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異世界の水守さんと段々畑のみかん暮らし  作者: 御子柴 了一
第3章 夏の照らし合わせ
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19/30

第18話 村長に反対されました

 ボトルに残った池の水を、スイは、コップで十一杯に分けた。


 十杯を池に返して、一杯ごとに、短く頭を下げた。


 ダムまで行って帰ってきた水なので、たぶん、話すことが多かった。


 八月八日、木曜日。朝の五時半。


「ダムの話を、した」

「池に?」

「池は、黙って聞いていた」

 池は、だいたい黙っている。


 十一杯目は、返さずに、ポンプ小屋の前の棚に置いた。口の広いコップに、半分ほど。


「わせの戸口だ。毎晩、入れ替える」


 わせの戸口に、ボウフラの入居は認めないらしい。


 それから、二人で下の六段を回った。


 蝉が、もう鳴いていた。まだ日の当たらないシートが、薄明るい中で白く浮いている。日が当たる前から、もう暑い。


 夜明けなのに、巻いたままの葉があった。五段目の西の端の木だけではない。


 四段目の真ん中の木も、その隣も、日の当たる側の葉が、浅い舟の形のまま朝を迎えていた。


 実の太り方も、三日分で見て、目安に届かない。


 水分計の針は、二本とも右の端に寄ったまま、動かなくなっていた。


 乾きすぎると、そこから先は動かない。力丸さんが言っていたとおりだ。


 決め手は、実と葉だった。


 スイが、シートのきわにしゃがんで、耳を寄せた。


「根のまわりの土から、水が、ほとんど引いた」


 梅雨明けの日、私が「ポンプ回そう」と言って、この人が「待て」と言った。


 今朝は、この人が先に、土のことを言った。


 朝まで巻いとったら、そのときは水たい。あの日の祖父の言葉が、頭の中で鳴った。


 上の段から下りてきた祖父が、巻いた葉と、私の野帳の数字を見た。


「朝まで巻く木の増えたら、シートの段は、しばらく少しずつ毎日たい」

「しばらく?」

「どっと入れて、また干からびるより、少しずつ続けたほうが、木の具合の揺れん。止めどきは、葉と実ば見て、また決める」


 私は段ごとのコックを開けた。五段目は、祖父がつけた西の端の継ぎ手のコックも開けた。


 それから、ポンプ小屋まで上がって、スイッチを入れた。


 戻って、シートのきわを少しめくると、黒い管の小さな穴から、水が一滴、また一滴、落ちていた。


 差し出した私の指先にも、一滴落ちた。めくったきわは、元に戻した。


 六段ぜんぶに水を入れるのは、梅雨明けから初めてだった。


「土が、急がずに飲んでいる。一度にたくさん来ると、土は飲みきれずに、根より下へ逃がす。少しなら、根のまわりで、ゆっくり飲む」


 しばらくして、スイが言った。


「……根のあるところまで、届いた」


 足りたかどうかは、明日の朝の葉っぱが言う。


 祖父と決めた時間が来たのも、同じころだった。私はポンプを止めて、コックを戻した。


 それで、思い出した。


 ミロの手紙だ。豆の一列だけ、水を倍にしてみました。巻きました。


 土の下は、湿っている。それでも、倍にしても巻く。


「……水の量のせいだけやないかもしれん」


 スイが、シートから顔を上げた。


「スイ。ミロへの返事、書けるかもしれん」


  ◇


 夜、離れの縁側に、蚊取り線香を置いた。


 裸電球の下で、スイが野帳を開いた。膝の上に低く持ってくれたので、私は身を乗り出して、のぞきこんだ。


 波紋みたいな向こうの字が、いちばん詰まっている頁だった。


「これは、村の水の計画だ。この地で見たもので、村に持って帰れそうなものを、書いてきた」


 持って帰る、という言葉が、少しだけ引っかかった。引っかかったところは、見ないことにした。


 頁の上の四行には、もう細い線が引いてあった。


「これは、消した」

 スイが、一行ずつ指でたどった。


「蛇口に、水の出すぎない部品をつける。村には、蛇口がない」


 家ごとに蛇口があると書いただけで、ミロの返事は「うそだと思います」だった。


 部品だけ送っても、取り付ける先がない。


「遠くの大きな川から、長い管で水を引く。川は、遠くにも、ない。山を越えても、ない」

「ダム」

「ためる川が、ない」

「海の水を、真水にする。海が、ない。……見に行くのは、別だ」


 三つ目の約束は、消えていないらしい。


 六月に颯太が宿題で調べてきた、福岡の工夫だ。


 福岡が大きな日照りのあとで覚えたことは、四つとも、この人の村には持って帰れなかった。


「……全滅やん」


 作業着を買いに行った日の帰り道、うちの恋愛計画表も、全滅した。全滅には、慣れている。


「だから、まめに頼んだ」

 スイが言った。


「福岡の工夫は、福岡の水のためのものだ。残るのは、これだけだ」


 頁のいちばん下の、短い一行。


「一杯の水を、三度。茂どの」


 顔を洗った水で足を洗って、その水を、最後にみかんにやる。


 四十六年前の日照りの夏に、二十九だった祖父がやったことだ。


 この人は、あの日、正座して「……見事だ」と言った。


「うちのは、シートと管があるけん、少しずつで足りる。でも、村の畑で、どう足すかは」

「それは、ミロが考える」


 スイは、そこだけは迷わなかった。


「足すかどうかなら、言えるかもしれん。豆の葉、夕方に、もう一回見てって」

「夕方の、いつだ」

「日が傾いて、涼しくなったころ。それから、次の朝。……あ、でも、豆は夜、葉を閉じて寝るけん。朝は、日が当たって葉が開いてから」

「村の豆も、夜は葉を閉じる。……眠る、と言うのか」

「言うと」


 スイが、少しだけ嬉しそうな顔をした。豆が眠る、という言い方が、気に入ったらしい。


「夕方にほどけて、朝に開くなら、足さん。それを、毎日見る。毎日なのは、水やなくて、目」

「目」

「それから、一列だけ変えて、ほかと比べる。……これは、ミロ、もうやっとーね」


 力丸さんなら、たぶん言う。場所の差か、豆の差か、まだ分かりません。


「根が弱ったせいかどうかは、まだ分からん。比べたら、分かるかもしれん」


 スイは、黙って聞いていた。それから、鉛筆を私に差し出した。


「まめの字で、ここに書いてくれ」

 祖父の一行の、すぐ下だった。


 少女漫画なら、相手のノートの端に書くのは、相合傘の落書きである。


 うちが書いたのは、豆の寝かたと、見る時間だった。


 祖父ゆずりの角ばった字で、三行。数字でも名前でもない言葉が、この人の村の計画に、初めて入った。


 それから、スイは、野帳の後ろの頁を一枚破って、返事を書きはじめた。


 祖父の一行を、スイが先に書いた。


 そのあと、私が自分の三行を読みあげて、スイが、それを向こうの字にする。


 読むのは私で、書くのはスイだった。


 途中で、スイの鉛筆が、一か所だけ、ゆっくりになった。


「何て書いたと?」

「まめが、言った」


 うちの名前が、向こうの村に行く。


 少女漫画なら、これは、向こうの家族へのご挨拶である。


  ◇


 九時を過ぎたころ、スイが、縁側で顔を上げた。


「池の横の、コップの水が、揺れている」


 交渉は、準備で決まる。私は台所の棚から、最後の缶詰を一つ持って、懐中電灯をつけた。


 夜間料金の夜を、私は忘れていない。


 二人でポンプ小屋まで上がると、口の広いコップの縁に、わせが前足をかけて待っていた。


 スイが返事を差し出す前に、私は言った。


「急ぎで、お願いしたいと」


 ミロは、豆の葉を毎日見ている。返事は、早いほうがいい。


 スイが向こうの言葉で伝えると、わせは、爪を五本立てた。


「急ぎは、五つ、と言っている」

「五つ!?」


 いつもなら、二つだ。三つぶんの割増である。


 缶詰一つで、二つ分。準備は、急ぎの分までは、していなかった。


「……秋の、初物で払う」

「初物、とは」

「その年に、最初に採る分。うちの園の、今年の最初の収穫」


 スイが伝えると、わせは、しばらく髭を動かしてから、爪を立てたままうなずいた。


「初物は、一つで三つ分だ、と言っている。急ぎの五つは、往復込みだそうだ」

「……うちのみかん、高う見てもらっとーね」

「まめ。秋のみかんは、私も、約束されている」


 うちに来た次の日、剥き方審査のあとで、私が言った約束だ。


「初物は、一個だけやないけん、大丈夫!」


 言いながら、決めた。いちばん最初の一個は、もう行き先が決まっとー。わせのは、二個目からである。


 わせは、濡れた前足を、私の野帳の裏表紙に、ぺたりと押した。


「何しよーと!?」

「証文だ、と言っている」


 物差しの目盛りの横で、ふやけた紙に、小さな足の形が残った。


 わせは、缶詰と返事を袋に押しこんで、コップの水面へ消えた。


 秋の初物は、まだ木の上で青い。それを一つ、もう売ってしまった。


  ◇


 次の日の、日が暮れてから、スイが縁側で顔を上げた。


「コップが、変だ」


 懐中電灯を持って二人で上がると、口の広いコップから、わせが出てきた。


 ひどい顔をしていた。急ぎ便は、運ぶほうも急ぐらしい。


 わせは、私の野帳の足あとを、確かめるように一度だけ見た。


 油紙の袋から出てきたのは、ミロの五通目だった。スイが開いて、声に出して読んだ。


   師匠へ。

   返事が早くて驚きました。わせが、ひどい顔で来ました。

   村長に反対されました。体を洗った水を、食べる豆にやるのは、豆に失礼だそうです。

   私の案なら通りそうです。足の水は、やめます。村長が顔を洗った水を、村長の豆の根元にだけ返します。村長の顔の水なら、村長は文句を言えません。

   豆の葉は、夕方にほどけます。朝、日が当たるころには、開いています。だから、足しません。倍にした一列は、まだ巻きます。

   豆が夜に寝るのは、村の子どもでも知っています。

   師匠の手紙に、豆が言った、と書いてありました。豆は、話しません。誰ですか。

   師匠も、豆と話しすぎないでください。

   ミロ


「……いちばん言うやろ! 村長の顔の水やったら、村長が、いちばん言うやろ!」

「村長の言うことにも、筋はある。体を洗った水を、食べる豆にかけないのは、村の作法だ。……分かっていて、書いた。日照りの年は、作法より水だと思った」


 スイは、まず村長の側に立った。それから、手紙に向かって言った。


「……あいつは、村長の顔で試す気だ」


 声が、いつもと違った。


「おまえは、昔から、そういうところがある。人の水で、自分の案を通す。倍の水も、もったいない。分かっているはずだ」


 この人が誰かを「おまえ」と呼ぶのを、初めて聞いた。


 王子と張り合うときより、もう一段、遠慮がなかった。兄弟げんかの声だった。


 少女漫画で「おまえ」と呼ばれるのは、だいたい、ヒロインの特権である。それを、向こうの弟子が持っていた。


 ……でも、うちは「まめ」のほうがいい。たぶん。


 私の顔に気づいて、スイは、いつもの声に戻った。


「……ミロには、こう話す」

「スイ。ミロって、いくつ?」

「十五くらいだ」

「颯太と、同じくらいやん」


 颯太宛てなら、うちもこういう声になる。たぶん、向こうでも言い合っていたのだ。


「それと、豆が言ったって、何?」

「まめは、村の言葉で、豆と書いた」


 梅雨入りの朝の、あの言葉を思い出した。小さいが、強い。……いい名だ。


 あの朝の言葉を、この人は、手紙にまで持っていった。耳が、熱くなった。


「……うち、向こうでは、しゃべる豆になっとーと?」

「次の返事で、書く。豆は、豆ではなく、まめだと」

「それ、ミロ、もっと分からんくなるよ」


 夕方にほどけて、朝に開くなら、足さない。


 二人で書いた返事のおかげで、向こうの水が、一杯ぶん、粗末にならずにすんだ。


 しゃべる豆の言ったことでも。


 次の朝、台所のテレビが、南の海で台風が発生したと言っていた。


 祖父が、箸を止めて、画面の渦を見た。


「来週あたり、こっちに向くかもしれん。支柱ば、出しとかんといかん。シートの押さえも、足さんと」

「支柱、とは」

「風で枝が裂けんように、太い枝を下から支える棒」


 スイは、テレビの中の、渦の形の雲を見ていた。


「……雨が、来るのか」


 梅雨入りの日と、同じ声だった。来てから初めての雨を待っていた、あの日の弾んだ声。


 祖父は答えずに、箸を置いて、立ち上がった。支柱を出しに行くのだ。祖父の天気は、外れたことがない。


 私は「来るよ」と言えなかった。力丸さんの枝の、七つの実を思い浮かべていた。


 あの日の雨は、礼をして迎えるだけでよかった。台風は、たぶん、そうはいかない。

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