第25話 神輿は担げるが船には乗れない
神輿が、左に傾いていた。
右の前を担いでいるのは、うちの居候だった。
背が高すぎて、神様がスイから逃げていく。
十月六日、日曜日。地区の秋祭りだ。
朝の九時に坂の上の神社を出た神輿が、漁港の前の広場まで下りていく。その担ぎ手に、今年はスイがまじっていた。
「担ぎ手の足らんけん、男前も入れんしゃい」
言い出したのは、もちろんママだ。
十月なのに、朝から二十五度。紺の法被の背中が、もう汗で張りついている。
祭りの法被の男前。少女漫画なら、見せ場の一ページ目である。
夏祭りの晩は、私が浴衣を見てもらう係だった。
見てもらえたのに、言葉をなくしたのは私のほうだった。今日は、見る係だ。見る。
全力で見る。
……と思ったら、神輿が傾いた。
ぐらり。
スイの担ぐ右の前が、ぐいっと持ち上がる。屋根の上の金の鳥が、左のうしろへ、左のうしろへ。
「右の前が高か!」
「男前の側が高か!」
「神様が、男前から逃げよる!」
最後のは、沿道のハンドマイクだった。祭りの日のママは、手からハンドマイクが生えている。
神様に、逃げられた。うちの居候、神様に逃げられた!
坂の上の辻で一休みしたとき、スイが聞いた。
「神輿、とは」
「神様の乗り物」
「神様は、どこへ行く」
「漁港。海の神様やけん、年に一回、海を見に行くと」
スイは、坂の下の、雲の色をうつした海を見た。
「……神様も、海を見るのか」
声が、ちょっと弾んでいた。仲間を見つけたみたいな声だ。
「スイ、前の横棒の真ん中に入れ」
坂の手前で、祖父が言った。
「下りは前が低うなる。背の高かとは、前たい」
坂を下りはじめると、前が下がったぶんを、スイの背がぴったり埋めた。神輿が、すっとまっすぐになる。
役に立っとー。背の高さが、初めて神様の役に立っとー!
ところが、坂を下りきったら、道は平らに戻る。
「平らは、膝で合わせえ」
祖父に言われて、スイが膝を曲げた。曲げた。曲げすぎた。
ぐらり。
今度は、スイのほうへ。
「神様も、男前に寄りよったばい!」
ママ、さっきは逃げたって言いよったやん。
膝を少し戻して、やっとまっすぐ。そのままスイは、膝を曲げたまま漁港まで歩いた。
一歩ずつ、ものすごく真面目な顔で。
空気椅子で、漁港まで行きよー!
少女漫画の一ページ目は、どこへ行ったと?
漁港の前の広場には、もう人が集まっていた。岸壁には、船が二艘つないである。漁師の組の船と、みかん組の舟だ。
神輿は毎年下りるけれど、船を出すのは五年に一度だけ。
神様の前で、組ごとに一艘ずつ漕ぎ比べをして見せる。前は、私が高校一年の年だった。
みかん組は、そのときも、その前も、漁師の組に船三艘ぶんくらい負けている。
今年のみかん組には、新人がいる。スイだ。
……スイの顔色が、まだ普通だったころの話である。
◇
みかん組の舟は、木の小舟だった。
細長くて、思っていたより小さい。これで、毎日海に出とー漁師の組と勝負すると?
左右に二人ずつ座る板があって、櫂が四本。水をかく、長い木のへらだ。
うしろには舵と、舵を動かす握りの棒、柄。
へさきに、色のあせた〔みかん組〕の旗。
五年、漁協の倉庫で乾いていた舟だ。
板が縮んですき間ができるので、三日前から港の浅い所に浮かべて、水を吸わせてあった。
スイが岸壁にしゃがんで、舟の底をのぞいた。
「この舟は、五年ぶんの水を、飲みなおしている。……もう、どこからも入ってこない」
「よう分かるね」
漁協のおじちゃんが、目を丸くした。
組合長は朝の七時に港の口を見て、「外は、おとといの北風のうねりが残っとる。港の中は、やれる」と決めたそうだ。
救命胴衣が配られた。オレンジ色の、厚くて固いやつだ。
「乗るもんは全員、これ。ひもは、きつう。うちの船が一艘、うしろについて走る。港の中だけ。口の手前に、今朝、旗ば立てた浮き玉ば浮かべとる。あれば回って、ここに戻る。それと、櫂ば握るもんは手ぶらで」
浮き玉は、網に使う丸い浮きだ。漕ぎ手の水筒は、岸に置いた。
舟の上で水を持っているのは、写真の係の私だけ。
スマホは、防水の袋に入れて首から下げた。
写真の係がスマホを海に落としたら、係ごと沈む。
広場の端では、ママが板を立てていた。
〔芹ヶ浦 海の大一番〕
五年に一度の漕ぎ比べに、ママが勝手に付けた名前だ。板の下は、勝敗予想の欄。
漁師の組には、丸がずらり。みかん組には、丸が二つ。
「誰と誰?」
「あたしと、颯太」
チョークを持った颯太が、胸を張った。板の係だ。受験勉強は、今日だけお休み。
「相棒の舟やけん」
「ママは、なんでみかん組に?」
「負ける組に入れんと、面白うなかろうもん」
予想する気が、最初からない。
漕ぎ手は四人。左に王子と王子のお父さん、右に父とスイ。舵は祖父だ。
祖父は五年ごとに、ずっとこの舵を握ってきたらしい。
父は「週末くらい、休みたいっちゃけどね」とぼやきながら、いちばん先に救命胴衣を着ていた。
ママが、ハンドマイクでスイを呼んだ。
「男前。舟では、遠くの山ば見んしゃい。近くの水は、見たらいかんよ」
「大丈夫だ。水を見ていれば、私は酔わない」
ダムの日、スイは膝の上のペットボトルの水だけを見て、峠を越えた。あの作戦だ。
行きに一回負けたことは、なかったことになっとー。
「海は、ぜんぶ水だ」
「その水が、ぜんぶ揺れとーと!」
十一日前と、二人そろって一字も違わん。
岸壁から、舟に乗りこんだ。
スイが足をのせた瞬間、舟が、ゆらり、と沈んだ。
スイは、足もとの水を見た。
港の水は平らに見えて、ほんの少しずつ上がったり下がったりしている。ちゃぷ、ちゃぷ。
十秒。
二十秒。
三十秒で、スイの顔から、色が抜けた。
「……全部、動いている」
「まだ、つないだままやけど!?」
出発もしとらん。櫂も持っとらん。神様にも、まだ見てもらっとらん。
「もう酔ったとや」
王子が、心の底からあきれた。
「漕いどるうちは、酔わん。漕げ」
舵の前から、祖父が言った。
スイは、うなずいて櫂を握った。
顔色は、うなずかなかった。
◇
十時。広場に下ろしてきた神社の太鼓が、ドン、と鳴った。
四本の櫂が、水に入った。
ざぶ、ざぶ、ざぶ。
「せーの! せーの!」
王子が、櫂を引くたびに声を出した。掛け声まで、自分で担当しとー。
王子と王子のお父さんの櫂が、ぴたりとそろっている。
スイの櫂も、調子が合っていた。力もある。櫂さばきは、満点。
顔色だけが、合っていない。
漁師の組の船は、もう前にいた。ひとまわり長い。速い。
「みかん組、今年も三艘ぶんかー!」
岸壁から、ママのハンドマイクが追いかけてくる。予想の板の主が、いちばん楽しそうだ。
防波堤の影を出たところで、舟が、ふわりと持ち上がった。
港の口から入ってくる、おとといの北風の残りのうねりだ。持ち上がって、下がって、また持ち上がる。
スイの櫂が、止まった。
「……茂どの。すまない」
「真ん中に、ゆっくり寝とけ。吐くなら、乗り出さんで、この桶に」
祖父は、それだけ言った。
スイは櫂を舟の中へ引きこんで、漕ぎ手の足のあいだの船底に、長い体を折りたたんで横になった。
救命胴衣の襟が、枕になった。目を閉じた顔が、白い。
右の櫂は、父一人になった。父が、うなって、深く漕いだ。
週末くらい休みたいっちゃけどね、は、岸に置いてきたらしい。
舟の上で倒れた男前。少女漫画なら、ここは膝枕だ。
私は、舟の先にいた。いちばん揺れる場所なのに、私は平気だった。いちばん揺れない真ん中で、スイがのびている。
膝枕までは、漕ぎ手二人ぶん遠い。
「まめ」
船底から、声がした。目は、閉じたままだ。
「水筒を、板から離して、高く持っていてくれ」
「水筒?」
「板の吸った水も、海の水も、まわりじゅうで揺れている。どっちが前か分からない。前に一つだけあるのが、まめの水筒だ」
目を閉じると、人の場所は分からない。持っている水なら分かる。夏祭りの晩、目隠しのスイがそう言っていた。
私はへさきに座ったまま、腰の水筒を外して、両手で高く持ち上げた。
うちの水筒、灯台になった。
「まめ! それ、何の旗ね!」
灯台です、ママ。
腕が、ぷるぷるする。水筒って、高く持つと、こんなに重かったと?
スイが、寝たまま、人さし指を一本、右へ向けた。
「浮き玉のところだけ、水がよけて流れている。そのすぐ内側で、巻いている。……茂どの、右だ。浮き玉の、すぐ横へ」
祖父が、舵の柄を、左へ倒した。
「右って言いよーとに!」
「柄ば左にやると、舟は右に行くと」
知らんかった。二十年、この家の孫をやっとって、知らんかった。
舟の先が、すうっと右へ寄った。
前の漁師の船は、浮き玉から櫂一本ぶんあけて、外を回っていく。
長い船は、小回りがきかない。回ったところで、船の先が外へふくらんだ。
「今だ、茂どの。回れ」
祖父が、柄をぐいと倒した。みかん組の舟は、浮き玉のすぐ内側を、すべるように回った。
巻く水が、うしろから押してくれる。
寄った。
寄った寄った寄った!
並んだ!
「寝とる男前が、舵に口出ししよるよ!」
ママ、それは言わんでいい。
「漕げえ!」
王子が叫んだ。王子のお父さんが、黙って櫂を深くした。父が、またうなった。
抜け……抜け……!
帰りは、まっすぐの勝負だった。まっすぐは、漁師の組が強い。
ぐい、ぐい、と、向こうの船が半分前へ出る。一艘ぶん前へ出る。
漁師の船のへさきが、先に太鼓の前を過ぎた。
ドン、と太鼓が鳴った。
舟一艘ぶん。
三艘ぶんだった差が、一艘ぶんまで縮まった。あと少しなのに、届かんかった!
高く掲げた水筒を下ろす。腕はまだ震えている。写真の係のはずが、最後まで一緒に漕いだみたいだ。
漁師の組の年寄りが、船のへりに手をかけて、こっちを見た。
「今日の潮は、浮きの内側に巻いとったな。みかん組が一艘ぶんで負けたとは、初めてやな」
それから、船底のスイを見た。
「あの寝とる男前、潮ば読むね」
「目を閉じとーけん、耳がいいとです!」
とっさに言った。
「……今度は、耳か」
王子が、櫂を抱えたまま言った。
七月は土を見る目、夏祭りからは心の目、先月は実を見る目。
目が出つくして、とうとう耳まで来た。
スイは目を閉じたまま、片手だけ上げた。たぶん、礼のつもりだった。
◇
岸壁に上がったスイは、まず、コンクリートに両手をついた。
それから、片膝をついた。
長い礼が、始まった。
相手は、地面だった。
……地面!?
広場には、神輿が下りてきとー。海の神様が、すぐそこで見とー。
その目の前で、うちの居候は、コンクリートに頭を下げよー。
舟では三十秒で顔色が抜けた。陸では三十秒で地面に頭を下げた。
沿道のおばちゃんたちが、ざわついた。
「……地面に、お辞儀しよる」
「神様やなくて、地面に」
池に、雨に、ダムに。井堰のおじいさんに、ダムの職員さんに。
摘果の日は、落とした実にも一段に一回。
でも、乾いたコンクリートに、動かないことのお礼をしたのは、初めてだ。
「……動かない。ありがたい」
顔を上げても、まだ白かった。
「礼儀正しか男前には、点ば足しとく」
ママがハンドマイクで言った。
夏祭りのスイカ割りで、スイカにお辞儀したスイに言ったのと、同じ台詞だ。
ママは予想の板の外に、チョークで大きく書き足した。
〔男前 地面に礼〕
何の点なのかは、誰にも分からない。
「みかん組、一艘ぶん! 予想は外れたけど、面白かったけん、あたしの勝ち!」
ママの勝負は、最初から別のところでやっとった。
スイは、岸壁の奥で仰向けになった。コンクリートが、ひんやりして気持ちいいらしい。
……今なら。
舟の上では、漕ぎ手二人ぶん遠かった。岸壁なら、ゼロ人ぶんである。
私はスイの頭の横に、正座しかけた。
「スイさん、枕」
颯太が、父の脱いだ救命胴衣をたたんで、スイの頭の下にすっと差しこんだ。
「……颯太」
「なん?」
「……なんでもない」
相棒の仕事が、早すぎる。
舟の上で撮った写真は、全部ぶれていた。揺れる舟で、揺れる男前を撮ると、揺れが二倍になる。
組の写真は、岸壁で撮りなおした。
漕ぐときは決めとらんかった王子の前髪が、写真のときだけ、ちゃんと決まっていた。
それから、恋愛計画表の〔その四 二人の写真〕。ダムでは、スイのつむじしか写らなかった。
岸壁に座ったスイの横に、しゃがんだ。腕をのばして、スマホを構える。画面に、二人の顔が入った。
カシャ。
顔が、ちゃんと写った。
顔色まで、ちゃんと写った。
その四、半分と、少し。
◇
十一日の金曜に、部会の連絡が回ってきた。地区の穫りはじめは、十五日から。
十四日の祝日の夜には、力丸さんから電話が来た。
「酸が、下がりました。十五日から、変わりありません。それと、明日の朝は雨の予報です。実が濡れていたら、乾いてからにしてください。濡れた実は、傷みやすいので」
念押しにまで、条件がついていた。
作業場の壁の釘から、はさみを一本下ろす。スイの収穫ばさみだ。
五月に作業着を買いに行った日、農具売り場で一本ずつスイに握らせて、開いて閉じさせて選んだ。
「秋に使う物は、今から手になじませとくと」
あの日、私はそう言った。スイは「まだ、花が咲いているのに」と言った。
梅雨の雨の日に手入れしたのは、うちとじいちゃんのはさみ。
スイのは新品やけんって、釘につるしたまま五か月。
潮風で、刃に小さなさびの点が出ていた。
手になじませとくと言ったのは、私だ。なじんだのは、釘のほうだった。
明日の朝までに、ぴかぴかにする。
さびの点を、水をつけた目の細かい紙やすりで落とす。砥石は、水を張ったバケツに沈めた。
泡が、ぷくぷく上がってくる。
「石が、水を飲んでいる」
いつの間にか、スイが作業場の戸口に立っていた。
「泡が出んくなるまで、飲ませると。乾いたまま研いだら、刃が削れすぎるけん」
スイは、バケツの泡を、嬉しそうに見ていた。
見とーのは、砥石の水。うちやない。……知っとーけど。
刃の外側の、斜めの面だけを、もとの角度のまま砥石に当てる。根元から刃先へ、すっ、すっ。刃先は多めに。
「先の丸いところは、削らないのか」
「削らん。先が丸いとは、実を刺さんためやけん」
内側の平らな面は、寝かせて一回だけ。乾いたティッシュを、刃先ではさむ。
しゃきっ。
切れた! ティッシュが、すぱっと二つ。
最後に薄く油を引いて、余分を拭き取る。研いだあとのバケツの水は、外の草地へ。
「この水は、どこへ返す」
「草のところ」
「……いい行き先だ」
「明日、これで、うちのみかんを穫ると」
私は、はさみをスイの手のひらにのせた。
「秋になったら、食べさせちゃるって言ったやろ」
うちに来た次の日の夕方、剥き方審査のあとで言った約束だ。
スイは、はさみを握ったまま、少し黙った。
「……覚えている」
知っとー。
八月、わせに急ぎ便のツケで初物を約束した晩も、スイは「秋のみかんは、私も、約束されている」と言った。
二回目やのに、はさみをのせた指が、なかなか離れん。
わせには、一個目とは言っとらん。一個目は、五月から、この人の予約席だ。
刃は、ぴかぴか。
早う、明日になれ!




