第19話 魔法では台風に勝てない
台風の来る日、うちの家族は、誰も空を見上げない。
みんな、足もとを見ている。
空を見上げているのは、スイだけだった。
八月十二日、月曜日。振替休日で、父も颯太も家にいた。
テレビの渦は、九州の西の海を、北へ上がってきていた。
玄界灘の向こうを通って、日本海へ抜けるらしい。いちばん近づくのは、今夜だ。
「雨が、来る」
朝ごはんのあとも、スイは縁側から空を見ていた。梅雨明けから、二十四日。この人は、ずっと雨を待っている。
祖父は、もう長靴をはいていた。
台風の備えは、毎年だいたい同じだ。同じだから、家族の誰も、何をするかを聞かない。
父と颯太は、作業場の裏から竹を運んだ。土曜の朝、テレビの渦を見るなり、祖父が出してきた竹だ。
「じいちゃん、竹、何本ためとーと!?」
「使う日の来たやろうが」
実のついた太い枝を選んで、その下に竹の先を当て、ひもで結んで、斜めに地面へ差しこむ。
竹が当たるところには、古い布を巻く。
風に揺すられても、枝が根元から裂けないように、下から支える棒だ。
今年は裏年で実が少ないから、当てる枝も少なくてすんだ。
母と私は、下の六段のシートを見て回った。ピンを足して、石を足す。
めくれそうな端は、まとめてひもで縛る。シートは、風が下に入ると、凧になる。
いちばん長い列は、父の列だ。シートを張った日に、父がてるてる坊主になった列。
毎年、どこか一か所ずれる。今年は、私が押さえを二重にした。
スイは、祖父について溝を回った。
段の山側の溝と、分かれへ下りる用水路の、落ち葉と泥を上げる。
六月の溝さらいでさらった右の溝は、まだきれいだった。
それから、池。
池のいちばん低い縁には、余水吐がある。
池の水が決まった高さを超えたら、そこからあふれて、下の溝へ逃げる口だ。
ここが詰まると、池は、余水吐ではない縁からあふれる。
雨の来る前に、祖父とスイの二人で、そこにたまった枝と草を、熊手でかき出した。
「満水やったら、先に水ば抜いとくところたい」
祖父が言うと、スイが固まった。
……水守の前で、言う言葉やない。
「今年は、日照りが先に抜いてくれとる」
スイは、池の岸の、水の引いた帯を見下ろした。ダムの湖の岸にもあった、あの帯だ。何か言いかけて、やめた。
スイは、ポンプ小屋の前の棚から、口の広いコップを小屋の中へしまった。わせの戸口も、避難させるらしい。
最後に、祖父は、洗っておいたタンクをモノレールの荷物台車に載せて、ポンプ小屋の前まで上げた。
人は、歩いて上がる。小屋の蛇口で、池の水をためた。
「吹き返しの風が、海の塩ば運んでくる」
「塩を、洗うのか」
「葉に塩のついたら、早う洗わんと、葉の焼ける。電気の止まったら、ポンプの止まるけん、先にためとく」
祖父の話は、それで終わりだった。
「吹き返し、とは」
スイが私を見たので、指で輪を描いて見せた。
「台風は、こう、左回りに回りよー。近づくときは、南のほうから風が来る。山のほうからやけん、塩は少ない。通り過ぎたら、風の向きが変わって、北西から吹き返す。北西は、玄界灘。うちの斜面は、その海を向いとー」
海が見えるのは、いいことばかりではない。
昼すぎ、作業場の前で、スイが自分の手のひらを見ていた。
「私にも、何か、できないか。手のひらの水で」
スイは、そこで黙った。言いかけたことの大きさを、自分で量ったらしい。
「スイ。台風の晩は、家の中から、池と溝の水ば見とけ。外には、出るな」
祖父が言った。
「見るだけか」
「見るとが、いちばん難しか」
颯太が、スマホを掲げた。
「スイさんが中から見るなら、相棒の俺は、外から撮る!」
「出るな!」
家族全員の声が、そろった。
台風の来る日にそろうのは、家族の声と、足もとだけだった。
◇
十時前に、雨が来た。
雨戸が、外から叩かれるように鳴った。屋根の上を、何かが走っていく音がする。
十時を過ぎて、電気が消えた。
父が、懐中電灯を一本ずつ配って、ランタンを机の真ん中に置いた。
母は、ろうそくを一本だけ皿に立てて、その前から動かなかった。火の番は、母の仕事だ。
家族五人とスイの六人が、居間にそろった。
スイは、雨戸のほうを向いて座っていた。母が、スイの前に、水のコップと麦茶を一つずつ置いた。
私は、懐中電灯を持って、スイの隣に移った。
「うちのほうが、電池が新しいけん」
理屈は、それで足りた。
「池が、上がりはじめた」
誰も聞いていないのに、スイが言った。いや、全員が聞いていた。
しばらくして、スイは水のコップを取って、中身を手のひらに少しだけ受けた。目を閉じて、短く頭を下げる。
ランタンの明かりの中で、手のひらの水が、細くのびた。
方位磁針の針のように、ゆっくりと、園のほうを向いた。
笹舟の勝負の朝、右の溝の漏れを探したときと、同じ形だった。
「……ただいま、スイさんの手のひらの水が、園を指しております」
颯太が、スマホを伏せたまま、小声で実況した。撮らないのは、相棒の仕事らしい。
「右の溝は、流れている。途中で、どこへも行っていない」
六月に、王子と石垣の穴を直した溝だ。
「余水吐まで、指五本。……四本」
居間が、静かになった。
水の針が、少し向きを変えた。スイの声が、硬くなった。
「下から二段目の、東の端。溝が用水路へ落ちる口に、何かが、たまりかけている。水が、横に逃げようとしている」
スイが、立ち上がりかけた。
「出るな」
祖父の声は、低かった。
「溝の口は、朝でも直せる。人は、朝には直せん」
スイは、しばらく立ったままでいた。それから、手のひらの水をコップに戻して、座った。
座ってから、雨戸のほうへ、短く頭を下げた。
「……来てくれた分の、礼だ」
梅雨明けの昼に、雲のない空へ礼をしてから、二十四日。この人が待っていた雨は、雨戸の向こうで、横に飛んでいた。
懐中電灯の明かりの中で、スイが、自分の手のひらを見ていた。
「止められるのは、手のひら一杯ぶんだけだ。この雨は、空ぜんぶだ」
ダムの湖を、二リットルのペットボトルで数えた日を思い出した。六十六億本。
今夜の空は、たぶん、それよりもっと多い。
「止めんでいい」
私は言った。
「……ここにおって」
スイが、こっちを向いた。
「……いる」
ろうそくの火が、一度揺れた。私は、皿をそっとスイのほうへ寄せた。母が、黙って元の場所へ戻した。
停電の夜に、並んで座っている。少女漫画なら、ここで何かが起きる。
祖父と父と母と颯太も、同じ明かりの中に座っていた。何も起きなかった。
夜中の一時ごろ、雨の音が、急に止んだ。
さっきまで裏の雨戸が鳴っていたのに、今度は、海側の雨戸が鳴りだした。
「雨は、もう来ない。……海から、細かい水が、風に乗ってくる」
「雨の降りよーうちに吹き返したら、雨が洗ってくれるとに」
私が言うと、居眠りしていると思っていた祖父が、目を開けた。
「吹き返しの来た。塩の来るぞ」
この人がずっと待っていた雨は、三時間ほどで通り過ぎた。今度は、うちの家族のほうが、雨を惜しんでいた。
雨が止んでしばらくして、スイが言った。
「池が、指三本で止まった。余水吐までは、来ない。日照りで出ていた岸の帯が、水の下になった」
「日照りが、先に抜いとったけんな」
祖父が、小さくうなずいた。
スイは、三杯目の麦茶を飲み干して、柱にもたれた。遠くの水を何度も聞いた顔だった。
それからは、朝まで、一度も立たなかった。
◇
夜明け前に、風が落ちた。
五時過ぎ、祖父が雨戸を少し開けて、外の木を見た。枝は、もう揺れていなかった。
「よか。出るぞ。三人でな」
祖父とスイと私で、懐中電灯を持って外へ出た。父の会社は、今日からお盆休みだ。
父と颯太は、家のまわりと作業場の屋根を見に回った。屋根には、上らない約束だ。
スイが、海のほうへ顔を向けた。
「海から飛んでくる細かい水が、止まった」
夜中にスイが言った場所へ、まず行った。
下から二段目の東の端、溝が用水路へ落ちる口に、葉と小枝が、ぎっしり詰まっていた。
口のまわりの土が、少しえぐれていた。
用水路の縁から足を出さないようにして、熊手で掻き出すと、溝の水が、ごぼりと鳴って流れはじめた。
「これくらいなら、直せる」
祖父が言った。直すのは、溝の口だけですんだ。
それから、下の六段を順に見た。
支柱を当てた枝の何本かは、竹に巻いた布がずれて、ひもが枝に食いこんでいた。
それでも、どれも裂けていなかった。布を巻き直して、ひもを結び直した。
シートは、一か所だけめくれていた。いちばん長い列の、真ん中あたり。押さえを二重にしたはずの列だ。
……父の列やん。
めくれたところの下の土だけ、色が濃く濡れていた。ピンを打ち直して、石をのせた。
シートの上には、青い実が、いくつか転がっていた。
私が拾うたびに、スイがそれを受け取って袋に入れ、短く頭を下げた。九回。
腐ると病気や虫の元になるから、園の外へ持ち出して、埋める。
池の柵の中には、入らなかった。柵の外から見ると、日照りで出ていた岸の土の帯は、本当に、水の下になっていた。
池から下りる途中で、あの枝を見た。四十一の花から七つだけ残った、力丸さんの調査の枝。
二人で数えた。一つ。二つ。……七つ。
スイが、息を吐いた。私も吐いた。
祖父が、園の縁の草の葉を一枚ちぎって、なめた。すぐに、ぺっと吐いて、水筒の水で口をすすいだ。
「……甘か」
「みかんが?」
「塩たい。甘かうちは、まだ薄か」
このへんでは、塩気の薄いことを、甘いと言う。しょっぱいのは、からい。
祖父は、海に向いたいちばん下の段の端まで下りて、もう一枚、草の葉をなめた。今度は、顔をしかめた。
「からか。ここは、洗わんといかん」
「スイには、分かる?」
スイは、首を横に振った。
「乾いた塩は、もう水ではない。私には、見えない」
祖父の舌に分かって、水守の目に見えないものがあった。
「全部は洗えん。海に向いたほうから。下の段から。風の強う当たった端から」
祖父が、順番を決めた。塩がついてから早く洗うほど、葉は焼けにくい。
日が高くなる前に、間に合うところだけでも洗う。
父が、作業場の前で、中古の噴霧器に先に清水を通して、タンクの口からホースの先まで洗った。
洗った水は、裏の草地へ流した。溝にも、池にも、流さない。
スイは、それを最後まで見ていた。
それから、モノレールの荷物台車で、ポンプ小屋の前のタンクの横まで上げた。
人は、歩いて上がる。
ホースを、下の段まで延ばした。段から段へホースを送るのは、颯太の役だ。
上でエンジンを見る父とは、スマホで声をつなぐ。
七時過ぎに、電気が戻った。
祖父がポンプ小屋のこし器から葉を捨ててから、蛇口をひねって、池の水をタンクに足した。
水は、少し濁っていた。
「ゆうべの台風の雨たい」
日照りの帯を沈めたぶんの水だ。台風が置いていった雨で、台風が運んできた塩を洗う。
スイの目が、タンクからホースをたどって、海側の葉に向いた。今日の雨の行き先は、二人とも知っている。
ホースの先は、私が持った。エンジンは、父が見る。
海に向いた葉に、霧ではなく、たっぷりの水を当てる。表から。裏まで。
スイは、私の横を歩いた。
「そこの、裏。水が、来ていない」
梅雨入りの日、防除の霧のかかり残しを当てたときと、同じ目だった。
乾いた塩は見えなくても、葉の上の水なら見える。水の来ていない葉は、洗い残しの葉だ。
日が、斜面の上から回ってくる。八時。九時。シャツが、背中に張りつく。
「上の、三本目の枝の奥」
「次」
「そこ、もう一回」
スイの声が、だんだん短くなっていく。水筒を渡すと、一口だけ飲んで、また葉を指した。
……間に合え。
洗った水は、シートの上を滑って、山側の溝へ流れていった。シートの下には、ほとんど入らない。
十時を過ぎたところで、祖父が手を上げた。
下の六段の海側と、上のほうの段の、海に向いた端。洗えたのは、そこまでだった。
「間に合うところは、洗うた」
全部ではない。でも、間に合うところは、全部だった。
◇
昼、縁側で、冷えた麦茶を飲んだ。
「塩をかぶった葉は、すぐには変わらん。焼けたかどうかは、何日かたたんと分からん」
祖父が言った。
スイは、麦茶を持ったまま、園を見ていた。
「茂どの。ゆうべ、私は、何もしなかった」
「池と溝ば、見とった」
「見ていただけだ」
「見とったけん、朝いちばんに、東の口の詰まりば上げられた」
祖父は、麦茶を飲み干した。
「守ったとは、魔法やなか。支柱と、押さえと、さらっとった溝たい」
スイは、しばらく黙っていた。それから、野帳を開いて、村の水の計画の頁に、向こうの字で一行足した。
「何て書いたと?」
「溝を、さらっておく」
スイは、野帳を閉じた。
「魔法では、台風に勝てない。溝さらいのほうが、強い」
泥まで撫でたあとで、まだ溝さらいの評価が上がるのか。
台所から、母の声がした。
「今日から、お盆やけんね。明日、親戚のみんな来るよ」
颯太が、麦茶を吹いた。
「……スイさんの設定、親戚の前で、どうすると」
颯太が三晩かけて作った、四十ページの身元資料。
五月の直売所で、三人組が途中から聞かなかった資料だ。遠い親戚筋の人で、外国育ち。
うちの家系図を、いちばんよく知っとー人たちが、明日、来る。




