第15話 土は湿っているのに葉が巻く
祖父の天気は、やっぱり外れなかった。
大雨の次の日から、雨は一滴も降っていない。
少女漫画は、七巻で止まったままである。
曇りがちの九日が過ぎて、七月十九日の朝。シートを張った下の六段で、私とスイは、一本目の木の前にいた。
今日の仕事は、粗摘果だ。
「摘果、とは」
「実を、摘むこと。粗、は、大まかに。夏の終わりに、もう一回、細かくやるけん、今日は大まかに」
みかんの実を落とす、と私が言っただけで、スイは、目の前の青い実を両手で包んだ。ピンポン玉に、まだ少し足りない大きさの実だった。
「この実にも、水が入っている」
「入っとーよ。やけん、落とすと。落とした分、木の力も水も、残る実に回る」
スイは、黙って手を開いた。納得した顔ではなかった。
私は、枝の奥を指さした。葉のついていない太い枝のこぶに、実が一つ、じかに成っている。
「ああいう、葉っぱのない所にじかに成った実は、皮が粗くなりやすい。落とす」
その先の小枝には、実が三つ、固まってぶら下がっていた。
「スイ。この三つなら、どれを残す?」
スイは三つを見比べて、いちばん上の、空を向いている実を指した。
「これだ。いちばん、元気そうだ」
「外れ。上を向いとー実は、大きゅうなりすぎて、皮がごつごつになりやすいと。残すのは、こっち」
私は、葉の陰で下を向いている実に触れた。すぐそばに、葉っぱが三、四枚ついている。
「葉っぱがついとって、下か横を向いとー実。葉っぱが、この実の分の甘さを作ると」
残りの二つの軸を、指でつまんでひねる。ぷつ、と小さな音がして、実が手のひらに落ちた。
「下を向いているほうが、いいのか」
「うつむいとー子のほうが、甘くなると」
言った本人が、いちばん照れた。
ほかに落とすのは、傷のある実と、虫に食われた実と、形のいびつな実くらいだ。今年は裏年で、実がもともと少ない。大きさで落とすのは、夏の終わりに回す。
落とした実は、私の腰の袋に入れる。シートの上に置いておくと腐るし、虫の入った実もある。梅雨入りの日に、枯れ枝を入れたのと同じ袋だ。
私が一つ落とすたびに、スイはその実を受け取って袋に入れ、短く頭を下げた。一つ。また一つ。
「スイ。一個ずつ礼しよったら」
日が暮れる、と言いかけて、やめた。一本目の木で落としたのは、三つだけだった。
「今日は、よかよ。夏の終わりの仕上げのときは、こうはいかんけんね」
「そのときは、そのときだ」
私は野帳に〔一本目 三〕と書いた。数える人と、頭を下げる人で、下の六段を進んだ。
「まめ。あの枝の七つも、落とすのか」
二本目の木で、スイが言った。池へ上がる段の途中の、あの木の、あの枝のことだ。五月に、花が四十一しかなかった枝。
「なんで、七つって知っとーと?」
今朝、私が数えた数だった。
「まめが毎朝止まる横で、私も、数えていた」
書きかけの〔二本目 二〕の二が、野帳の罫からはみ出した。
あの枝の前で「私も、見る」と言った人は、見るだけでは済ませていなかった。
「落とさん。七つなら、落とす実はないけん。それに、力丸さんの枝やけん、勝手には触らん」
四十一の花から、七つ。
花は、全部が実になるわけではない。咲いたまま落ちる花がある。小さな実になってからも、花が散ってから七月の初めにかけて、木は自分でいくつも実を落とす。全部は育てきれないと、木のほうが知っている。
あの枝は、それでも、七つ残した。
「七つは、多いのか。少ないのか」
「最後は、実一つに、葉っぱ二十五枚くらいが目安。あの枝は葉っぱが多いけん、七つは、むしろ少ないくらい」
九時を過ぎると、シートの白さが、目に痛くなってきた。上の段から、祖父の声が降ってきた。
「昼からは、暑うなるぞ。水ば、持っとけ」
◇
昼は、作業場の軒下で、母が作っていったおにぎりを食べた。
正午のニュースのあとで、作業場のラジオが言った。
「九州北部は、梅雨明けしたとみられます」
梅雨明け。
園には、めでたい。めでたいとは、思っとー。
……十三冊!
「梅雨が明けると、雨は、どうなる」
「しばらく、来ん。来ても、夕立くらい。夏の夕方に急に来て、すぐやむ雨」
「では、漫画の続きは」
スイが、おにぎりを持ったまま聞いた。覚えていた。
「……夕立の日に、読む」
スイは、おにぎりを置いて、軒下から出た。
空には、雲がひとつもなかった。
スイは、その空に向かって、頭を下げた。梅雨入りの日ほど長くはない。でも、雨どいにしたのよりは、ずっと長かった。
「……もう、おらんよ」
「おらんから、礼をする。来ていたあいだの分だ」
祖父が、ラジオの音を、少し小さくした。
梅雨入りの日も、このラジオだった。あの日に始まった雨が、今日で終わった。
一時に、帽子をかぶり直して、下の六段を少しだけ見に戻った。
一本目の木の前で、私は足を止めた。
葉が、巻いていた。
日の当たる外側の葉が、真ん中の筋を谷にして、浅い舟の形に丸まっている。内側の、陰になった葉は、まだ平らだった。二本目も、三本目も、そうだった。白いシートの照り返しの上で、下の六段の木が、数えきれないほどの緑の舟をぶら下げていた。
……笹舟やん。
五月の勝負で流した、あの舟の形だった。
梅雨明けの日差しは、曇りがちの九日間とは違った。
葉の裏からは、いつも水が少しずつ空へ出ていく。日差しが強いほど、出ていく水は多くなる。追いつかなくなると、木は葉を巻いて、出ていく分を減らす。
シートを張った日から、私はこれを待っていた。渇きすぎたかどうかは、土より先に、木のほうが合図を出す。
少しだけ渇かす、とスイに言ったのは、私だった。どこまでが「少しだけ」かは、学校で習った。でも、自分の木で見るのは、初めてだった。
習ったことより先に、心臓が動いた。
「スイ、ポンプ回そう! 管に水、入れんと!」
「待て」
スイが、木の根元にしゃがんで、シートに耳を寄せていた。
「土には、まだ水がある」
「え?」
「シートを張る前の雨が、残っている。土の上のほうは乾いてきたが、指四本ぶん下には、たっぷりある」
「でも、葉が」
「水のあるところに、水を足すのは、粗末にすることだ」
スイの声は、静かだった。静かなときのこの人は、引かない。
「木は、嘘つかん! ほら、巻いとーやん!」
私は、巻いた葉を一枚、指でつまんで見せた。
一本の木をはさんで、にらみ合った。困ったことに、二人とも、自分が正しいと思っていた。
「指四本って、何センチ?」
「指四本ぶんだ」
「それは、センチやない! 井戸のときは、十二メートルって言えたやん!」
「あれは、王子が先に、二十と言った」
そうやった。
私は野帳を開いた。裏表紙のふちに、物差しの目盛りが刷ってある。
「手、貸して」
スイの右手を取って、人差し指の関節のところを、目盛りに当てた。
……取ってから、気がついた。
男の人の手を、自分から取っている。少女漫画なら、ここで顔を上げると、相手と目が合う場面だ。
顔は、上げなかった。これは、測定である。
「二センチ。指一本で二センチやけん、四本で八センチ」
「まめの指は」
今度はスイが、私の手を取って、目盛りに当てた。目盛りを読むのは、私だ。手を取られているのも、私だ。
「一センチ半」
「では、まめの指なら、五本と少しだ」
「うちの指で言わんで!」
指の細い人間は、損をする。
確かめるほうが早い。
私はシートのきわを少しめくって、その下の土を、軍手のまま掘った。上のほうの土は白っぽく乾いて、さらさらと崩れる。五センチ。六センチ。七センチ。
指先が、ひやっとした。
土の色が、そこから濃く変わっていた。物差しを当てる。
「八センチ」
「そこにある、と言った」
スイは、当たり前の顔をしていた。
土には、水がある。葉は、巻いている。どっちも本当だった。
「木の中の水は?」
スイは、幹に耳を当てた。背の高い男が、みかんの木に抱きつくようにして、目を細める。
「上へ、強く引っぱられている」
「強いのは、いいこと? 悪いこと?」
「分からない」
スイは、幹から耳を離した。
「強いのは分かる。それが、この木にとって足りないのかどうかは、私には分からない。木の中の水は、ぼんやりとしか見えない」
土の中の水なら、指の幅まで当てる人だった。その人が、木のことは、分からないと言った。
上の古い木を見てきた祖父が、家へ戻る途中で、下りてきた。
祖父は、巻いた葉を一枚、指の腹でさわった。それから、私の掘った穴を見た。
「掘ったか」
「八センチ。湿っとった」
「穴は、埋めて戻しとけよ。……夕方、もう一回見てみい。三時までは、家に入っとけ。この暑さは、人にもこたえる」
それだけ言って、祖父は、家のほうへ下りていった。私は穴を埋めて、シートのきわを戻し、ピンを踏み直した。
「茂どのは、答えを知っている」
「知っとーくせに、言わんとよ。昔から」
答えは、見たほうが早い。それが祖父のやり方だった。見せるのは、だいたい、木である。
ポンプは、回さなかった。三時過ぎから、木の陰に入っては水筒を口に当てながら、残りの木の粗摘果を済ませた。
◇
五時を過ぎて、私とスイは、下の六段のいちばん上の石段に並んで座った。上の段の木の影になった、涼しい石段だ。
見るのは、一本目の木。
夕暮れには、まだ早い。それでも、二人並んで座って、同じものを待っている。
少女漫画なら、このあと、どちらかが何か言いだす場面だ。……待っとーとは、葉っぱやけど。
「何しよーと?」
石段の下から、颯太が上がってきた。昼で学校は終わったはずなのに、鞄をまだ肩にかけている。今日は一学期の終業式で、明日から夏休みだ。
「通知表は?」
「……友だちの家におった。お母さんが帰ってくる前は、畑におったほうがいい気がして」
通知表は、鞄のいちばん底にあるらしい。
「で、何しよーと?」
「葉っぱが、ほどけるのを待っとー」
「……地味!」
颯太は、それでも、私の一段下に座った。異世界から来た人の、相棒になりたい弟である。相棒のすることは、地味でも見ておきたいらしい。
三分で、颯太は寝た。石段に背中をあずけて、口を開けて。
日が傾いて、照り返しが、やわらかくなった。
六時を回ったころ、いちばん下の枝の葉が、動いた。
浅い舟の形に丸まっていた葉が、ゆっくり開いていく。じっと見ていると止まっているように見えて、目をそらしてから戻すと、少し開いている。一枚。また一枚。
私は、野帳に時刻を書いた。〔午後六時十分 ほどけはじめ〕
スイが、石段を下りて、幹に耳を当てた。
「引っぱりが、ゆるんだ」
「土は?」
「昼より、少しだけ減った」
土の水は、昼と夕方で、ほとんど変わらない。変わったのは、空だった。
「昼の木は、強く吸っていた。それでも、葉が巻いた」
スイが、ゆっくり言った。
「吸っても、上から引っぱられる速さに、追いつかなかった」
「暑すぎる昼は、葉から出ていく水に、根のほうが間に合わんと」
二人で、同じところに着いた。
木は、嘘をつかなかった。巻いた葉は、つらいとは言った。でも、水をくれとは、まだ言っていなかった。読み違えかけたのは、私のほうだった。
「土に水があることと、木がつらくないことは、……同じでは、なかったのか」
「学校では、葉が巻いたら水が足りんサインって習った。うちは、それを、土の水のことやと思いこんどった」
「私は、土の水しか、見ていなかった」
スイは、幹から耳を離した。
「村でも、そうだった。泉に水があれば、畑は大丈夫だと思っていた」
その声は、昼よりずっと小さかった。
日が沈むころには、葉は、ほとんど全部ほどけていた。〔午後七時半 ほぼ全部〕
颯太は、まだ寝ていた。
上の段から、祖父が下りてきた。私は、野帳を開いて見せた。祖父は、時刻の数字を、指でなぞった。
「梅雨のあいだ、土が水びたしやったけん、細か根の弱っとる。そこに急に夏の来たけん、木も慌てとるとたい」
「ポンプは?」
「昼に巻いて、夕方にほどけるなら、木が自分で加減しとる。シートの段は、それでよか。朝まで巻いとったら、そのときは水たい」
シートを張った日に、スイが聞いた。少しだけ、とは、どれくらいだ。私は、それを毎日見ると答えた。その答えの、一日目だった。
「上の古か木は、別たい。あっちも昼は巻いとった。雨の来んまま、明日で十日になるけん、朝のうちに水ば入れる」
祖父は、かぶっていた麦わら帽を取って、颯太の頭を、ぽんとはたいた。
「……通知表は、見せんけんね」
起きた颯太の、最初の一言だった。
◇
次の朝、五時半に、一本目の木の前へ行った。
先に来て待っていようと思ったのに、スイのほうが先にいた。
「まめが来る前に、この木を、聞いておきたかった」
恋敵が、カワウソ、王子、泥と来て、今日は一本目の木になった。
葉は、ほどけたままだった。
「引っぱりは、ほとんど止まっている。静かだ」
スイは、シートに耳を寄せた。
「上の乾いたところが、昨日の昼から、指半分ぶん厚くなった。……夜も、木は飲んでいたのか」
「夜は、葉から出ていく水が少ないけん、そのあいだに、木が昼の分を取り返すと」
本では読んでいた。水の見える人と答え合わせをしたのは、初めてだった。
下の六段には、水を入れなかった。
朝ごはんのあと、縁側に、野帳を二冊並べた。
「照らし合わせ、しよう」
「照らし合わせ、とは」
「二つを並べて、同じところと、違うところを確かめること。スイが見た土の水と、うちが見た葉っぱを、同じ日の、同じ時刻で並べると」
私は、自分の野帳に書いた。
〔七月十九日(金) 晴れ 梅雨明け 下の六段 一本目の木〕
〔午後一時 日の当たる葉が巻く 土の湿り 八センチ下から〕
〔午後六時十分 ほどけはじめ 午後七時半 ほぼ全部 土の湿り 昼とほぼ同じ〕
〔二十日(土) 午前五時半 ほどけたまま 土の湿り 九センチ下から〕
並べると、昼と夕方で違ったのは葉で、ほとんど同じだったのは土だった。
明日からは、実の太さも測ろう、と私は言った。数字は、多いほどいい。
スイも、自分の野帳を開いて、向こうの字で何か書いた。それから、鉛筆を私に差し出した。
「数は、まめの字で、ここに書いてくれ。この地の数は、この地の字で書くほうがいい」
「でも、スイには読めんやん」
「読むのは、まめだ」
スイの書いた向こうの字の横に、私は、小さく数字を書いた。〔八センチ〕〔九センチ〕〔午後六時十分〕。
中の頁に私の字が入るのは、二回目だった。一回目は、私の〔福岡〕の横に、スイが書いた。今度は、スイの字の横に、私が書いた。
朝のテレビの週間予報には、傘のマークが、一つもなかった。
「池は、今日から、入る水より、出ていく水のほうが多い」
スイが言った。
残りは十三冊。こっちから頼んでも、雨は来ない。
雨が来るたびに頭を下げてきた人と、雨の日を指折り数えるようになった私の、雨の来ない夏が、始まった。




