第16話 二人で描いた水の地図
「力丸どのは、ダムの家の人か」
月曜の朝、スイは力丸さんに、いつもより深く頭を下げてから、そう聞いた。
借りる道具の話より、先だった。
「違います」
力丸さんは、眼鏡の位置を指で直した。
「名前が同じだけです。……よく聞かれます」
「そうか」
頭を下げた分だけ、スイの肩が下がった。
王子のダムカードを見た日から、ひと月あまり。トランプくらいの大きさの、ダムの写真の札だ。あの札の一枚が力丸ダムだと王子に聞いてから、この人の中で、力丸さんはずっと、ダムの家の人だった。
力丸さんを呼んだのは、私だ。
土曜の朝、梅雨明けの記録を野帳に書いたあとで、JAの留守番電話に吹き込んだ。実の太さを、毎日測りたい。道具を貸してもらえませんか。
月曜の朝七時、折り返しの電話より先に、力丸さんの軽自動車が坂を上がってきた。肩から、細長い布の袋を二つ下げている。JAの営農センターに置いてある、試験用の道具だそうだ。
一つ目は、ノギスだった。
「ノギス、とは」
「物の太さを、挟んで測る道具です」
銀色の定規のようなもので、端に、くちばしみたいな爪が二本ついている。片方の爪が、定規の上を滑る。真ん中に、小さな画面がある。
「挟むと、ここに数字が出ます」
力丸さんは、試しに、下の六段の一本目の木で、葉の陰の実を一つ選んだ。いちばん太いところを、横から爪で挟む。
「三十八・二」
ピンポン玉まで、あと二ミリ足らずだった。
「同じ実を、毎朝、同じ時刻に、同じ向きで挟みます。向きが変わると、数字が変わります。一日の数字は揺れるので、三日分で見てください」
「一日に、どれだけ太ったかを見るとですよね。シートの段なら、今の時期は、ミリの三分の一くらいが目安」
そこは、学校で習った。
「はい。それをはっきり下回ってきたら、木が水に困りはじめています」
「三分の一ミリ」
スイが、自分の指を見た。
「……指で言うと、どれくらいだ」
「指では言えん!」
二つ目は、土壌水分計だった。
透明な細い管で、長さは私の腕くらい。先に、素焼きの植木鉢を小さくしたような白い筒がついていて、上の端に、丸い針の目盛りがある。
「管に水を入れて、先を土に埋めます。土が乾いていると、土がこの素焼きのところから、管の水を吸おうとします。その引っぱる強さを、針で見ます」
「喉の渇いた土ほど、管の水を、ごくごく吸おうとするけん、針が大きく振れるってこと」
私が言い直すと、スイが管を見下ろした。
「この地の土には、喉があるのか」
「たとえ!」
「ただ、乾きすぎると、この計は、そこから先は動かなくなります。……本当は、梅雨のうちに埋めるものです」
力丸さんは、少しだけ悔しそうに言った。
「どこに埋めましょうか」
スイが、迷わず言った。
「下から五段目の、西の端。そこが、いちばん乾いている」
力丸さんの鉛筆が、止まった。
「根拠は」
「見れば、分かる」
見えとーとは、あんただけやん。
「この人、土を見る目が、ものすごいとです。笹舟の勝負を決めた朝も、分かれの升を一秒見ただけで、右の溝に四、左に六って」
「その記録は、残っています」
力丸さんは、鉛筆の先で、段を下から一つずつ指していった。唇だけが動いて、最後の「五」だけが、声になった。
「では、五段目の西の端に、一本。比べるために、四段目の真ん中にも、一本立てます」
「なぜ、同じ段ではないのだ」
「同じ段だと、水を入れたときに、両方濡れます。それに、一本ずつの差は、場所の差か、計の差か、まだ分かりません。だから、実と葉も見ます」
スイは少し考えてから、うなずいた。
「力丸どのは、水の配り方を決める人に向いている」
「JAの職員です」
シートの合わせ目を少しめくって、木と木のあいだの真ん中に、二十センチほどの穴を掘った。土が乾いていたので、穴に水を少し入れてから管を立て、まわりを埋める。管のまわりでシートを重ね合わせて、ピンで留める。透明な管の上の半分と、丸い針の目盛りが、白いシートから突き出た。
五段目の西の端の木と、四段目の真ん中の木には、五つずつ、印の実を決めた。力丸さんが、同じくらいの大きさの実を選んで、軸にテープを巻き、爪を当てる向きの矢印を書いた。
「針が落ち着くのは、明日の朝からです。測るなら、毎日です。一日抜けると、どの日に止まったかが、分からなくなります」
「毎日」
「毎日です」
力丸さんの軽自動車が坂を下りていくのを、私とスイは、並んで見送った。
毎朝六時。それは、いい。
ただ、ダムカードは、平日の昼しかもらえない所がある。井戸の日に、王子がそう言っていた。研修の日は、まだ決めていない。
「まめ。研修の日は、いつだ」
この人は、研修という言い訳まで、ちゃんと覚えていた。
◇
火曜の朝から、六時に下の六段を回った。
私が爪を当てて、数字を読み上げる。自分の野帳に書いて、スイの野帳の同じ日の行にも、私の字で書く。スイは、その横に、自分の見立てを向こうの字で書く。それから二本の水分計の針を読んで、朝の葉が巻いていないかを見る。スイは、シートに耳を寄せ、幹に耳を当てる。
十の実を挟み終わるまで、二十分かかった。
毎朝六時に、二人で同じ道を回る。少女漫画でいえば、毎朝同じ電車の、同じ車両に乗り合わせるのと、だいたい同じである。……と、思うことにした。
二日目の朝、スイが、私の野帳をのぞきこんだ。
「この、輪が二つ重なった形は、昨日もあった」
「……八やね。覚えたと?」
「形だけだ。読むのは、まめだ」
そう言いながら、スイは次の行でも、私の字をのぞきこんだ。
その朝、スイが、西の端の木の根元で、シートから耳を離した。
「西の端の水が、昨日より細い。今日、入れたい」
「まだ。朝の葉は巻いとらんし、力丸さんは、三日分で見てって言いよった」
「木は、三日も待ってくれるのか」
「少しだけ待たせるのが、シートの仕事やけん」
言ってから、気がついた。
「……梅雨明けの日は、逆やったね。うちが『ポンプ回そう』で、スイが『待て』」
「あのときは、土に水があった」
スイは、口を少しへの字にした。待つわけは分かっていて、それでも、こういう顔をする。配れる水が目の前にあって、配る先が渇いていくのを黙って見ているのは、この人には、どんな力仕事より重いらしかった。
三日目、木曜の朝。
五時半に上がっていくと、スイが、段の西の端の、太い管から五段目の細い管が分かれるところに、しゃがんでいた。そこに、赤い小さなコックがついている。段ごとに一つずつあって、ひねれば、その段の管だけに水が通る。
「……開けとらんよね?」
「開けていない。待っていた」
六時。五段目の西の端の木だけ、夜明けを過ぎても、葉が巻いていた。四段目の真ん中の木の葉は、平らだった。
三日分の数字を、並べた。西の端の実は、四段目の実の、半分くらいしか太っていない。西の端の水分計の針は、四段目より、ずっと大きく振れていた。
……当たっとー。
月曜の朝、スイが言ったとおりだった。
朝まで巻いとったら、そのときは水たい。梅雨明けの日の、祖父の言葉だ。
水を入れたら、この段は、甘くする分を少し手放すことになる。それでも、夜のうちに取り戻せていない木を、このままにはしておけない。
「入れよう」
スイの前でコックを開けてから、私は、池の横のポンプ小屋まで駆け上がって、スイッチを入れた。
戻ってくると、スイは、西の端の木の根元で、シートに耳を寄せていた。
「来た」
スイが言った。
「一滴ずつ、来ている。……根のほうへ、しみていく」
しゃがんだまま、スイは、しばらく動かなかった。配る水が、配る先に届くのを、最後まで聞いていた。
祖父に聞いて決めた時間が来て、私は、ポンプを止め、コックを戻した。スイは、閉める音を聞いてから、立ち上がった。
「スイのほうが、一日早かったね。数字が言ったのは、今日」
「私が早すぎたのか」
「ううん。スイが場所を言って、数字が、いつかを言う。そしたら、ちょうどになる」
スイは少し考えて、うなずいた。それから、五段目のほかの木を見た。
「あの木たちにも、同じだけ入った。あの木たちの下の土には、まだ水があった。葉も、平らだった」
「……それは、うちも、もったいないと思う」
コックは、段に一つしかない。西の端の木だけに水を入れる仕掛けは、うちの管には、まだなかった。
◇
金曜の朝、西の端の木の葉は、夜明けにはもう開いていた。水分計の針も、少し戻っていた。
その夕方、戸を開け放った作業場の机に、古いカレンダーを裏返して広げた。
去年のJAのカレンダーだ。裏は真っ白で、机いっぱいの大きさがある。祖父は、こういうものを捨てない。
鉛筆で、段々畑を描いた。下から順に、段の数だけ横線を引く。いちばん上に、ため池の丸。いちばん下に、家と作業場の四角。線はまっすぐ引けなかったけれど、段の数だけは、一本も間違えなかった。
「スイは、これ」
青い色鉛筆を渡した。
「スイに見える水を、ここに描いて。スイの字で」
スイは、四日間毎朝聞いて回った水を思い出すように、しばらく紙を見下ろしていた。それから、いちばん上の丸から描きはじめた。
池の丸を、青で塗る。塗りながら、丸の底のほうを、何度も重ねて濃くした。
池から、太い線が一本、斜面を下りてくる。太い管だ。段ごとに枝分かれして、細い線になる。スイは、細い線の一本一本に、短い向こうの字を書き添えた。
それから、段と段のあいだを、薄く塗っていった。土の中の水だ。五段目の西の端は、薄かった。下から二段目の東の端は、濃かった。そこには、山の側から斜面の土の中を下りてくる細い線が、一本引かれていた。
「管の漏れやないと? 土曜に、じいちゃんが上のほうに水も入れとーし」
「管ではない。上の水でもない。もっと深いところを、山の側から下りてきている」
井戸の日、石垣の向こうで、王子も、水は山のほうから土の中を下りてくると言っていた。
「……そこにも、水分計を立てよう。力丸さんに、もう一本借りて。スイの『濃い』が、数字でどう出るか、見たい」
私は、鉛筆で数字を書いた。五段目の西の端と、四段目の真ん中に、四日分の実の太さと、水分計の針。木曜の朝に葉が巻いていた木には、小さな丸。
青い向こうの字と、鉛筆の数字が、同じ段に並んでいった。
「スイには、水が、どう見えとーと?」
「光っている」
「光る?」
「池は、底のほうから明るい。管の中の水は、ポンプが回っているときは、細い糸のように光って、斜面を下りていく。土の中の水は」
スイは、言葉を探すように、少し黙った。
「霧のように、ぼんやり光っている。濃いところは明るくて、薄いところは暗い」
想像した。
夜の段々畑で、土の中が、ぼんやり光っている。石垣のあいだを、細い光の糸が下りていく。
……きらきらやん。
「少女漫画の、きらきらみたいな?」
「違う。きらきらは、跳ねている。漫画の男の、水しぶきのように。水の光は、跳ねない」
「じゃあ、蛍?」
「ほたる、とは」
「夏の夜に、光りながら飛ぶ虫。お尻が光ると」
「村の虫は、光らない」
「こっちのは、光るとよ!」
「水の光は、飛ばない」
「町のイルミネーションは? 冬に、木に電気の粒を、いっぱいつけて」
「粒ではない」
三つとも、外れた。私の頭の中にある光るものは、だいたい、跳ねるか、飛ぶか、粒だった。
「まめ。その麦茶を、日にかざしてみてくれ」
机の端に、私の麦茶のコップがあった。
作業場の戸口は、海のほうを向いている。夏の夕方は、海へ傾いた日が、戸口からまっすぐ入ってくる。
私は、コップを持ち上げて、西日にかざした。
麦茶が、透けた。琥珀色の水の中で、光がゆっくり揺れて、底のほうがいちばん明るかった。
「……少し、似ている」
スイが言った。
私は、コップを持ったまま、しばらく動けなかった。この人の目には、毎日、こういうものが、園じゅうに見えている。池にも、管にも、土の中にも。
ずるい。
ずるいくらい、きれいやん。
地図の端に、私は、外れた三つを小さく描いていた。きらきらと、蛍と、電気の粒。
消しゴムを持った私の手の上に、スイの指が乗った。
「消さないでくれ」
「外れとーとに?」
「まめが、私に見えているものを、見ようとした跡だ」
消しゴムは、机に戻した。指が離れるまで、少しかかった。
◇
その夜の夕ごはんで、私は、ダムの話を切り出した。夏期講習から帰ってきた颯太も、町の会社から帰ってきた父も、そろっていた。
「研修の日にちのことなんやけど」
「研修」
母が、箸を止めた。
「ダムの研修。ダムは、うちの池を大きくしたもんやけん。大きいのを見たら、小さいのの見方が変わる。やけん、研修」
「デートやん」
颯太が、味噌汁をすすりながら言った。
「研修!」
「俺も行く。相棒やけん」
「平日やけん、あんたは夏期講習やろ」
颯太が、黙った。
平日に園を空けるのは、誰かに仕事を回すことだ。朝六時の数字は、出かける前に測れる。でも、昼の葉を見る人がいない。
「行ってこい」
祖父が、漬物をかじりながら言った。
「昼の葉くらい、おれでも見れる。一日ぐらい、まめがおらんでも、木は枯れん」
祖父は、それから、思い出したように言った。
「西の端だけに水ば分けたかなら、ポンプ小屋の棚に、コックのついた継ぎ手のあるぞ。西の端の木の先に入れて閉めたら、そこから先には水の行かん。中古の噴霧器ば買うたときに、一緒に買うとった」
「……なんで、西の端だけって、分かったと?」
「作業場の地図ば、見た」
「いつ見たと!?」
祖父は答えなかった。
「茂どの。その継ぎ手で、西の端の木だけに、水を配れるのか」
「配れる。日曜に、つけちゃろう」
スイは箸を置いて、食卓に額がつきそうなくらい、祖父に頭を下げた。
祖父は、中古のものが役に立つと、少しだけ機嫌がよくなる。今夜の漬物は、いつもより、よく鳴った。
ダムの日は、八月七日の水曜日に決まった。
台所のカレンダーを八月にめくって、七日に〔研修〕と書いた。
スイが、横からそれを見ていた。
「まめ。それは、何と書いた」
「研修」
「……ダムは、まめと行く」
井戸の日、石垣の向こうで王子に言ったときは、そのあとに、ブレーキの話が続いた。
今度は、何も続かなかった。
母が、何も言わずに、私の茶碗にご飯をもう一杯盛った。今夜の母は、言いたいことが多いらしい。父は、カレンダーから目を離さなかった。颯太は、味噌汁にむせた。
研修である。
平日の昼間に、二人で、ダムを見に行く研修である。
カレンダーの〔研修〕の二文字が、こんなに頼りなく見えたのは、初めてだった。




