↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
異世界の水守さんと段々畑のみかん暮らし  作者: 御子柴 了一
第3章 夏の照らし合わせ
PR
23/35

第22話 摘果した実で母さんがポン酢を作る

「一つに、一礼」


 仕上げ摘果の朝、スイは、作業場のござの上に正座した。


 実を落とす前に、礼の回数から減らさないといけないらしい。


 八月三十一日、土曜日。


 七月の粗摘果の日、私が実を一つ落とすたびに、スイはそれを受け取って、一つずつ頭を下げた。


 一本目の木で落としたのは三つだけだったから、それで済んだ。


「夏の終わりの仕上げのときは、こうはいかんけんね」


 そう言った私に、この人は「そのときは、そのときだ」と答えた。


 仕上げ摘果は、夏の終わりに、もう一度実を減らす仕事だ。


「今日は、何を落とす」

「小さすぎる子と、傷のある子と、上を向いて大きくなりすぎた子。上向きの子は、皮が粗くなりやすいけん」

「下を向いているほうが、いい。七月に聞いた」

「……うつむいとー子のほうが、甘くなると」


 粗摘果の日も照れた。二回目も照れた。


「今年は裏年で、もともと実が少ないけん、軽く済ませる。落としすぎたら、残った子が大きくなりすぎて、味がぼけるけんね。今日は、下の六段だけ」


 それでも、落とす実は百では済まない。


「日が暮れる」


 あの日飲みこんだ言葉を、今日は最後まで言った。


「では、礼を短くする」

「短くしても、百は百やけん。暮れるのが、ちょっと遅くなるだけ」


 スイは、少し考えた。


「水論の作法で決めるか。裁き手を立てて」

「立てん。誰を立てると?」


 作業場の戸口から、祖父がのぞいた。目が合った。


 祖父は黙って麦わら帽をかぶり、上の段へ行ってしまった。


 父も、そのうしろから、黙ってついていった。


 裁き手は、逃げた。助手も、逃げた。


「……一本の木に、一礼。そのかわり、一本ぶん長くしてもいいけん」


 スイは、しばらく黙っていた。それから、うなずいた。


「一樹一礼」

「なんで四字にすると?」

「この国の言葉は、四つにすると、決まりになる」


 どこで覚えたのかは、聞かないことにした。たぶん、颯太だ。


 台所では、母が、祖父の防除の帳面を広げていた。


 どの日に、どの段に、どの薬をかけたか。祖父が毎年つけている帳面だ。


 母の指が、いちばん下の欄をなぞって止まった。〔物干しの三本〕。


「よし。日は、足りとー」

「薬の日を、数えるのか」

 スイが聞いた。


「全部の薬の日を見るとよ。黒い点の薬だけやなかけんね。食べるもんやけん」


 家の横の、物干しのむこうに、早生が三本だけ植わっている。母の木だ。


 夏の終わりの薬を、祖父はこの三本だけ早めに止めている。母に頼まれて、何年も前から。


 ほかの木には、盆が明けてすぐの朝、台風の雨で流れた黒い点の薬をかけ直した。


 あれから、まだ半月。食べ物にするには、帳面の日数が、まだ足りない。


 その盆明けの薬も、この三本にだけはかけていない。


 そのぶん黒い点は出るけれど、黒い点は見た目で値段が下がるだけで、中身は同じだ。


 梅雨入りの日の防除で、スイにそう話した。


「三本の分は、摘んだ実を、埋めんで、袋のまま持って帰ってきてね」

「何にするのだ」

「ポン酢」

「ぽんず、とは」

 母は、にやりと笑った。


「夜になったら、分かる」


 うちの母がにやりと笑うと、だいたい、台所で何かが始まる。


  ◇


 北西向きの斜面は、朝のうちは山の陰になる。下の段は、まだ涼しかった。


 私が木を見て、落とす実を決める。軸を指でつまんでひねる。


 軸の太い実だけ、ハサミで切る。落とした実は、粗摘果のときと同じで、袋に入れる。


 シートの上に置いておくと、腐るからだ。今日は数が多いから、袋はスイが持つ。


「台風の朝の九つは、園の外に埋めたのに」


 スイが言った。


「あれは、傷んで落ちた実。腐ったら、病気や虫の元になるけん、外。今日のは選んで落とす実やけん、段の端の土に深めに埋めて、畑に返す。病気と虫の実だけ、外」


 一本目の木で、私は五つ落とした。


 スイは、袋の中の五つに向かって、片膝をついた。指先を、シートのきわの土に触れた。頭を下げた。


 ……長い。長すぎん?


 礼が終わるまでに、私は二本目の木の実を、三つ数え終わっていた。


 一本ぶん長くしてもいい、と言ったのは私だ。言ったけれど、ここまでとは言っていない。


 三本目の木で、スイが、木の奥を指さした。


「そこに、もう一つある」


 葉をかき分けると、奥の枝の陰に、ピンポン玉くらいの青い実が一つ、隠れていた。


「……見えとったと?」

「見えてはいない。水が、そこにある」


 小さすぎる実だった。落とすことにした。見つけたのはスイで、決めたのは私だ。


 私は、葉のすき間に顔を入れて、その実をひねった。スイも、同じすき間をのぞいていた。


 葉の中で、頭が、こつんと当たった。


 少女漫画なら、ここで二人の目が合う。


 目が合うはずの所に、みかんの葉が一枚、はさまっていた。耳だけが、熱くなった。


 四本目からは、私が外側を見て、スイが奥を言うことになった。目で探すより、ずっと早い。


 六本目の木で、スイの礼が、いつもより長くなった。


「実を落とすのは、水を捨てるのと同じだ」

「捨てんよ。この子を落とした分、隣の子に、木の力も水も回ると」

「隣の実は、隣の実だ」

 スイは、袋の中の青い実を見た。


「この実は、まだ何にもなっていない。土に返すのは、いい。借りた水は、返すものだ。だが、何にもならないまま、返す」


 言い返せなかった。


 段が一つ終わるたびに、石垣の陰で、二人とも水筒を口に当てた。


 十時を過ぎて、日差しが首のうしろに痛くなってきたころ、祖父が上の段から下りてきた。


 私の野帳をのぞいて、まだ二段目の途中なのを見て、言った。


「一段に一回にしとけ。昼までに、終わらんぞ」


 今度は、裁き手が逃げなかった。


「……一段一礼」


 スイが言った。四字にすると、決まりになるらしい。


 礼の場所は、段の端になった。袋の実を土に埋めるたびに、一回。


 一段ぶんの礼は、一段ぶん長かった。


 礼のあいだに、私は石段を上がって、次の段の一本目を、腰の袋に入れながら半分終わらせた。


 振り向くと、石垣の下で、スイのつむじが、まだ下がっていた。


 ダムの写真に写ったつむじを、今日は上から見下ろせる。


 背丈を追い越せるのは、石段一つぶん、上にいるあいだだけだ。


 昼前に、下の六段が終わった。


 上の段の祖父を呼びに上がって、七段目の、海に向いた端から少し入った木の前で、足が止まった。


 台風の朝、端の何本かは洗えて、そこから先は間に合わなかった木だ。


 お盆の朝、祖父が「葉の落ちるかは、まだ分からん」と指でなでたのも、この木の葉の縁だった。


 足もとに、葉が何枚も落ちていた。枝に残った葉も、縁が茶色く乾いている。


 葉を落とした枝の先から、小さな若い芽が、ちらほら出ていた。


「出んでよか芽たい」

 うしろから、祖父が言った。


「葉の減った分を、取り返そうとしよる。そのぶん、冬に貯めとく分を使う」

「葉のない枝にも、水は、上っている」


 スイが言った。それ以上は、言わなかった。


 私は、葉の減った枝の実を、二つ、多めに落とした。軽く、の日にも、多めに落とす枝がある。


  ◇


 三時を過ぎて、家の陰が三本にかかってから、物干しのむこうの三本をやった。


 この三本の実だけは、段の端に埋めない。袋のまま、台所へ持って帰る。私がひねった実を、スイが袋の口で受ける。


「土には、返さないのだな」

「食べる実やけんね」

「礼は、あとでする」


 スイは、そう言って、袋の口を閉じた。


 台所では、母が、まな板とボウルと、空の瓶を並べて待っていた。


「七月のは、まだ汁が少なかったし、傷と虫の実ばっかりやったけんね。八月の終わりのが、ちょうどよかと」


 母が、青い実を洗って、一つ、半分に切った。


 台所じゅうに、青い匂いが立った。鼻の奥が、つんとした。夏の終わりの匂いだ。


 スイが、目を閉じて、鼻から息を吸った。


 皮は青いのに、中は思ったより白っぽい、淡い黄色だった。母が手で搾ると、汁が、ボウルにぽたぽた落ちた。


「……実の中の、水だ」


 何個か搾ったところで、母が皮の山に放ろうとした半分を、スイが指さした。


「それには、まだ、ほかより多く残っている」


 母が、もう一度、ぎゅっと搾った。ぽたぽた、と、まだ落ちた。


「……スイくん、搾り残しの分かると?」

「水が、まだそこにある」


 次の半分も、指さされた。母が搾った。落ちた。


 三つ目は、母が両手で搾った。落ちた。


 母の目が、光った。


「スイくん。ふれあい市に出す前の日、空いとー?」


 加工所に、もう一人連れていくつもりらしい。


 スイが指す。母が搾る。ボウルの汁が、まだ増える。


 私は、半分の皮を数える係になった。


 母は、小さな瓶に、汁としょうゆと、お酢を少し合わせて、ふたをした。


 今夜の分は、それだけだ。残りの汁は、製氷皿に流しこんだ。


「冬の分は、凍らせて取っとくと。鍋の季節になったら、ポン酢にする」

「……冬まで、取っておくのか」

「取っとかんと、もったいなかろうもん。皮は、いくつか袋に入れて、今夜のお風呂。あとは、畑に返す」


 スイは、製氷皿を見た。それから、皮の山を見た。


「……行き先が、あった」


 七月にシートを張った日の通り雨で、この人は「……行き先が、あるのか」と聞いた。


 その答えが、今日は台所にあった。


 スイは、母に向かって、深く頭を下げた。三本の木の分の礼だった。


 母は、なんのことか分からない顔で、笑った。


 瓶のラベルは、私の係だった。

〔八月三十一日 物干しの三本〕


 ついでに、ふれあい市に出すときのラベルの下書きも描いた。真ん中に、大きなハート。


 スイと二人で摘んだ実の、初めての瓶だ。


 母が、下書きをのぞきこんだ。


「搾ったとは、お母さんとスイくんやけど」

「……皮を数えたとは、うちやもん」


 半分の皮は、四十二あった。


「それにね、店の分は、加工所で搾るところから作ると。家の台所で搾ったとは、店には出されんけん。原材料を書く欄も、なかやん」

「ハートの欄なら、ある」

「ハートは、原材料やなか」


 母の目標は、ふれあい市の棚を一段ふやすことだ。今年の秋こそ、ポン酢の段を取るらしい。


 下書きのハートは、消された。


 しょうゆ色の小瓶は、ラベルが乾くのを待って、冷蔵庫に入った。製氷皿は、冷凍庫に入った。


 夕方までに、スイは冷蔵庫を三回開けた。三回とも、牛乳の横の小瓶に、小さく頭を下げていた。


  ◇


 晩ごはんは、冷しゃぶだった。


 食卓の真ん中に、ポン酢の小瓶が置かれた。


 颯太がひと口食べて、顔じゅうをしぼませた。


「酸っ!」

 それから、もうひと口食べた。


「スイさん、じいちゃんが言いよった。一段一礼て、何? 技名やん」

「技ではない。決まりだ。四つにすると強くなる、と、颯太が言った」


 颯太は、満足そうにうなずいた。技名の付け方を教えただけで、農作業の相談まで長くなったんやけど。


 父は、黙ってビールを飲んで、黙ってポン酢をもう少しかけた。祖父は「今年のは、よか」とだけ言った。


 私も、つけて食べた。酸っぱい。その奥に、夕方の台所の、青い匂いが残っていた。


 スイは、ポン酢をつけた豚肉を、しばらく眺めていた。それから、口に入れた。


「……酸い」


 それから黙って、もうひと切れに、ポン酢をつけた。


 二口目も食べてくれた。あの青い実で、こんな顔になるなら、来年も母の三本はスイと摘みたい。


 夜、離れの縁側で、裸電球をつけて、蚊取り線香を焚いた。


 月のない晩だった。斜面も、池のほうも、真っ暗だった。


 スイが、手のひらくらいの野帳を、膝の上に広げた。村の水の計画の頁だ。


 ダムに行った次の晩に、私が三行を書き足した頁。


 上のほうの四行には、スイが自分で細い線を引いて消している。その一つが、ダムだった。


 村には、ためる川がない。


 スイの指が、その消した線の上で止まった。


「ダムは、川をせき止めて、水をためる」

「うん」

「まめの家の池には、川が流れこんでいない」

「沢と、雨やね」

「沢も、雨の通り道だ」

 スイは、少し黙った。


「台風の晩、あの池は、日照りで出ていた岸が沈むまで上がった。次の朝、その水で、塩を洗った」


 それから、台所のほうを見た。


「冬の分は、凍らせて取っておく、と言っていた」

「言いよったね」

「村の雨は、降った日に、土に吸われて、それで終わる。……取っておけば、夏に、配れる」


 蚊取り線香の煙が、まっすぐ上っていった。


 スイは、消した線のすぐ下に、波紋みたいな字で、一行書いた。それから、顔を上げた。


「村に、池を作りたい」


 スイが村に作りたい池。その最初の線を、今夜、ここで引く。


 私は、作業場から、いちばん長い定規を取ってきた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。