第23話 イノシシの風呂場が分かる男
朝、うちの園が耕されていた。
頼んだ覚えはない。
耕した犯人は、足あとだけ置いて、夜のうちに帰っていた。
九月七日、土曜日。
六時半に池の取水口を見て、上のほうの段へ回ったところで、私は立ち止まった。
古い木の並ぶ段の土が、あちこちでひっくり返されていた。シートを敷いていない段だ。
下の、色の濃い土がめくれて、草の根が空を向いている。スコップで掘った跡ではない。
何かが鼻で押して、めくっていったような跡だ。
考えたくない名前が、一つ浮かんだ。
石垣の根もとの小石が、いくつか下の段に落ちていた。
「じいちゃん!」
祖父は、麦わら帽をかぶって上がってきて、めくれた土を見た。それから、しゃがんで、やわらかい所を指さした。
足あとがあった。先が二つに割れた、蹄の跡だ。そのうしろに、小さな点が二つ。
「イノシシたい」
祖父は、石垣の根もとをのぞいて、少しだけ息を吐いた。
「根石は動いとらん。すき間の小石だけ」
下の段に下りると、白いシートの上に、泥の足あとが点々と続いていた。
台風の晩から、雨は一滴も降っていない。泥は、どこから持ってきたのだろう。
段の端の、先週、摘果した青い実を埋めた所も、掘られていた。
スイが一段に一回、長い礼をして埋めた所だ。穴だけが残っている。実は、一つもない。
「……深めに埋めたとに」
「深う埋めても、鼻の利くとは掘る。埋めたとが悪かったわけやなか」
腹が立った。うちの園を、夜のうちに好きにされたからだ。
祖父はああ言ったけれど、先週の自分にも、少しだけ腹が立った。
スイが、穴の前で、黙って片膝をついた。
「……土には、返らなかった」
「行き先は、あったやん。イノシシのお腹に」
言ってから、ちっともなぐさめになっていないと思った。
「私は、夜のうちに、気づかなかった」
「生き物の中の水は、見らんっちゃろ」
「見ない。だから、夜に何が来たかは、分からない」
「光司に、電話してみい」
祖父が言った。私は、自分のスマホで王子にかけた。
隣の園の吉武光司。自称、地区のみかん王子。わなの免許を持っている。
王子は、二回目の呼び出し音で出た。
「イノシシ? どこ。何段目。足あとは。……すぐ行く」
三秒で切れた。
まだ朝七時前。こっちは寝起きよりひどい気分なのに、電話の向こうだけ、もう一日が始まっとー。
母は直売所の当番で、もう出ていた。父は、土曜の朝はまだ寝ている。
颯太は、模試で朝から町だ。異世界の相棒になりたい弟が、イノシシの日にいない。
あとで知ったら、たぶん悔しがる。
◇
吉武は、十分で来た。
作業着に長靴、軍手、首に白いタオル、黒い帽子。軽トラを農道に止めて、坂を駆け上がってきた。
「どこ」
あいさつより先に、それだった。
吉武は、めくれた土の前にしゃがみこんだ。足あとに顔を近づけて、指で幅をはかる。
「うしろの小さか二つは、副蹄。シカなら、まず付かん。この幅なら大人たい。一頭か、二頭」
それから、掘り返しを見て回った。
「ミミズば探しよる。これから実が甘うなったら、木になっとる実も食いに来るぞ」
吉武は立ち上がって、園のいちばん上の、雑木林との境のほうへ歩いていった。
古いワイヤーメッシュの柵がある所だ。鉄の網の柵で、高さは私の胸くらいある。
池の横から、いちばん上の段の山側をぐるりと回っている。
吉武は、柵の下の地面を指さした。
「ここ。くぐっとる」
網の下のはしが、外から押し上げられて、すき間ができていた。
すき間の土に、押しこんだ跡が何本も重なっている。
網に、黒い毛が何本か引っかかっていた。
「何晩か、ここを押しよったとやろ。ゆうべ、抜けた。一回通った道は、また通る」
私は、少し感心した。いつもの前髪を整える王子とは、手つきがちがう。
「王子、今日は本物やん」
「今日も本物たい」
「光司は、地区の捕獲の班に入っとるけんな」
祖父が言った。
「王子、班でいちばん下っ端やろ」
「班の、若手の代表たい」
「若手は、王子一人やろ」
「一人でも、代表は代表たい」
吉武は、まじめな顔に戻った。
「今は猟の時期やなかけん、わなを掛けるには、市の許可の要る。茂さんに頼まれたっていう紙を付けて、月曜に出す。下りるまで、一週間はかかる」
「頼むとは、園主のおれやけん」
祖父はそう言って作業場へ下りていき、ハンコを持って戻ってきた。
「掛けたら、わなに札を付けて、毎朝見に来る。決まりやけん」
王子の用事は、わなの見回り。それでも、毎朝来ると聞くと、少女漫画の本命みたいで少し腹が立つ。
「その前に、柵を直す。柵も直さんで、わなだけ頼むとは、筋の通らん」
吉武は、柵の向こうの林を見た。
「ただ、林の中は、道が何本もある。どれが毎晩の道かは、何晩か見張らんと分からん」
「……私にも、何か」
スイが言った。吉武は、スイを横目で見た。
「お前は、水しか分からんやろ」
「水なら、分かる」
スイは、柵の向こうの、池の上の林を見た。
「池のふちから、沢を二十歩ほど上がった所に、水のしみ出す、くぼみがある。台風のあとから、泥の水がたまっている。形が毎朝変わるようになったのは、ここ十日ほどだ」
毎朝、取水口へ一緒に上がるあいだに、この人は、林の中の水たまりの形まで分かっていたらしい。
吉武の顔つきが変わった。
「……ぬた場たい」
◇
「ぬた場、とは」
「イノシシの風呂場。泥ば浴びる」
「……泥で、体を洗うのか」
スイが、真顔で聞いた。
「ダニば落とすとか、体ば冷やすとか、言われとる。浴びたあと、近くの木に体をこすりつけて、泥を落とす。シートの上の泥も、そこから運んできたっちゃろ」
雨の降らない朝に、泥の足あとがあった理由が、やっと分かった。
スイは、少し複雑な顔をしていた。水で洗わずに、泥で洗う生き物がいる。水守として、言いたいことがあるらしい。
「……泥も、半分は水だ」
自分で納得していた。
吉武は一度帰って、鉈と虫よけを取ってきた。私とスイは、長袖に着替えた。
九時半、池の横の、獣よけの柵の戸を開けて、三人で林に入った。戸は、通るたびに閉めた。
暑くなる前に済ませる。祖父には、十時半までに戻ると言ってある。
長袖、長ズボン、長靴、軍手。
「藪の奥には入らん。大きい声も出さん。イノシシに会ったら、目を離さんで、ゆっくり下がる。走ったらいかん」
吉武が言った。
入る前に、私は吉武の黒い帽子を取った。
「なんで」
「スズメバチは、黒いもんに向かってくるけん。今が、いちばん多い時期」
「白かとは、前髪の決まらん」
「前髪と、刺されるのと、どっちがいいと?」
私は、吉武の首の白いタオルを、頭にのせた。王子は、白いタオルをかぶった王子になった。
私も、自分のタオルを頭に巻いた。スイの髪は、最初から黒くない。合格だった。
林の中で、少女漫画なら、二人きりになるところだ。木もれ日。足もとの悪い道。差し出される手。
実際は、白いタオルの王子が先頭で、背の高い水守がその次で、私がいちばんうしろだった。
差し出される手は、なかった。前の二人が、ずっと地面を見ていたからだ。
「左」
吉武の背中に、スイが言った。吉武が、しぶしぶ左へ曲がった。
「もう少し、上」
吉武が、しぶしぶ上がった。今度の道案内なら、ハツヨさんの「左!」より頼っていい。
少なくとも、スイと王子は同じ向きだ。
「そこだ」
木の根もとの、少し低くなった所に、泥の水たまりがあった。畳半分くらい。
茶色い泥が、ぐちゃぐちゃにかき回されている。
ふちには、朝と同じ足あとが、いくつも重なっていた。
吉武が、膝をついて、ふちの泥を見た。
「上の泥は、ゆうべのぶん。乾いとる下のは、それより前」
それから、すぐそばの木の幹を指さした。泥が、べったりついている。
乾いた泥の上に、新しい泥。ところどころに、硬そうな黒い毛がはさまっていた。
「ここで、こすったとたい」
私は、木の横に立ってみた。泥の跡は、私の腰より下だった。
「……本当に、あった」
吉武が、低い声で言った。それから、スイを振り返った。
「なんで分かったと?」
「見れば、分かる」
吉武は、しばらくスイの顔を見ていた。
「……また、心の目か」
「そう。心の目」
私が言った。夏祭りのスイカ割りで、目隠しのスイがまっすぐスイカへ歩いたとき、私が広場で叫んだ言葉だ。
「心の目、とは」
スイが聞いた。
「お前のことやろうが!」
王子の声が、林の中で響いた。それから、自分の声に驚いて、口を閉じた。
大きい声は出さん、と言ったのは、王子だった。
吉武は、ぬた場から園の柵まで、ゆっくり地面をたどった。
道そのものは踏まずに、わきを歩く。人のにおいを残さないためらしい。
林の中で、道は三本に分かれていた。ぬた場から出てくる道は、そのうちの一本だけだった。
吉武は、その道が木の根をまたいで、足を下ろす所で立ち止まった。
「わなは、ここに掛ける。人の通る道からは、外れとる。場所は、あとで家の人全員に教えとく」
風呂場が分かったので、何晩も見張らなくても、道が一本に絞れた。
スイは、ぬた場の泥の水を、少し離れた所から見下ろしていた。
「風呂の場所は、分かる。風呂に入る者は、分からない」
「十分たい」
吉武が言った。たぶん、今日いちばんの褒め言葉だった。
帰りは、並びが逆になった。私が先頭で、スイ、王子の順だ。沢のわきの下り坂だった。
私が足を出そうとした所で、うしろから、手首をつかまれた。
「そこは、滑る」
スイだった。足もとの土は、乾いて見えた。でも、この人には、その下の水が分かる。
私は、一歩横の、固い土に足を置いた。
少女漫画の手は、行きではなく、帰りに来た。理由は、ぬかるみだった。
林を出て、三人で服をはたき合った。ダニがついていないか、たがいの背中を見る。
王子の背中は、私がはたいた。少し強めに。
◇
三時を過ぎてから、柵を直した。吉武は、昼に一度帰って、三時ちょうどにまた来た。
白いタオルを、頭にのせたままだった。
祖父が物置から、長い鉄のパイプを何本も出してきた。
いつか中古の何かと一緒に買いこんだ、ビニールハウスの骨組みの余りだ。
「いつか使う日の来ると思っとった」
台風の前に、竹を何本も出してきたときも、同じ顔をしていた。
そのパイプを、柵の下のはしに沿って地面に寝かせ、針金で網にしばっていく。
網の下を押し上げられないようにするためだ。パイプが浮かないように、杭で地面に留める。
杭は、斜めに打つ。まっすぐより、抜けにくい。
網と網のつなぎ目も、地面のきわから針金で留める。
パイプはスイが運んだ。二本まとめて肩にかついで、石段を上がっていく。
父は杭を打ち、私は針金をねじった。
吉武は、柵にそって歩きながら、すき間を一つずつ指さした。
最後に、吉武が、網の下のはしを長靴で蹴った。網は、上がらなかった。
「よし」
祖父が、もう一度物置へ行って、箱を一つ抱えて戻ってきた。
「電気柵の電源たい。去年、ネットで落としとった」
中古の、電池で動く電気柵の電源だった。
箱の横に、取扱説明書がビニール袋に入れて、テープで貼りつけてある。
ためこむ人は、説明書もためこむらしい。
吉武は、説明書をめくって、うなずいた。
「これなら使える。危ないって書いた札を、見えるとこに下げんといかん」
「ある」
祖父が言った。
「線と支柱は」
「ある」
あるらしい。物置は、思っていたより深い。
「あと、線の下の草は、刈っとかんと電気の逃げる」
父が、黙って物置のほうを見た。草刈り機は、あそこにある。来週の土曜の、自分の係が決まった顔だった。
電気柵は、来週の土曜に張る。王子は、その日も来る。わなの許可が下りたら、そのあとは毎朝来る。
五時を過ぎて、日が海のほうへ傾いた。
片づけの途中、海に向いた下の段で、スイが一本の木の前で足を止めた。
「色が、変わった」
青い実の、お尻のほうが、ほんの少しだけ、濃い緑から明るい緑になっていた。言われなければ、分からないくらいだ。
「これから、甘くなるとよ」
私が言うと、吉武が、タオルを首に戻しながら、スイを見た。
「お前、水が分かるなら、甘さも分かると? 分かるなら、イノシシの来る日も分かるやろ」
スイは、黙って実を見ていた。
分かる、と言われたら、どうしよう。
私が毎年、自分の舌で確かめてきた甘さを、この人は、見ただけで言い当てるのか。
分からない、と言われたら、それはそれで、少しさびしい。
答えを聞きたかったのは、王子より、たぶん私のほうだった。




