第24話 水は分かるが甘さは分からん
うちの居候に、試験の日が来た。
科目は、みかんの甘さ。
試験官は、JAの営農指導員だった。
九月二十五日、水曜日。
ことの起こりは、十八日前の夕方だ。
イノシシに園を掘り返された日の終わりに、海に向いた下の段で、王子がスイに聞いた。
「お前、水が分かるなら、甘さも分かると?」
スイは、黙って実を見ていた。
その晩、縁側で答えが出た。
「分からない。……甘さが分かるかどうかが、分からない。確かめたことがないから」
「それ、答えになっとらんやん」
なっていない。でも、嘘は一つも入っていない。正直にもほどがあるやん。
週が明けた月曜に、JAの力丸さんに電話した。
借りっぱなしのノギスと土壌水分計を返す日の相談のついでに、スイの答えも話した。
「では、試験をしましょう」
声が、半音上がった。あ、いま、すごく楽しそう。
ちょうど、JAの果実分析の時期だという。
地区の決まった木の実の、汁の甘さと酸っぱさを測って、その数で、みかんをいつから穫りはじめるかを決める。
力丸さんは、その実を取って回るついでに、うちで試験をするらしい。
ついでのほうが、たぶん本番だ。
十四日の土曜に、獣よけの網の柵の外側へ、電気柵の線を低く二段張った。
線の下の草刈りは父、電気が来とーかを見るのは王子。
十七日に、わなの許可が下りた。池の上の林は、うちの山だ。
王子はその日のうちに、ぬた場から出る道にわなを掛けて札を付け、それから毎朝見に来る。
今朝も、わなは空だった。
先週、上のほうの段の摘果も済ませた。
落とした実は、段の端には埋めずに、袋で家まで下ろして、作業場の裏の、金網で囲った所に積んだ。
イノシシに、おかわりは出さん。
九月の二十日ごろまでは、真夏と同じ暑さだった。それが日曜に、四十日ぶりの雨。
スイは庭に飛び出して、片膝をついて、長々と礼をした。
梅雨のころは、軒下で一回頭を下げて済ませていたのに。
「四十日、待っていた分だ」
その雨のあとから、朝がやっと涼しい。
今朝も、王子はわなの帰りに、石垣の上から顔を出した。
「今日やろ。甘さの試験。当たったら、イノシシの来る日も当ててみい」
「……水しか、分からないかもしれない」
「分かったら、おれに言え」
前髪が、決まっていない。王子は、本気の日ほど前髪を決めない。……試験を受けるの、王子やないよね?
私は、作業場の棚の上から、箱を一つ下ろした。
中身は、糖度計だ。
農業大学校の二年の秋、実習で使って、どうしても欲しくなった。
アルバイト代を三か月ためて、自分で買った。手のひらにのるくらいの、白い小さな機械。
私の宝物。
少女漫画の魔法使いの女の子なら、変身の道具は、だいたいコンパクトかステッキだ。
私のは、糖度計である。
スイは、まだこれを見たことがない。
うちに来てから、スイは、私に見えない水の話ばかりしてくれた。
池の底の水も、管の中の水も、土の中の水も。
今日は、私が見せる番だ。
◇
九時。力丸さんの軽自動車が、坂を上がってきた。
紙ばさみと、小さなはかりと、銀色の四角い箱。箱の中身は、JAの酸度計だそうだ。
力丸さんは、まず、借りっぱなしのノギスと水分計の記録を、私の野帳で一枚ずつ確かめた。
「毎日、抜けていません。……穫るまで、使ってください」
七月に「測るなら、毎日です」と言われてから、一日も抜かしていない。合格。やった。
いや、今日試験を受けるのは、スイのほうやった。
「地区の分は、いつもの木から取ってきました。今日の十個は、スイさんの試験と、二本を比べる分です」
取るのは、夏から実の太さを測ってきた二本の木。
下から五段目の西の端の木と、四段目の真ん中の木だ。
毎朝測っている印の実のほかから、五つずつ。
「木の外側の、目の高さの、ほかと同じくらいの大きさの実を取ります」
「なぜ、目の高さなのだ」とスイが聞いた。
「同じ木でも、成っている場所で、甘さがちがいます。だから、場所をそろえます」
力丸さんが、ノギスを当てながら、にぎりこぶしより少し小さい実を一個ずつ選び、軸に新しいテープを巻いて、一から十まで書いた。
作業場の机に、青い実が十個並んだ。問題は、十問。
青いといっても、八月より緑が浅くなって、お尻のほうが黄緑がかった実もある。
「では、試験の条件です」
力丸さんが、紙ばさみを胸に当てた。
「スイさんは、実に触らないでください。手に持つと、重さで分かってしまいます」
五月の分かれの升の前では、スイが力丸さんに「触るな」と言った。今日は、逆だ。
「比べるのは、搾って出る汁の量です。予想は、先に紙に書いてください。あとから数に合わせられないように」
スイはうなずいて、鉛筆を取った。紙に、波紋みたいな字を書いた。
力丸さんが、紙をのぞきこんだ。
「……読めません」
「うちも読めん」
「では、並べてください。並べた順を、写真に撮ります」
試験官、立ち直りが早い。
スイは、机の前に立って、十個の実を見下ろした。触らない。十個と、にらめっこ。
「皮の内側の水で、並べる」
テープの数字は読めないので、指でさす。さされた順に、私が実を並べかえていく。
真ん中のところで、指が一度止まった。
「この二つは、迷う」
迷ってから、さした。十個が、一列になった。
「水の多い順だ」
「甘さは」と力丸さんが聞いた。
スイは、少し黙った。
「分からない。……だが、シートを張った日に、まめが言った。水が少ないぶん、実の甘さが濃くなる、と」
「じゃあ、甘い順は?」と私が聞いた。
「この逆だと、思う」
力丸さんが、スマホで一列を真上から撮った。予想、提出。
力丸さんが、一個ずつ実を半分に切って、同じ搾り器で汁を搾る。
目盛りのついた細い筒に受けて、量を読んで、紙ばさみに書く。
五個目で、鉛筆が止まった。
十個目で、また止まった。
「汁の量の順が、並べた順と、十個とも同じです。迷った二つは、差がいちばん小さい二つでした」
眼鏡の奥で、まばたきが一回多い。
当たっとー。十個とも、当たっとー!
「この人、実を見る目も、ものすごいとです」
私は、「根拠は」と聞かれる前に言った。七月は土を見る目で、夏祭りからは心の目。
スイの目は、どんどん増えていく。
「記録します」
「次は、甘さです」
来た。私の糖度計の出番だ。
「ゼロは、合わせましたか」
「今朝、水で」
水で〇・〇を確かめないと、数は信用できない。抜かりはない。
スイが、私の手もとをのぞきこんだ。顔、近っ。スポイトを持つ指に、力が入る。
「この窓に、汁をのせると、甘さが出るのか」
「出ると。見とって」
機械の上の、浅い丸いくぼみの底に、ガラスの窓がある。
そこへ、一番の実の汁を、窓が隠れるくらい三滴。ボタンを押して、一、二、三。
小さな画面に、数字。
「九・八度!」
汁に甘いものが溶けているほど、数は大きい。
「この形は、まめの野帳の、輪が二つの形に似ている。だが、角ばっている」
「機械の字やけん」
水の地図を描いた週に、スイは私の野帳で、八の形だけ覚えた。
一個測るたびに、窓を水で洗って、やわらかい紙で拭く。スイは、その小さな窓を、息を止めてのぞいていた。
見て。見て見て。これが、私の宝物。
十個、測り終えた。どれも、十のまわり。
力丸さんが、スイの並べた順と、糖度計の数の順を、紙ばさみに並べて書いた。
ばらばらやった。きれいに、ばらばら。
いちばん甘かったのは、スイの列の真ん中あたりの実。
いちばん水の少ない実は、甘さでは下から三番目。逆の順、大外れである。
「乾かすと甘くなる、は、木ぜんたいの水の話です。この十個は、大きさをそろえて取りました。汁の量の差は小さくて、その差だけでは、甘さの順はそろいませんでした。……甘さが分からない、とは言えません。この十個で、当たらなかった、までです」
それから力丸さんは、二本の木ごとに、甘さの数を足して割った。
「西の端の木が、十・二。四段目の真ん中の木が、十・三」
「ほとんど同じやん!」
思わず、机に手をついた。
七月の、あの木曜の朝。西の端の木だけ、夜明けを過ぎても葉が巻いていた。
水を入れたら、甘くする分を少し手放す。そう思いながら、五段目のコックを開けた。
四段目の木は、八月の初めまで待たせた。
「水を入れなかった木がないので、比べられません。二本では、なおさら言えません。……ただ、県の試験では、シートを張った木に、八月の初めに何日か少しずつ水を入れても、穫るときの甘さは、シートだけの木と、ほとんど変わりませんでした。条件は、ここと同じではありませんが」
七月の心配に、二か月かかって答えが来た。よかったぁ。うちの木がどこまで甘くなるかは、十月に穫って確かめる。
スイは、紙ばさみの二つの列を、まだ見ていた。
「……水は、分かる。甘さは、分からない」
◇
酸っぱさは、JAの酸度計で測る。
糖度計に似た、少し大きい機械だ。
こっちは、汁を混ざりもののない水で、決まった倍に薄めてから測る。
薄める水まで、わざわざ薬局の水。
「糖度計のゼロは、水道の水でかまいません。こっちは、だめです。水の中のものまで、数に出ます」
「……水道の水にも、何か溶けているのか。私には、同じ水に見える」
水の話が出たとたん、スイの顔が、ぱっと明るくなった。顔に、全部出とー。
十個の残りの汁を合わせて測った数は、一・四。
「甘さの数は、もう十くらいあるとに」
「酸が、まだ高いです。舌の甘さは、甘さの数だけでは決まりません。酸っぱさの数との、釣り合いです。酸は、これから、木の上で下がっていきます。穫りはじめは、それを待ちます。それと、乾かしすぎると、酸は下がりにくくなります」
「甘さは乾かして、酸っぱさは、乾かしすぎん」
「食べてみたい」
スイが、半分になった実を見た。
「分析の実は、食べないでください。この二本の薬の日を、まだ見ていません」
力丸さん、即答。搾りかすと皮は、袋に入れて金網の囲いへ。
作業場の戸口から、祖父がのぞいた。
「食うなら、物干しの三本のにしとけ」
物干しのむこうの三本。八月の終わりに母がポン酢を作った、母の木だ。
「その三本の、薬の日は」
力丸さんが聞いた。
「帳面のとおりたい。ポン酢の日から、あの三本には何もかけとらん」
祖父が、棚から防除の帳面を出した。
力丸さんは、いちばん下の〔物干しの三本〕の欄を、鉛筆の先でたどって、うなずいた。
じいちゃんの帳面、JAの人に合格をもらっとー。
物干しのむこうへ回って、いちばん緑の浅い実を一つもいだ。
皮が、実にぴったり張りついている。爪を立てて、やっとむけた。三つに分けた。
スイが、一房を口に入れた。
噛んだ。
スイの顔が、顔の真ん中に、全部寄った。
うちに来てから見た中で、いちばん顔のよくない顔だった。写真、撮っとけばよかった。
私も食べた。
すっぱ! すっぱすっぱ、すっぱ!
同じ顔になったのが、自分で分かった。
力丸さんは、顔を変えずに噛んで、飲みこんで、言った。
「……酸っぱいです」
眼鏡だけが、少しずれた。
少女漫画では、初恋は甘酸っぱい。百冊読んできて、甘いだけの初恋も、酸っぱいだけの初恋も、出てこなかった。
九月のみかんは、甘さの数はもう十あるのに、口の中では、酸っぱいほうしか分からない。
……初恋には、まだ早い。
みかんの話である。
スイは、残りの皮を手に持ったまま、しばらく黙っていた。
「水の中に、何が溶けているかは、分からない。台風の朝の塩も、茂どのの舌が見た」
台風の次の朝、乾いた塩はスイに見えず、祖父が草の葉をなめて確かめた。
「まめは、甘さが分かるのか」
「舌でなら。毎年、穫る前に、じいちゃんと木の上の実を一個ずつ食べて、覚えてきた。去年からは、それを、この糖度計で数にして、答え合わせしよーと」
「……そうか」
スイは、机の上の十個の実を見た。
「この家の実のことで、いちばん大事なことが、私には分からない」
声が、いつもより小さかった。
分かる、と言われたらどうしよう、と、あの夕方、私は思った。
私が毎年、自分の舌で確かめてきた甘さを、スイが見ただけで当てたら、私の舌の出番がなくなる。
分からなかった。ちょっとだけ、ほっとした。
でも、しょんぼりしたスイを見ているほうが、ずっといやだった。
「甘さは、水の加減で変わるやろ」
スイが、顔を上げた。
「水が、どこにどれだけあるかは、スイが見る。木がつらいかどうかと、甘さの数は、うちが見る。やけん、甘さは、二人で決めればいいと」
「……二人で」
くり返されて、自分の言ったことが、耳に戻ってきた。二人で、決める。
……今の、結婚式の誓いみたいやなかった!?
顔が、ぼんっと熱くなった。
「分業! 分業やけん!」
「分業、とは」
「仕事を、分けて受け持つこと!」
「では、分業だ」
スイは、少しだけ笑った。
それから、私の糖度計を両手で持って、机の真ん中に、そっと戻した。
借りた水を池に返すときと、同じ手つきだった。
宝物の扱い、満点である。
◇
夕方、王子が、また石垣の上から顔を出した。わなの見回りは朝だけなのに。気になって、しょうがなかったらしい。
「どうやった」
「水は、分かった。甘さは、分からなかった」
スイが答えた。今度は、ちゃんと答えになっていた。
「水は分かるが、甘さは分からんとか」
王子は、なぜか、ほっとした顔をした。
「よかった。甘さまで分かったら、おれは、お前に勝てんけんな」
たぶん、また勝負の紙が来る。甘さなら、受けて立つ。
「それと」
王子が、前髪を指で整えた。あ、今度は決めた。
「来月の秋祭り。今年は、船の出る年ぜ」
秋祭りの神輿は毎年出るけれど、漁港から船を出すのは、何年かに一度だけだ。
「船は、組ごとに一艘。漁師の組と、みかん組。みかん組の漕ぎ手の、若手の足らん」
「若手、うちと王子だけやもんね」
「やけん、代表が集めよる」
王子は、スイを指さした。
「スイ。お前、漕げ。まめは、同じ船で写真の係たい」
「船……」
スイの目が、光った。
「海の、上に乗るのか」
いちばん上の段で海が塩の水だと聞いた朝、スイは「……なんて、もったいない」と言った。
その海の上に、乗るらしい。
写真の係なら、スイの写真は撮り放題である。腕をのばせば、二人の写真も撮れる。
恋愛計画表のその四は、ダムでつむじしか写らなかった。
残りの半分は、海の上で撮れるかもしれない。
いや、待って。
スイは、うちの軽トラでも、王子の軽トラでも酔った。
ダムの日は、膝の上にボトルを立てていても、行きの峠で一度、顔色が抜けた。
「スイ。船は、ボトルの水じゃ、試験にならんよ」
「大丈夫だ。水を見ていれば、私は酔わない。海は、ぜんぶ水だ」
「その水が、ぜんぶ揺れとーと!」
スイは、聞いていなかった。池に浮かんで取水口に見とれていた朝と同じ顔で、もう海のほうを見ていた。
知っとー、この顔。止まらん顔やん!




