第22話 摘果した実で母さんがポン酢を作る
「一つに、一礼」
仕上げ摘果の朝、スイは、作業場のござの上に正座した。
実を落とす前に、礼の回数から減らさないといけないらしい。
八月三十一日、土曜日。
七月の粗摘果の日、私が実を一つ落とすたびに、スイはそれを受け取って、一つずつ頭を下げた。
一本目の木で落としたのは三つだけだったから、それで済んだ。
「夏の終わりの仕上げのときは、こうはいかんけんね」
そう言った私に、この人は「そのときは、そのときだ」と答えた。
仕上げ摘果は、夏の終わりに、もう一度実を減らす仕事だ。
「今日は、何を落とす」
「小さすぎる子と、傷のある子と、上を向いて大きくなりすぎた子。上向きの子は、皮が粗くなりやすいけん」
「下を向いているほうが、いい。七月に聞いた」
「……うつむいとー子のほうが、甘くなると」
粗摘果の日も照れた。二回目も照れた。
「今年は裏年で、もともと実が少ないけん、軽く済ませる。落としすぎたら、残った子が大きくなりすぎて、味がぼけるけんね。今日は、下の六段だけ」
それでも、落とす実は百では済まない。
「日が暮れる」
あの日飲みこんだ言葉を、今日は最後まで言った。
「では、礼を短くする」
「短くしても、百は百やけん。暮れるのが、ちょっと遅くなるだけ」
スイは、少し考えた。
「水論の作法で決めるか。裁き手を立てて」
「立てん。誰を立てると?」
作業場の戸口から、祖父がのぞいた。目が合った。
祖父は黙って麦わら帽をかぶり、上の段へ行ってしまった。
父も、そのうしろから、黙ってついていった。
裁き手は、逃げた。助手も、逃げた。
「……一本の木に、一礼。そのかわり、一本ぶん長くしてもいいけん」
スイは、しばらく黙っていた。それから、うなずいた。
「一樹一礼」
「なんで四字にすると?」
「この国の言葉は、四つにすると、決まりになる」
どこで覚えたのかは、聞かないことにした。たぶん、颯太だ。
台所では、母が、祖父の防除の帳面を広げていた。
どの日に、どの段に、どの薬をかけたか。祖父が毎年つけている帳面だ。
母の指が、いちばん下の欄をなぞって止まった。〔物干しの三本〕。
「よし。日は、足りとー」
「薬の日を、数えるのか」
スイが聞いた。
「全部の薬の日を見るとよ。黒い点の薬だけやなかけんね。食べるもんやけん」
家の横の、物干しのむこうに、早生が三本だけ植わっている。母の木だ。
夏の終わりの薬を、祖父はこの三本だけ早めに止めている。母に頼まれて、何年も前から。
ほかの木には、盆が明けてすぐの朝、台風の雨で流れた黒い点の薬をかけ直した。
あれから、まだ半月。食べ物にするには、帳面の日数が、まだ足りない。
その盆明けの薬も、この三本にだけはかけていない。
そのぶん黒い点は出るけれど、黒い点は見た目で値段が下がるだけで、中身は同じだ。
梅雨入りの日の防除で、スイにそう話した。
「三本の分は、摘んだ実を、埋めんで、袋のまま持って帰ってきてね」
「何にするのだ」
「ポン酢」
「ぽんず、とは」
母は、にやりと笑った。
「夜になったら、分かる」
うちの母がにやりと笑うと、だいたい、台所で何かが始まる。
◇
北西向きの斜面は、朝のうちは山の陰になる。下の段は、まだ涼しかった。
私が木を見て、落とす実を決める。軸を指でつまんでひねる。
軸の太い実だけ、ハサミで切る。落とした実は、粗摘果のときと同じで、袋に入れる。
シートの上に置いておくと、腐るからだ。今日は数が多いから、袋はスイが持つ。
「台風の朝の九つは、園の外に埋めたのに」
スイが言った。
「あれは、傷んで落ちた実。腐ったら、病気や虫の元になるけん、外。今日のは選んで落とす実やけん、段の端の土に深めに埋めて、畑に返す。病気と虫の実だけ、外」
一本目の木で、私は五つ落とした。
スイは、袋の中の五つに向かって、片膝をついた。指先を、シートのきわの土に触れた。頭を下げた。
……長い。長すぎん?
礼が終わるまでに、私は二本目の木の実を、三つ数え終わっていた。
一本ぶん長くしてもいい、と言ったのは私だ。言ったけれど、ここまでとは言っていない。
三本目の木で、スイが、木の奥を指さした。
「そこに、もう一つある」
葉をかき分けると、奥の枝の陰に、ピンポン玉くらいの青い実が一つ、隠れていた。
「……見えとったと?」
「見えてはいない。水が、そこにある」
小さすぎる実だった。落とすことにした。見つけたのはスイで、決めたのは私だ。
私は、葉のすき間に顔を入れて、その実をひねった。スイも、同じすき間をのぞいていた。
葉の中で、頭が、こつんと当たった。
少女漫画なら、ここで二人の目が合う。
目が合うはずの所に、みかんの葉が一枚、はさまっていた。耳だけが、熱くなった。
四本目からは、私が外側を見て、スイが奥を言うことになった。目で探すより、ずっと早い。
六本目の木で、スイの礼が、いつもより長くなった。
「実を落とすのは、水を捨てるのと同じだ」
「捨てんよ。この子を落とした分、隣の子に、木の力も水も回ると」
「隣の実は、隣の実だ」
スイは、袋の中の青い実を見た。
「この実は、まだ何にもなっていない。土に返すのは、いい。借りた水は、返すものだ。だが、何にもならないまま、返す」
言い返せなかった。
段が一つ終わるたびに、石垣の陰で、二人とも水筒を口に当てた。
十時を過ぎて、日差しが首のうしろに痛くなってきたころ、祖父が上の段から下りてきた。
私の野帳をのぞいて、まだ二段目の途中なのを見て、言った。
「一段に一回にしとけ。昼までに、終わらんぞ」
今度は、裁き手が逃げなかった。
「……一段一礼」
スイが言った。四字にすると、決まりになるらしい。
礼の場所は、段の端になった。袋の実を土に埋めるたびに、一回。
一段ぶんの礼は、一段ぶん長かった。
礼のあいだに、私は石段を上がって、次の段の一本目を、腰の袋に入れながら半分終わらせた。
振り向くと、石垣の下で、スイのつむじが、まだ下がっていた。
ダムの写真に写ったつむじを、今日は上から見下ろせる。
背丈を追い越せるのは、石段一つぶん、上にいるあいだだけだ。
昼前に、下の六段が終わった。
上の段の祖父を呼びに上がって、七段目の、海に向いた端から少し入った木の前で、足が止まった。
台風の朝、端の何本かは洗えて、そこから先は間に合わなかった木だ。
お盆の朝、祖父が「葉の落ちるかは、まだ分からん」と指でなでたのも、この木の葉の縁だった。
足もとに、葉が何枚も落ちていた。枝に残った葉も、縁が茶色く乾いている。
葉を落とした枝の先から、小さな若い芽が、ちらほら出ていた。
「出んでよか芽たい」
うしろから、祖父が言った。
「葉の減った分を、取り返そうとしよる。そのぶん、冬に貯めとく分を使う」
「葉のない枝にも、水は、上っている」
スイが言った。それ以上は、言わなかった。
私は、葉の減った枝の実を、二つ、多めに落とした。軽く、の日にも、多めに落とす枝がある。
◇
三時を過ぎて、家の陰が三本にかかってから、物干しのむこうの三本をやった。
この三本の実だけは、段の端に埋めない。袋のまま、台所へ持って帰る。私がひねった実を、スイが袋の口で受ける。
「土には、返さないのだな」
「食べる実やけんね」
「礼は、あとでする」
スイは、そう言って、袋の口を閉じた。
台所では、母が、まな板とボウルと、空の瓶を並べて待っていた。
「七月のは、まだ汁が少なかったし、傷と虫の実ばっかりやったけんね。八月の終わりのが、ちょうどよかと」
母が、青い実を洗って、一つ、半分に切った。
台所じゅうに、青い匂いが立った。鼻の奥が、つんとした。夏の終わりの匂いだ。
スイが、目を閉じて、鼻から息を吸った。
皮は青いのに、中は思ったより白っぽい、淡い黄色だった。母が手で搾ると、汁が、ボウルにぽたぽた落ちた。
「……実の中の、水だ」
何個か搾ったところで、母が皮の山に放ろうとした半分を、スイが指さした。
「それには、まだ、ほかより多く残っている」
母が、もう一度、ぎゅっと搾った。ぽたぽた、と、まだ落ちた。
「……スイくん、搾り残しの分かると?」
「水が、まだそこにある」
次の半分も、指さされた。母が搾った。落ちた。
三つ目は、母が両手で搾った。落ちた。
母の目が、光った。
「スイくん。ふれあい市に出す前の日、空いとー?」
加工所に、もう一人連れていくつもりらしい。
スイが指す。母が搾る。ボウルの汁が、まだ増える。
私は、半分の皮を数える係になった。
母は、小さな瓶に、汁としょうゆと、お酢を少し合わせて、ふたをした。
今夜の分は、それだけだ。残りの汁は、製氷皿に流しこんだ。
「冬の分は、凍らせて取っとくと。鍋の季節になったら、ポン酢にする」
「……冬まで、取っておくのか」
「取っとかんと、もったいなかろうもん。皮は、いくつか袋に入れて、今夜のお風呂。あとは、畑に返す」
スイは、製氷皿を見た。それから、皮の山を見た。
「……行き先が、あった」
七月にシートを張った日の通り雨で、この人は「……行き先が、あるのか」と聞いた。
その答えが、今日は台所にあった。
スイは、母に向かって、深く頭を下げた。三本の木の分の礼だった。
母は、なんのことか分からない顔で、笑った。
瓶のラベルは、私の係だった。
〔八月三十一日 物干しの三本〕
ついでに、ふれあい市に出すときのラベルの下書きも描いた。真ん中に、大きなハート。
スイと二人で摘んだ実の、初めての瓶だ。
母が、下書きをのぞきこんだ。
「搾ったとは、お母さんとスイくんやけど」
「……皮を数えたとは、うちやもん」
半分の皮は、四十二あった。
「それにね、店の分は、加工所で搾るところから作ると。家の台所で搾ったとは、店には出されんけん。原材料を書く欄も、なかやん」
「ハートの欄なら、ある」
「ハートは、原材料やなか」
母の目標は、ふれあい市の棚を一段ふやすことだ。今年の秋こそ、ポン酢の段を取るらしい。
下書きのハートは、消された。
しょうゆ色の小瓶は、ラベルが乾くのを待って、冷蔵庫に入った。製氷皿は、冷凍庫に入った。
夕方までに、スイは冷蔵庫を三回開けた。三回とも、牛乳の横の小瓶に、小さく頭を下げていた。
◇
晩ごはんは、冷しゃぶだった。
食卓の真ん中に、ポン酢の小瓶が置かれた。
颯太がひと口食べて、顔じゅうをしぼませた。
「酸っ!」
それから、もうひと口食べた。
「スイさん、じいちゃんが言いよった。一段一礼て、何? 技名やん」
「技ではない。決まりだ。四つにすると強くなる、と、颯太が言った」
颯太は、満足そうにうなずいた。技名の付け方を教えただけで、農作業の相談まで長くなったんやけど。
父は、黙ってビールを飲んで、黙ってポン酢をもう少しかけた。祖父は「今年のは、よか」とだけ言った。
私も、つけて食べた。酸っぱい。その奥に、夕方の台所の、青い匂いが残っていた。
スイは、ポン酢をつけた豚肉を、しばらく眺めていた。それから、口に入れた。
「……酸い」
それから黙って、もうひと切れに、ポン酢をつけた。
二口目も食べてくれた。あの青い実で、こんな顔になるなら、来年も母の三本はスイと摘みたい。
夜、離れの縁側で、裸電球をつけて、蚊取り線香を焚いた。
月のない晩だった。斜面も、池のほうも、真っ暗だった。
スイが、手のひらくらいの野帳を、膝の上に広げた。村の水の計画の頁だ。
ダムに行った次の晩に、私が三行を書き足した頁。
上のほうの四行には、スイが自分で細い線を引いて消している。その一つが、ダムだった。
村には、ためる川がない。
スイの指が、その消した線の上で止まった。
「ダムは、川をせき止めて、水をためる」
「うん」
「まめの家の池には、川が流れこんでいない」
「沢と、雨やね」
「沢も、雨の通り道だ」
スイは、少し黙った。
「台風の晩、あの池は、日照りで出ていた岸が沈むまで上がった。次の朝、その水で、塩を洗った」
それから、台所のほうを見た。
「冬の分は、凍らせて取っておく、と言っていた」
「言いよったね」
「村の雨は、降った日に、土に吸われて、それで終わる。……取っておけば、夏に、配れる」
蚊取り線香の煙が、まっすぐ上っていった。
スイは、消した線のすぐ下に、波紋みたいな字で、一行書いた。それから、顔を上げた。
「村に、池を作りたい」
スイが村に作りたい池。その最初の線を、今夜、ここで引く。
私は、作業場から、いちばん長い定規を取ってきた。




