生やけど!?」
石垣の上で叫んだ。下の段から、カラスが一羽飛んでいった。
「きたはら、とは」
「品種の名前! この木の名前!」
「……そうではなくて」
スイは、手のひらの房を見た。
「実り、のほうだ。さっき、茂どのが言った」
……そっちか。
そっちやったか。
さっき自分で説明した。早口で。
撃沈である。二十年の人生で、いちばん見事に沈んだ。
「それで、みのりが、作ったのか」
今日、二回目。
ちゃんと答えないといけない。木に、嘘はつかない。
「……うちだけやない」
私は、段の木を見た。
「じいちゃんと、この木と。それから、スイ。七月に、この木の下がいちばん乾いとーって、見つけてくれたやろ」
見つけたのはスイで、コックを開けたのは私だ。
「みんなで作った」
「……そうか」
五月に同じことを聞かれたときは、「君」で、私の答えは「これは、よその」だった。今日は、うちの、みんなの実だ。
スイは、三つ目の房を口に入れた。四つ目。五つ目。
剥くのは五月より遅いのに、食べるのは五月の三倍速い。
私も、三個目を取った。皮を四つにちぎって、すじごと房を口に放りこむ。三秒。審査員の流派は、こっちだ。
甘い。それから、きゅっと酸っぱい。何日か置いたら、酸っぱいのがもうちょっと丸うなる。
でも、今日のは、今日ので、うまい。
今年のうちの実、ちゃんと、うまい!
◇
夕方、穫った実を作業場の日陰に下ろした。お母さんの分は、いちばん上。
縁側で一息ついたとき、スイが顔を上げた。
「池の横の、コップの水が、揺れている」
この言い方が出たら、取り立ての時間だ。
二人でポンプ小屋まで上がると、水を張ったコップのふちに、わせがいた。
背中の油紙の袋は、空っぽ。今日は、みかんを入れる場所がたっぷり空いている。
わせは私の顔を見て、私の手の小さな袋を見て、爪を一本立てた。
「初物は、一個目のことだ、と言っている」
スイが訳した。それから、小さい声で付け足した。
「……一個目は、もう私が食べた」
「知っとーよ! 目の前で、十七分かけて食べよったやん」
私は野帳を出して、裏表紙を開いた。八月の急ぎ便の晩に、わせが押した、濡れた前足の跡。証文である。
「見て。足あとやん。何個目とは、どこにも書いとらん!」
スイが訳した。わせは、裏表紙をじっと見て、髭を動かした。
「……字は書けない、と言っている」
「やろ!?」
「だから、一個目に決まっている、と言っている」
「なんでそうなると!?」
スイが、私とわせを見比べた。
「……まめ。私が訳すと、私が不利になる」
そうだった。一個目は、スイのお腹の中だ。裁判なら、席を替わるところだ。
……それに。
「呼び方、もう、まめに戻っとー!」
「戻っている」
「なんで!」
「今は、実の話ではない。わせの話だ」
意味が分からん。分からんけど、心臓に悪い。
スイは、わせのほうへ向き直った。
「だが、八月に私が訳したのは、まめの言った『今年の最初の収穫』だ。一個目、とは訳していない」
急に、私の味方。でも、八月に私が言ったのは、ほんとにそれやった。
『今年の最初の収穫』。一個目とは、言っとらん。
わせの髭が、下がった。
私は袋から二個目を出して、わせの前に置いた。わせが、両方の前足で、ぎゅっと抱える。
「あ、待って、そんな濡れた手で……」
びしょ。
半日かけて乾くのを待った実が、一秒で濡れた。
わせは実を片腕に抱えなおして、野帳の裏表紙にもう一度前足を押した。八月の足あとの隣に、新しい濡れた足あと。
「領収書だ、と言っている」
「領収書まで、足あと!」
八月の急ぎ便のツケ、これで完済。領収書つき!
と思ったら、スイが、たたんだ紙をわせの袋に差しこんだ。ミロへの返事だ。わせが、もう一度爪を一本立てる。
「運び賃は、一つ。ツケにしておく、と言っている」
完済して、十秒で、新しいツケができた。
わせは、顔より大きい実を抱えたまま、コップに頭から飛びこんだ。水は、一滴もこぼれなかった。
……どうなっとーと、あの戸口。
日が沈むころ、作業場の前に軽トラが止まった。王子の軽トラだ。JAの帰りらしい。運転席の窓が下りる。
先月、王子は「甘さまで分かったら、おれは、お前に勝てんけんな」と言って帰った。
言いっぱなしで終わる王子やない。勝負の紙が来る。たぶん、来る。
窓から出てきた王子の手は、空っぽだった。
「……紙は?」
「紙?」
「勝負の紙。笹舟のときは、持ってきたやん」
「もう、力丸さんに出してきた」
紙、来んかった。ちょっと楽しみにしとったとに。
「十一月の初め。地区の若手の、早生の品評会たい。力丸さんが、条件ばそろえるなら受けるって」
「……品評会」
「今年のお前んとこは裏年で、数の少なかろうが。やけん、数やなか。味で勝負たい」
裏年まで、ちゃんと勘定に入れてきとー。悔しいけど、筋は通っとー。
隣で、スイが私を見た。
「みのり。受けるのか」
王子が、固まった。
「……今、何て呼んだ」
声が、一段裏返った。王子は窓から身を乗り出しかけて、シートベルトに引き戻された。
「み、みのり!? お前、いつから、名前で……!」
私も、固まった。
実の話のときだけ、名前になるらしい。
だったら。
「受けて立つ!」
十一月まで、うちは、実の話しかせん!




