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第17話 ダムに礼をする男

 八月七日、水曜日。研修の朝である。

 研修なので、ワンピースを着た。

 理屈は、自分でもよく分からない。


 朝の六時には、作業着で、いつもどおりスイと下の六段を回った。ノギスで十の実を挟んで、二本の水分計の針を読んで、葉を見る。数字は、私の野帳とスイの野帳の両方に、私の字で書いた。七月の終わりの日曜に、祖父が五段目の西の端の木の先に継ぎ手をつけてくれたので、今は西の端の木だけに水を入れられる。

 残るのは、祖父に頼んだ昼の葉だけだ。

 見回りのあと、スイは一人でポンプ小屋まで上がって、小屋の蛇口で、ペットボトルに池の水を一本詰めてきた。何に使うのかは、言わなかった。


 家に戻って、ワンピースに着替えた。

 台所に行くと、スイが待っていた。スイは私を見て、少し首をかしげた。

「その服は、作業着を買いに行った日と、歌った日の服だ」

「数えんでいい!」

 三回目だった。少女漫画なら、勝負服というやつである。勝負の相手が、ダムなだけで。

 母が、弁当の包みを二つ、黙って机に置いた。今朝の母も、言いたいことが多いらしい。


 祖父が、作業着の胸ポケットから、白い封筒を出した。

 〔研修費〕と書いてあった。祖父の字だ。

「研修には、研修費たい」

 作業着を買いに行った朝は、〔設備投資〕だった。祖父の封筒は、行き先ごとに名前が変わる。

「じいちゃん、昼の葉っぱ、お願いね」

 私は、作業着のポケットから出してきた野帳を、祖父に預けた。

「木陰から見るだけたい。はよ行け」


 軽トラの助手席で、スイは、池の水のペットボトルを、膝の上に両手で立てた。

「なんそれ」

「酔わないための、工夫だ。水を見ていれば、私は酔わない」

 スイは、ボトルの水面を見下ろした。

「それに、これで分かる。この水が揺れたら、揺らしたのが、地面か、まめか」

 作業着を買いに行った日の帰り、私は「揺らしとらんよ」と言った。あの決着を、この人は、まだつけていなかった。

 試験やん。

 助手席に、水の試験官が乗っていた。

 私は、いつもより一つ深く息を吸って、ブレーキから足を離した。


  ◇


 海沿いの家から、山を一つ越える。

 坂は長く、カーブが続いた。私は、カーブの手前でブレーキを踏み、カーブの中では踏まない。踏む場所は、いつも同じだ。井戸の日、この人が石垣の向こうで王子にそう言うのを聞いてから、前より気にするようになった。

 膝の上のボトルの水面は、ほとんど動かなかった。

「まだ、揺れていない」

「まだ、って言わんで」


 峠を越えて下りにかかったところで、対向車が来た。大きなトラックだった。

 私は左に寄せて、いつもより一つ早く、ブレーキを踏んだ。

 ボトルの水が、とぷん、と一度だけ揺れた。

 スイの顔から、すうっと色が抜けた。

 ……試験、不合格。

 坂を下りきったところで、田んぼの脇の広いところに軽トラを止めた。山に囲まれた盆地に、青い田んぼが広がっていて、脇の水路を、水が流れている。

 スイは窓を開けて、水路を見た。しばらく、黙って見ていた。

「……この水は、まっすぐ流れている」

 スイの顔に、色が戻ってきた。

「酔ったときは、まっすぐな水を見るのがいい」

「それ、今、決めたやろ」

 ボトルの水は、一滴もこぼれていなかった。減ったのは、スイの顔色だけだった。


 そこから先は、川沿いの道だった。

 谷の底を、川が流れている。岩のあいだで白く泡立って、また深い緑に戻る。夏休みの子どもたちが、浅いところで水をかけ合っていた。スイはずっと川を見ていて、顔色は、もう変わらなかった。

 ハンドルを握りながら、私は、ゆうべ計画表に書き足した一行を思い出していた。〔その四 二人の写真〕の横に、小さく。


〔ダムで、もう一回〕


 作業着を買いに行った日、その四は、噴水を見ているスイの横顔と、私の指しか写らなかった。今日は、ダムがある。ダムの前なら、誰でも記念の写真を撮る。研修の記録として。


  ◇


 ダムは、谷の上に、突然あった。

 灰色のコンクリートの壁が、谷をまっすぐふさいでいる。見上げると、壁のてっぺんの線が、空を横に切っていた。

 坂をもう一つ上がると、壁の向こうに、湖があった。山と山のあいだに、濃い緑の水が、静かにたまっている。岸のまわりには、木の生えていない帯が、ぐるりと続いていた。土と石の色の帯だ。そこまで水があったことがある、という跡だった。

 管理出張所の前の、湖を見下ろす柵のところで、スイが足を止めた。

「……水が、壁に寄りかかって、立っている」

 それが、ダムを見たこの人の、最初の言葉だった。

「底のほうまで、光っている。でも、岸のほうは、光が引いている。入ってくる水が、細い。入る水より、出ていく水のほうが多い」

 スイは、柵の前で片膝をついた。

 顔のいい男の片膝は、少女漫画なら、ヒロインの前でつくものである。この人は、ダムの前でついた。

 両手のひらを、湖のほうへ向ける。それから、向こうの言葉で、長く唱えはじめた。梅雨入りの日に、段々畑で雨にした礼と、同じ形だった。手のひらに水は浮かない。湖の水にも、触れない。

 三度、頭を下げた。

 一度目で、少し先の岸で竿を出していた釣りのおじさんが、こっちを見た。

 二度目で、道の脇に停まったバイクの人が、ヘルメットを脱いだ。

 三度目で、釣りのおじさんが竿を置いて、岸から上がってきた。

「……あの人、何しよっと?」

「この人、ダムの信者なんです」

 口が、勝手に言っていた。私は、おじさんとバイクの人に、順番に頭を下げた。

「ダムを、とても大事にしとって。来たら、必ず、こうするとです」

 必ず、と言ったけれど、この人がダムに来たのは、今日が初めてだ。

「……熱心やねえ」

 熱心なのは本当なので、嘘は半分だった。


 礼が終わって、スイが立ち上がると、おじさんが手を出した。

「写真、撮ろうか。信者さんと、記念に」

 来た。〔ダムで、もう一回〕。

 私はスマホを渡して、スイの隣に立った。柵の前。うしろにダム。完璧な構図である。

「はい、撮りますよー」

 おじさんが言った瞬間、スイが、カメラに向かって、深々と頭を下げた。撮ってもらうことへの礼、だったらしい。

 写真には、ダムと、笑っている私と、スイのつむじが写っていた。つむじと私の顔は、写真の中で、初めて同じ高さに並んでいた。

 ……その四、半分。


 ダムカードは、管理出張所でもらう。ダムの番をしている人たちの、事務所だ。

 職員の人は見回りに出ていて、十分ほど待った。待つあいだに、二人で水筒の麦茶を飲んだ。試験のボトルは、飲まない。そこだけは、スイが譲らなかった。

 戻ってきた職員の人は、首に手ぬぐいをかけていた。二人分のカードを頼んだ。

「一人一枚ですね」

 トランプくらいの大きさの、硬い札が、一枚ずつ。おもてに、ダムの写真と名前が刷ってある。

 スイは、両手で受け取った。王子のカードを見せてもらったときと、同じ受け取り方だった。

「力丸ダム」

 私が読むと、スイは札から顔を上げた。

「……力丸どのとは、名が同じだけの池か」

「同じだけ」

 それから、スイは聞いた。

「この水は、どこへ行く」

「下の町の水道と、工場の水に使われます。大雨のときは、川があふれんように、ここでためて、少しずつ流します。大雨のときも、いちばん多く入ってきたときの水より多くは、出しません」

 スイが、職員の人に、長く頭を下げた。井堰の番のおじいさんにしたのと同じ、水を配る人への礼だった。

 職員の人が、私を見た。

「この人、ダムの信者なんです」

 二回目だった。

「……ありがとうございます」

 職員の人は、なぜか、お礼を言った。


 木の陰のベンチで、母の弁当を広げた。

 通りかかった釣りのおじさんが、私たちの弁当を見た。

「新婚さん?」

「研修です!」

「私は、ダムの信者だ」

 スイが、覚えたばかりの言葉で、丁寧に言い足した。

「……そうやったね」

 おじさんは、竿をかついで岸へ戻っていった。


 食べ終わってから、カードのうらを読んだ。スイは字が読めないので、私が読みあげる。

「重力式コンクリートダム。高さ、四十九・五メートル。長さ、百六十・五メートル。ためられる水が、千三百二十万立方メートル。完成は、千九百六十五年」

 昭和四十年。じいちゃんが、まだ若いころだ。

「千三百二十万立方メートル、とは」

 スマホで計算した。

「……二リットルのペットボトルで、六十六億本」

「一本ずつ礼をしたら、何年かかる」

「一生かかっても、終わらん!」

 おもての隅には、ダムの役目を示す印が三つ並んでいた。洪水を防ぐ印と、水道の印と、工場の水の印。ゆうべ、研修の下調べで、印の読み方だけは調べてきた。畑や田んぼに水を送るダムには、もう一つ、別の印がつく。

「畑の印は、ないね」

「では、畑の水は」

「うちの池が、配りよー」

 スイは、カードと、山の向こうの空を見比べた。あの空の下のどこかに、うちの小さな池がある。

「小さい池も、大きい池も、ためて、配る」

 それから、湖の岸の帯を見た。

「この池も、雨を待っている」

 梅雨が明けてから、雨は一度も来ていない。暦の上では今日から秋だと、朝のテレビが言っていた。空は、どこにも秋の顔をしていなかった。


「スイ」

「なんだ」

「なんで、ダムは、うちと行くって言うたと?」

 井戸の日に聞けなかったことの、半分だけを聞いた。

 スイは、カードを持ったまま、少し考えた。

「王子と来たら、王子はダムの話をする。私も、ダムの話をする。二人とも、ダムの話しかしない」

「……それの、何が悪いと?」

「梅雨入りの日、私が雨に礼をしているあいだ、まめは、傘を持って、隣にいた。今日も、礼をしているあいだ、隣にいた。知らない人に、何か言ってくれた」

「あれは、言い訳!」

「言い訳でも、まめは、隣にいた」

 私は、手の中の自分の一枚目を、ぎゅっと握った。カードの角が、手のひらに食いこんだ。

「それに、まめは、ブレーキを踏む場所が、毎回同じだ」

「結局、それも言うと!?」

 顔が熱い。葉っぱなら、とっくに巻いとーところである。


  ◇


 帰りの峠では、ボトルの水は一度も揺れなかった。ブレーキの場所は、行きより気にした。理由は、聞かれなかったので言わない。

 帰り道の、よその町の直売所に寄った。

 棚に、ハウスみかんの化粧箱が並んでいた。夏のみかんは、ハウスの中で育てる。外の畑のみかんがまだ青いうちに、ハウスのは、もう橙色になっている。

 値札を見て、一度だけ黙った。ハウスのは高い。七月に、わせにそう言ったのは私だ。

 祖父の〔研修費〕の封筒を開けて、いちばん小さい、三個入りの化粧箱を買った。わせのツケが、一つ残っている。今日の分と合わせて、ちょうど三つ。研修費の正しい使い道かどうかは、分からない。


 家に着いたのは、六時半を回ってからだった。

 預けた野帳には、祖父の字で〔一時 巻く 見ただけ 三時 巻く 見ただけ 六時半 もどりはじめ〕と書いてあった。鉛筆を押しつけた、角ばった字だ。私の角ばった字は、たぶん、この字から来ている。

 箱を抱えて、二人で池へ上がった。ダムのことを、うちの池にも話しておきたい、とスイが言ったからだ。ボトルの水も、返さないといけない。

 ポンプ小屋の前のバケツは、空っぽで乾いていた。ボウフラのわくけんと祖父がひっくり返したきり、雨が来ない。

 スイは、ボトルの池の水を、棚の口の広いコップに少し注いだ。

「ボトルの口から返すと、水が急ぐ」

 一杯ずつ、池に返すつもりらしい。

 一杯目のコップの水面から、濡れた小さな頭が、出た。

 わせだ。

 わせは、コップの縁に前足をかけて、爪を三本立てた。

「三つ、と言っている」

「ツケの一つと、今日の二つ?」

「そうだ」

 交渉は、準備で決まる。夜間料金の夜に覚えて、ジュースを押し返された七月の夕方に、身にしみた。私は、箱を開けた。

 わせの目が、丸くなった。

 橙色の、本物のみかんだった。

「本物だ、と言っている」

「研修費やけんね」


 油紙の袋から出てきたのは、ミロの手紙だった。四通目だ。スイが開いて、声に出して読んだ。


   師匠へ。

   泉の水位が、去年の同じ日より、指五本ぶん低いです。

   師匠の送った瓶の雨は、届きました。村長が、少しなめました。泣いていました。それから、もったいないと怒りました。

   畑の豆の葉が、昼に巻きます。土を掘ると、指二本の下は、まだ湿っています。

   豆の一列だけ、水を倍にしてみました。巻きました。村長に、また怒られました。

   私は、根が弱ったせいだと思います。

   暑いところで、倒れないでください。

   ミロ


 七月の通り雨の日に、私が両手で持って、ふたを閉めた瓶だ。

「……届いたっちゃん」

 スイは、うなずかなかった。手紙を見たまま、言った。

「豆の葉が、巻いている」

 梅雨入りの朝に、この人は言った。村でも、豆を作る。麦の取れない乾いた年でも、豆は最後まで実をつける。小さいが、強い。

「土に水があるのに、葉が巻く。梅雨明けの日の、うちの木と、同じやん」

「同じだ。ミロは、茂どのと同じところまで、自分で考えた」

 わせが、爪で、コップの縁を一度叩いた。

「返事は、次に来たときに取りに来る、と言っている」

 わせは、みかんを一つ抱え、二つを背中の袋に押しこんで、ふらつきながらコップの水面へ消えた。

 スイは、手紙から顔を上げて、私を見た。

「まめ。返事を、一緒に考えてくれないか」

 ミロへの返事を、一緒に考えてほしいと頼まれたのは、初めてだった。

 スイの手の中で、ボトルの水面が、細かく揺れていた。

 今度は、私の運転のせいではなかった。

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