第21話 目隠しでもスイカの場所が分かる男
浴衣の丈は、ぴったりだった。
清子おばちゃんの「うちも小さかったけん」は、本当だった。
四十年たっても、うちの家系の女の背丈は、伸びていない。
八月二十四日、土曜日。地区の夏祭りの日だ。
盆が明けてすぐの朝、涼しいうちに、実に黒い点の出る病気の薬をかけ直した。
今日は、朝の見回りを済ませたら、あとの仕事は浴衣を着ることだけだ。
母が、私のうしろで帯を結んでいた。
「おはしょり、直さんでも、すっと出たね」
おはしょりは、浴衣の丈の余りを、腰のところで折り上げておく部分だ。
体に合った浴衣なら、帯の下に、人差し指の長さくらい、きれいに出る。
店で売っている小さめの浴衣でも、私が着ると、腰に布が団子になる。
それが今日は、一回で、すっと出た。
「うちに、あつらえたみたいやん」
「四十年前の清子おばちゃんに、あつらえた浴衣やけんね」
母は、帯をきゅっと締めた。紺地に白い朝顔。帯は、母が若いころに締めていた、薄い黄色。
鏡の前で、一回まわった。
頭の中で、少女漫画のページがめくれる。浴衣で玄関を出る。縁側の彼が、振り向く。
何か言おうとして、言葉が出ない。それが、今日の一ページ目だ。
「スイは?」
「昼から、ママに連れていかれたよ」
母が、帯の形を整えながら言った。
「興行の準備には、男前が要る、て」
一ページ目の、彼がいなかった。
「和也の甚平、着せといたけん。甚平は、丈の短かとが正しか服やけんね。作業着のほかで、ちょうどよか格好は、うちに来て初めてやね」
よそ行きの丈が合うまで、三か月半。ようやく見られるはずの姿を、母が先に見ている。
台所から、颯太が顔を出した。
「姉ちゃん。スイカ割り、スイさんが出るとやろ」
「ママが、そう言いよった」
「目隠ししても、スイさん、スイカの水は見えるやろ」
見える。たぶん、まっすぐ見える。
「見えんふりして、て頼んでも、スイさんは嘘つかんもんね」
「つかんね」
「……姉ちゃん。なんかあったら、なんか言うて」
「なんかって、何」
「……それを考えるとが、姉ちゃんの係」
十日前の説明会で議長をつとめた颯太の作戦は、今度は白紙のまま、私に回ってきた。
玄関で、下駄をはいた。家の前を、三往復した。
からん、ころん。からん、ころん。
少女漫画なら、ここで鼻緒が切れる。彼がしゃがんで、ハンカチで直してくれる。あるいは、おぶってくれる。
鼻緒は、切れなかった。母が町で買ってきた、新品の下駄だった。
新品の鼻緒は、切れるより先に、私の指の股をすりむきにきた。
母が、親指と人差し指のあいだに、絆創膏を貼った。
新品は、少女漫画に協力的ではない。
日が、海のほうへ傾いていた。
見せたい相手は、坂の下で、たぶんスイカの番をしている。
◇
公民館の前の広場には、ちょうちんが二列に下がっていた。日が沈んで、中の電球に、灯が入りはじめたところだった。
焼き鳥の煙と、綿菓子の甘いにおい。子ども会の金魚すくい。地区の人が、ほとんど全員いるように見えた。
「あら、まめちゃん! 浴衣ね!」
ハツヨさんとキミ子さんとトシエさんが、一秒で集まってきた。今日は私も、男前と同じ速さで囲まれた。
「よう似合うとる」
「小さかねえ、かわいかねえ」
「はい、飴」
飴を三つもらった。浴衣の袖の下は袋になっていて、袂という。袂は、こういうときのためにあるらしい。
焼きそばの屋台の前で、吉武と目が合った。
吉武は、私を見て、口を開けて、閉じた。
「……おう」
「おう、て何」
「おうは、おうたい」
王子は、前髪を意味もなく整えなおして、焼きそばの列に戻っていった。
言葉を失う一ページ目は、ちがう人で始まってしまった。
広場の端から、ハンドマイクの声がした。
「はーい、皆さん! 今年もやるよ、スイカ割り!」
ママだった。広場の端に、縄で大きな輪が張ってある。真ん中に青い敷物と、スイカが一つ。
輪の外には、氷水を張った大きなたらいがあって、スイカがいくつも浮いていた。
たらいの横に、甚平の背中があった。
スイは、昼からずっと、たらいの横の日陰で番をしていたらしい。
足もとに、空の水筒が三本並んでいる。
氷水を見下ろす肩が、ひどく幸せそうに丸まっていた。
「店主どのが、言っていた。冷やすと、甘い水になる」
たらいをのぞく子どもたちに、スイが教えていた。
九日前に名前を覚えたばかりなのに、子どもへの説明まで始めとー。
甚平は、本当に丈が合っていた。……少しだけ、見とれた。見とれる係は、私ではないはずだった。
あと十歩。あと五歩。浴衣の私に、彼が振り向く。言葉が出ない。今度こそ。
あと三歩のところで、ママが、スイの目の上から手ぬぐいを巻いた。
「男前は、昼からスイカの場所ば全部見とるけん。出番まで、目隠しで待っときんしゃい」
きゅっと、うしろで結ばれた。
……あと、三歩やったとに。
スイが、首を少しだけ、こちらへ向けた。
「……まめか」
歩幅のせまい下駄の音で、分かったらしい。ママがハンドマイクのほうへ戻っていくと、スイは、声を落とした。
「人の中の水は、見ない。その人の水は、その人のものだ。持っている水なら、分かる。だが、下駄の音が止まると、どれがまめかは、分からない。声を、出していてくれ」
初めて聞く決まりだった。
手ぬぐいの向こうの広場は、人のいるところだけ、コップやラムネの瓶が、ぽつぽつ浮かんでいるようなものらしい。
王子の井戸でも、石垣のそばの私の水筒で、居場所がばれた。
浴衣の私は、今日は水筒を下げていない。袂の中は、飴が三つだけだ。
「なんで、見えとらんときに、そういうこと言うと!?」
浴衣は、まだ一ページも見られていない。
最初は、子どもたちの番だった。
三回まわって、大人に横を歩いてもらいながら、棒を振る。空を切る。敷物を叩く。
見当ちがいのほうへ歩きだして、横のお母さんに、くるりと向きを戻される。
広場じゅうが笑った。
それから、王子が輪に入った。勝ちたい顔だった。
十回まわって、吉武がふらついたのは、最初の一歩だけだった。
そこから踏みこらえたのは、毎日斜面を上り下りしている足だ。
みんなの声を聞き分けて、一歩ずつ寄っていく。うまい。本当に、うまい。
「左!」
最後に、ハツヨさんの声で、左へ一歩ずれた。ハツヨさんから見た左だった。
棒は、スイカのすぐ左の、敷物を叩いた。
「惜しか!」
吉武は手ぬぐいを外して、ハツヨさんを見た。ハツヨさんは、飴をくれた。王子も、飴をもらう側に来た。
◇
「では、本日の目玉!」
ママが、ハンドマイクを高く上げた。
「男前の、目隠しスイカ割り!」
広場が、わっと沸いた。三人組が、いちばん前に出てきた。
ママは、スイの手を引いて、輪の端に立たせた。
「正式な決まりは、もっとややこしかとよ。今日は、あたしの祭りやけん、十回。あとは、みんなの声だけが頼りたい。棒の届くところには、誰も入らんごと」
スイは、棒を両手で持って、十回まわった。一回ごとに、甚平の裾がふわりと広がった。
十回目で止まって、そのまま、しばらく動かなかった。ふらつきが収まるのを、待っているらしい。
それから、迷わず歩きだした。輪の外の、氷水のたらいのほうへ。
「そっちやない!」
広場じゅうが叫んだ。たらいの前の子どもたちが、わっと下がった。
縄の手前で、ママが、うしろから甚平の背中をつかんだ。
「……こっちは、大きすぎる」
たらいには、スイカが六つ浮いている。
氷水ごと、この広場でいちばん大きな水のかたまりだ。
見えすぎる人は、大きいほうへ行ってしまうらしい。
スイは、くるりと向きを変えた。輪の真ん中に、一つだけ、ぽつんとある水のほうへ。
そして、まっすぐ歩いた。
「右!」「左!」「もうちょい前!」「行きすぎ!」
みんなの声を、全部聞き流して、まっすぐ。
……ちょっとは、ふらついて。ふらつくふりだけでも。
……せんよね、この人は。ふりも、嘘のうちやけん。
それなら、私は、頼まれた声を出すだけだ。みんなとは、ちがうことを叫んだ。
「前に、人はおらんよ! そのまま!」
一歩もぶれずに、敷物の上の、スイカのほうへ。広場が、だんだん静かになっていった。
「……やっぱ、手品やん」
スイが精霊送りで灯籠の行き先を言い当てたとき、「手品?」と聞いた男の子だった。
「おい」
吉武が、腕を組んだ。
「あれ、見えとろうが。手ぬぐい、薄かとやないとか」
「物言いの、ついたけん。いっぺん止まりんしゃい。棒は、下ろして」
ママの声で、スイが止まった。
颯太が、縄の外で、首の手ぬぐいをほどいた。祭りで配っていた、スイのと同じ手ぬぐいだ。
「手ぬぐいは、本物です!」
それを自分の目に巻いて、両手を前に出した。
「ほら、見えん! 全然見えん!」
そのまま歩いて、まっすぐ、氷水のたらいに両手から突っこんだ。
「冷たっ!」
水しぶきが上がった。体を張ってでも、と漫画の第一巻に右手をのせて誓った弟は、今夜も体を張った。肘から先まで。
手ぬぐいは、本物だと分かった。つまり、本当に見えていない人が、まっすぐ歩いていたことになる。
……悪化しとーやん。
広場の目は、まだスイに向いていた。
今だ。なんか言え。議長の白紙の作戦は、私の番だった。
「心の目で、見とーと!」
叫んでいた。
広場が、一拍、止まった。
百冊の少女漫画の中に一冊だけ出てくる、目の見えない剣士の言い方だ。
「……心の目なら、しょうがなか」
ママが、ハンドマイクで言った。誰よりも早かった。
「男前は、心の目まで男前やねえ」
トシエさんが言って、広場が、どっと笑った。信じた顔は、一つもなかった。
祭りの晩に、それ以上聞く人もいなかった。吉武だけが、まだ腕を組んでいた。
「……続けんしゃい」
ママが言って、スイがまた歩きだした。
スイは、スイカの一歩手前で止まった。
片膝をついて、指先で、そっとスイカに触れた。それから、短く頭を下げた。
「スイカに、お辞儀しよる」
誰かが言って、また笑いが起きた。
「おい、触ったら反則やろ」
吉武が言った。
「礼儀正しか男前には、点ば足しとく」
ママが、ハンドマイクで言った。審判は、ママだった。
スイは立ち上がって、棒を振り上げた。力まずに、棒の重さだけで、まっすぐ落とした。
指先で触れた、そのまんなかへ。
ぼこん、と、鈍い音がした。
ひびが、縞を横切って走った。スイカは、ぱかりと二つに分かれた。
片方が、少し大きかった。赤い中身が、ちょうちんの明かりに光った。
歓声が上がった。
ママが、手ぬぐいをほどいた。
スイは、二、三度まばたきをした。
それから、まっすぐ、さっき「そのまま」と叫んだ声のほうを見た。
スイの目が、紺の浴衣を上から下りてきて、裾の白い朝顔のところで止まった。棒を、握ったままだった。
私は、何も言えなかった。
「……深い池の、底の色だ」
「……それ、褒めとーと?」
「褒めている。泉は、いちばん深いところが、いちばん澄んでいる」
顔が、ちょうちんより赤くなった。
九日前の私に、教えてやりたい。
目隠しを外してから、ちゃんと見てほしい、という願いは、そのとおりに叶う。
言葉をなくすのが、こっちのほうだということ以外は。
◇
割ったスイカは、ママが包丁で切り分けて、みんなに配った。
私とスイは、公民館の石段に並んで座った。
スイは、スイカの一切れを両手で持って、しばらく眺めていた。それから、一口かじった。
「……甘か」
台風の朝の、祖父の言い方だった。草の葉をなめて、塩気の薄いことを、祖父はそう言った。
「それは、塩が薄いほうの甘か?」
「ちがう。……水が、甘い」
スイは、もう一口かじった。種は一つずつ、ていねいに手のひらに出していた。
八時に、どん、と、海のほうで音がした。
夏祭りの最後の花火だ。業者さんが、漁港の堤防の先から、海の上へ数十発上げる。
堤防の付け根には、消防団で消火の係をする父が、バケツを持って立っているはずだ。
スイは、空を見なかった。海を見ていた。
「下のほうが、いい」
「下?」
「水の中でも、咲いている」
暗い海に、花火の色が、縦に長くのびて揺れていた。
空で開いて、海でもう一度、ゆらゆら開く。この人は、二回目のほうを見ていた。
私は、どっちも見ていなかった。スイカの一切れを持ったまま、花火に照らされる横顔を、見ていた。
石段の上で、手を少しだけ寄せた。指一本ぶん。
どん、と、次の一発が鳴った。
手を、引っこめた。
〔その八 夏祭り(浴衣)〕は、見てもらえた。〔その五 手をつなぐ(自然に)〕は、花火の音に負けた。
花火が終わって、片づけが始まった。
ちょうちんの下で、ママが、空けかけたたらいの底から、柄杓で水をすくっていた。
残った氷の水を、電気のコードをまたいだ先の、植え込みの根もとへ、一杯ずつかけている。
最後の一杯をかけると、ママはしゃがんで、濡れた土に指先を触れた。
それから、一度だけ、頭を下げた。
短くて、小さい下げ方だった。さっき、スイがスイカにしたのと、同じ形。
……さっき点を足したお辞儀、もう真似しよー。
溝さらいの日も、男前のお辞儀をじっと見ていた。そこまで覚えとったと、ママ。
スイは、石段で、手のひらのスイカの種を数えていた。見ていなかった。
焼き鳥の屋台の前で、祖父が、缶ビールを持ったまま、ママのほうを見ていた。
それから、目をそらした。祖父も、ママの男前好きには、あきれているらしい。
ママが、ハンドマイクを肩にかついで、こっちへ来た。
「男前。スイカ割りは、あんたの勝ちたい。割ったとは、あんた一人やけん」
「勝つと、何かあるのか」
「賞品の出る」
ママは、にやりと笑った。
「来年の、準備係」
「それ、賞品と?」
「賞品たい。昼から、スイカの番のできる」
スイの目が、光った。賞品だったらしい。
ママは、団扇でゆっくりスイをあおいだ。
「来年も、来るっちゃろ?」
「……ああ」
来年の夏祭りなら、この人は、まだここにいる。
人が渡れるのは、次は二年後の春だ。池から来て三日目に、この人がそう言った。
再来年、と言いかけた口に、スイカの最後の一口を押しこんだ。
再来年、とは、誰も言わなかった。




