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異世界の水守さんと段々畑のみかん暮らし  作者: 御子柴 了一
第3章 夏の照らし合わせ
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22/34

第21話 目隠しでもスイカの場所が分かる男

 浴衣の丈は、ぴったりだった。


 清子おばちゃんの「うちも小さかったけん」は、本当だった。


 四十年たっても、うちの家系の女の背丈は、伸びていない。


 八月二十四日、土曜日。地区の夏祭りの日だ。


 盆が明けてすぐの朝、涼しいうちに、実に黒い点の出る病気の薬をかけ直した。


 今日は、朝の見回りを済ませたら、あとの仕事は浴衣を着ることだけだ。


 母が、私のうしろで帯を結んでいた。


「おはしょり、直さんでも、すっと出たね」


 おはしょりは、浴衣の丈の余りを、腰のところで折り上げておく部分だ。


 体に合った浴衣なら、帯の下に、人差し指の長さくらい、きれいに出る。


 店で売っている小さめの浴衣でも、私が着ると、腰に布が団子になる。


 それが今日は、一回で、すっと出た。


「うちに、あつらえたみたいやん」

「四十年前の清子おばちゃんに、あつらえた浴衣やけんね」


 母は、帯をきゅっと締めた。紺地に白い朝顔。帯は、母が若いころに締めていた、薄い黄色。


 鏡の前で、一回まわった。


 頭の中で、少女漫画のページがめくれる。浴衣で玄関を出る。縁側の彼が、振り向く。


 何か言おうとして、言葉が出ない。それが、今日の一ページ目だ。


「スイは?」

「昼から、ママに連れていかれたよ」


 母が、帯の形を整えながら言った。


「興行の準備には、男前が要る、て」


 一ページ目の、彼がいなかった。


「和也の甚平、着せといたけん。甚平は、丈の短かとが正しか服やけんね。作業着のほかで、ちょうどよか格好は、うちに来て初めてやね」


 よそ行きの丈が合うまで、三か月半。ようやく見られるはずの姿を、母が先に見ている。


 台所から、颯太が顔を出した。


「姉ちゃん。スイカ割り、スイさんが出るとやろ」

「ママが、そう言いよった」

「目隠ししても、スイさん、スイカの水は見えるやろ」


 見える。たぶん、まっすぐ見える。


「見えんふりして、て頼んでも、スイさんは嘘つかんもんね」

「つかんね」

「……姉ちゃん。なんかあったら、なんか言うて」

「なんかって、何」

「……それを考えるとが、姉ちゃんの係」


 十日前の説明会で議長をつとめた颯太の作戦は、今度は白紙のまま、私に回ってきた。


 玄関で、下駄をはいた。家の前を、三往復した。


 からん、ころん。からん、ころん。


 少女漫画なら、ここで鼻緒が切れる。彼がしゃがんで、ハンカチで直してくれる。あるいは、おぶってくれる。


 鼻緒は、切れなかった。母が町で買ってきた、新品の下駄だった。


 新品の鼻緒は、切れるより先に、私の指の股をすりむきにきた。


 母が、親指と人差し指のあいだに、絆創膏を貼った。


 新品は、少女漫画に協力的ではない。


 日が、海のほうへ傾いていた。


 見せたい相手は、坂の下で、たぶんスイカの番をしている。


  ◇


 公民館の前の広場には、ちょうちんが二列に下がっていた。日が沈んで、中の電球に、灯が入りはじめたところだった。


 焼き鳥の煙と、綿菓子の甘いにおい。子ども会の金魚すくい。地区の人が、ほとんど全員いるように見えた。


「あら、まめちゃん! 浴衣ね!」


 ハツヨさんとキミ子さんとトシエさんが、一秒で集まってきた。今日は私も、男前と同じ速さで囲まれた。


「よう似合うとる」

「小さかねえ、かわいかねえ」

「はい、飴」


 飴を三つもらった。浴衣の袖の下は袋になっていて、袂(たもと)という。袂は、こういうときのためにあるらしい。


 焼きそばの屋台の前で、吉武と目が合った。


 吉武は、私を見て、口を開けて、閉じた。


「……おう」

「おう、て何」

「おうは、おうたい」


 王子は、前髪を意味もなく整えなおして、焼きそばの列に戻っていった。


 言葉を失う一ページ目は、ちがう人で始まってしまった。


 広場の端から、ハンドマイクの声がした。


「はーい、皆さん! 今年もやるよ、スイカ割り!」


 ママだった。広場の端に、縄で大きな輪が張ってある。真ん中に青い敷物と、スイカが一つ。


 輪の外には、氷水を張った大きなたらいがあって、スイカがいくつも浮いていた。


 たらいの横に、甚平の背中があった。


 スイは、昼からずっと、たらいの横の日陰で番をしていたらしい。


 足もとに、空の水筒が三本並んでいる。


 氷水を見下ろす肩が、ひどく幸せそうに丸まっていた。


「店主どのが、言っていた。冷やすと、甘い水になる」


 たらいをのぞく子どもたちに、スイが教えていた。


 九日前に名前を覚えたばかりなのに、子どもへの説明まで始めとー。


 甚平は、本当に丈が合っていた。……少しだけ、見とれた。見とれる係は、私ではないはずだった。


 あと十歩。あと五歩。浴衣の私に、彼が振り向く。言葉が出ない。今度こそ。


 あと三歩のところで、ママが、スイの目の上から手ぬぐいを巻いた。


「男前は、昼からスイカの場所ば全部見とるけん。出番まで、目隠しで待っときんしゃい」


 きゅっと、うしろで結ばれた。

 ……あと、三歩やったとに。


 スイが、首を少しだけ、こちらへ向けた。


「……まめか」


 歩幅のせまい下駄の音で、分かったらしい。ママがハンドマイクのほうへ戻っていくと、スイは、声を落とした。


「人の中の水は、見ない。その人の水は、その人のものだ。持っている水なら、分かる。だが、下駄の音が止まると、どれがまめかは、分からない。声を、出していてくれ」


 初めて聞く決まりだった。


 手ぬぐいの向こうの広場は、人のいるところだけ、コップやラムネの瓶が、ぽつぽつ浮かんでいるようなものらしい。


 王子の井戸でも、石垣のそばの私の水筒で、居場所がばれた。


 浴衣の私は、今日は水筒を下げていない。袂の中は、飴が三つだけだ。


「なんで、見えとらんときに、そういうこと言うと!?」


 浴衣は、まだ一ページも見られていない。


 最初は、子どもたちの番だった。


 三回まわって、大人に横を歩いてもらいながら、棒を振る。空を切る。敷物を叩く。


 見当ちがいのほうへ歩きだして、横のお母さんに、くるりと向きを戻される。


 広場じゅうが笑った。


 それから、王子が輪に入った。勝ちたい顔だった。


 十回まわって、吉武がふらついたのは、最初の一歩だけだった。


 そこから踏みこらえたのは、毎日斜面を上り下りしている足だ。


 みんなの声を聞き分けて、一歩ずつ寄っていく。うまい。本当に、うまい。


「左!」


 最後に、ハツヨさんの声で、左へ一歩ずれた。ハツヨさんから見た左だった。


 棒は、スイカのすぐ左の、敷物を叩いた。


「惜しか!」


 吉武は手ぬぐいを外して、ハツヨさんを見た。ハツヨさんは、飴をくれた。王子も、飴をもらう側に来た。


  ◇


「では、本日の目玉!」


 ママが、ハンドマイクを高く上げた。


「男前の、目隠しスイカ割り!」


 広場が、わっと沸いた。三人組が、いちばん前に出てきた。


 ママは、スイの手を引いて、輪の端に立たせた。


「正式な決まりは、もっとややこしかとよ。今日は、あたしの祭りやけん、十回。あとは、みんなの声だけが頼りたい。棒の届くところには、誰も入らんごと」


 スイは、棒を両手で持って、十回まわった。一回ごとに、甚平の裾がふわりと広がった。


 十回目で止まって、そのまま、しばらく動かなかった。ふらつきが収まるのを、待っているらしい。


 それから、迷わず歩きだした。輪の外の、氷水のたらいのほうへ。


「そっちやない!」


 広場じゅうが叫んだ。たらいの前の子どもたちが、わっと下がった。


 縄の手前で、ママが、うしろから甚平の背中をつかんだ。


「……こっちは、大きすぎる」


 たらいには、スイカが六つ浮いている。


 氷水ごと、この広場でいちばん大きな水のかたまりだ。


 見えすぎる人は、大きいほうへ行ってしまうらしい。


 スイは、くるりと向きを変えた。輪の真ん中に、一つだけ、ぽつんとある水のほうへ。


 そして、まっすぐ歩いた。


「右!」「左!」「もうちょい前!」「行きすぎ!」


 みんなの声を、全部聞き流して、まっすぐ。


 ……ちょっとは、ふらついて。ふらつくふりだけでも。


 ……せんよね、この人は。ふりも、嘘のうちやけん。


 それなら、私は、頼まれた声を出すだけだ。みんなとは、ちがうことを叫んだ。


「前に、人はおらんよ! そのまま!」


 一歩もぶれずに、敷物の上の、スイカのほうへ。広場が、だんだん静かになっていった。


「……やっぱ、手品やん」


 スイが精霊送りで灯籠の行き先を言い当てたとき、「手品?」と聞いた男の子だった。


「おい」

 吉武が、腕を組んだ。


「あれ、見えとろうが。手ぬぐい、薄かとやないとか」

「物言いの、ついたけん。いっぺん止まりんしゃい。棒は、下ろして」


 ママの声で、スイが止まった。


 颯太が、縄の外で、首の手ぬぐいをほどいた。祭りで配っていた、スイのと同じ手ぬぐいだ。


「手ぬぐいは、本物です!」


 それを自分の目に巻いて、両手を前に出した。


「ほら、見えん! 全然見えん!」


 そのまま歩いて、まっすぐ、氷水のたらいに両手から突っこんだ。


「冷たっ!」


 水しぶきが上がった。体を張ってでも、と漫画の第一巻に右手をのせて誓った弟は、今夜も体を張った。肘から先まで。


 手ぬぐいは、本物だと分かった。つまり、本当に見えていない人が、まっすぐ歩いていたことになる。


 ……悪化しとーやん。


 広場の目は、まだスイに向いていた。


 今だ。なんか言え。議長の白紙の作戦は、私の番だった。


「心の目で、見とーと!」

 叫んでいた。

 広場が、一拍、止まった。


 百冊の少女漫画の中に一冊だけ出てくる、目の見えない剣士の言い方だ。


「……心の目なら、しょうがなか」


 ママが、ハンドマイクで言った。誰よりも早かった。


「男前は、心の目まで男前やねえ」


 トシエさんが言って、広場が、どっと笑った。信じた顔は、一つもなかった。


 祭りの晩に、それ以上聞く人もいなかった。吉武だけが、まだ腕を組んでいた。


「……続けんしゃい」


 ママが言って、スイがまた歩きだした。


 スイは、スイカの一歩手前で止まった。


 片膝をついて、指先で、そっとスイカに触れた。それから、短く頭を下げた。


「スイカに、お辞儀しよる」


 誰かが言って、また笑いが起きた。


「おい、触ったら反則やろ」

 吉武が言った。


「礼儀正しか男前には、点ば足しとく」


 ママが、ハンドマイクで言った。審判は、ママだった。


 スイは立ち上がって、棒を振り上げた。力まずに、棒の重さだけで、まっすぐ落とした。


 指先で触れた、そのまんなかへ。

 ぼこん、と、鈍い音がした。


 ひびが、縞を横切って走った。スイカは、ぱかりと二つに分かれた。


 片方が、少し大きかった。赤い中身が、ちょうちんの明かりに光った。


 歓声が上がった。


 ママが、手ぬぐいをほどいた。


 スイは、二、三度まばたきをした。


 それから、まっすぐ、さっき「そのまま」と叫んだ声のほうを見た。


 スイの目が、紺の浴衣を上から下りてきて、裾の白い朝顔のところで止まった。棒を、握ったままだった。


 私は、何も言えなかった。


「……深い池の、底の色だ」

「……それ、褒めとーと?」

「褒めている。泉は、いちばん深いところが、いちばん澄んでいる」


 顔が、ちょうちんより赤くなった。


 九日前の私に、教えてやりたい。


 目隠しを外してから、ちゃんと見てほしい、という願いは、そのとおりに叶う。


 言葉をなくすのが、こっちのほうだということ以外は。


  ◇


 割ったスイカは、ママが包丁で切り分けて、みんなに配った。


 私とスイは、公民館の石段に並んで座った。


 スイは、スイカの一切れを両手で持って、しばらく眺めていた。それから、一口かじった。


「……甘か」


 台風の朝の、祖父の言い方だった。草の葉をなめて、塩気の薄いことを、祖父はそう言った。


「それは、塩が薄いほうの甘か?」

「ちがう。……水が、甘い」


 スイは、もう一口かじった。種は一つずつ、ていねいに手のひらに出していた。


 八時に、どん、と、海のほうで音がした。


 夏祭りの最後の花火だ。業者さんが、漁港の堤防の先から、海の上へ数十発上げる。


 堤防の付け根には、消防団で消火の係をする父が、バケツを持って立っているはずだ。


 スイは、空を見なかった。海を見ていた。


「下のほうが、いい」

「下?」

「水の中でも、咲いている」


 暗い海に、花火の色が、縦に長くのびて揺れていた。


 空で開いて、海でもう一度、ゆらゆら開く。この人は、二回目のほうを見ていた。


 私は、どっちも見ていなかった。スイカの一切れを持ったまま、花火に照らされる横顔を、見ていた。


 石段の上で、手を少しだけ寄せた。指一本ぶん。


 どん、と、次の一発が鳴った。

 手を、引っこめた。


 〔その八 夏祭り(浴衣)〕は、見てもらえた。〔その五 手をつなぐ(自然に)〕は、花火の音に負けた。


 花火が終わって、片づけが始まった。


 ちょうちんの下で、ママが、空けかけたたらいの底から、柄杓で水をすくっていた。


 残った氷の水を、電気のコードをまたいだ先の、植え込みの根もとへ、一杯ずつかけている。


 最後の一杯をかけると、ママはしゃがんで、濡れた土に指先を触れた。


 それから、一度だけ、頭を下げた。


 短くて、小さい下げ方だった。さっき、スイがスイカにしたのと、同じ形。


 ……さっき点を足したお辞儀、もう真似しよー。


 溝さらいの日も、男前のお辞儀をじっと見ていた。そこまで覚えとったと、ママ。


 スイは、石段で、手のひらのスイカの種を数えていた。見ていなかった。


 焼き鳥の屋台の前で、祖父が、缶ビールを持ったまま、ママのほうを見ていた。


 それから、目をそらした。祖父も、ママの男前好きには、あきれているらしい。


 ママが、ハンドマイクを肩にかついで、こっちへ来た。


「男前。スイカ割りは、あんたの勝ちたい。割ったとは、あんた一人やけん」

「勝つと、何かあるのか」

「賞品の出る」

 ママは、にやりと笑った。


「来年の、準備係」

「それ、賞品と?」

「賞品たい。昼から、スイカの番のできる」


 スイの目が、光った。賞品だったらしい。


 ママは、団扇でゆっくりスイをあおいだ。


「来年も、来るっちゃろ?」

「……ああ」


 来年の夏祭りなら、この人は、まだここにいる。


 人が渡れるのは、次は二年後の春だ。池から来て三日目に、この人がそう言った。


 再来年、と言いかけた口に、スイカの最後の一口を押しこんだ。


 再来年、とは、誰も言わなかった。

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