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第14話 雨の日の少女漫画朗読会

 農家の娘は、雨の日がきらいである。

 外の仕事が、止まるからだ。

 その朝の私は、窓の外の大雨を見て、小さくこぶしを握った。


 梅雨の終わりの雨は、降り方が違う。

 夜のうちから降りだして、朝には、段々畑の石段を、水が川みたいに流れていた。テレビは朝から大雨に注意と言っていたけれど、警報にはならなかった。雨が上がったら、祖父と二人で、池と溝を見に行く。それまでは、外の仕事は休みだ。

 斜面の土も、石段も、雨ですべる。濡れた枝や葉をさわると、病気の菌を、手や服で広げることがある。薬をまいても、雨に流される。だから大雨の日は、みかんの木にさわらない。

 次の薬の日は、降った雨の量を足していって決める。薬は、雨の量に合わせて流れ落ちていくからだ。この大雨で、その日がぐっと近くなった。

 シートを張った、下の六段だけは、今日も仕事をしていた。シートの上を滑った雨が、山側の溝へ集まっていく。木の下の土には、ほとんど入らない。

 梅雨のあいだの雨の日は、作業場の仕事で埋めてきた。はさみの手入れ。コンテナ洗い。野帳の清書。この日のために、全部、先に片づけておいた。

 これで、大雨の日をどう使おうと、誰にも文句は言わせない。


 台所で、スイが天井を見上げた。

「池が、朝から指二本ぶん上がった」

 朝ごはんの前から、それを言うのは三回目だった。うれしいのは、よく分かった。

「それと、屋根の水の道が、あふれている。北の角から、四歩目」

 縁側に出ると、軒先から、雨が滝のように落ちていた。

「雨どい。屋根の雨を集めて、縦の管から下へ流す樋」

 北の角から、四歩。樋が縦の管へ落ちる口のあたりで、水が横からあふれていた。

 スイが、雨の中へ出ようとした。向こうの村では、雨の日は村じゅうが外に出る、と聞いている。

「出らんでいい!」

 この人を雨の中に出したら、たぶん、池まで上がっていく。大雨の日の池には、誰も近づかない。それに、今日のこの人には、居間で大事な用がある。私は物干し竿を持ってきて、縁側から、四歩目をつついた。濡れた落ち葉のかたまりが、ぼとりと庭に落ちた。

 縦の管が、ごぼごぼと鳴った。

「流れた」

 スイが、軒下で短く頭を下げた。雨どいにも、礼をするらしい。


 さて。

 雨の日の本当の仕事は、ここからである。

「スイ。今日は、日本の文化の研修をします」

「研修」

 ダムに連れていくと約束した夜も、海の水を真水にする所の約束も、同じ言葉だった。研修は、便利な言葉である。

「少女漫画。日本の、大事な文化」

「まんが、とは」

「絵と、言葉で、話を進める本。……スイは字が読めんけん、うちが読んで聞かせる」

 母は朝から加工所で、父は町の会社、颯太は学校だった。家にいるのは、祖父だけだ。雨の日の祖父の昼寝は、朝から始まる。

 研修は、居間ですることにした。祖父の昼寝つきで。


  ◇


 本棚から、いちばん古い一冊を持ってきた。

 中学一年の夏に、初めて自分のお小遣いで買った少女漫画だ。全二十巻の、一巻目。表紙の角が丸く擦り切れている。颯太が「この秘密は、俺が守る」と右手をのせた、あの異世界ものの第一巻と、同じ擦り切れ方だった。姉弟は、本の傷み方まで似るらしい。

 座卓に本を開くと、スイが横からのぞきこんだ。背の高い人が、文庫本より少し大きいだけの本に、体を折りたたんでいた。

「この白い雲から、雨は降らないのか」

「雲やない! ふきだし。しゃべった言葉の入れ物」

 四角い枠ひとつを、一コマという。右の上の一コマから、左の下へ。絵はスイが見て、ふきだしの中は、私が読む。


 一ページ目は、主人公の女の子が、桜の木の下を走っているところだった。

「『遅刻、遅刻!』」

 ページを見ないで言えた。中一から、何回読んだか分からない。

「まめは、字を見ていない」

「全部、覚えとーけん」

 スイは、絵を見ていた。背景いっぱいに、桜の花びらが舞っている。

「花が、多すぎる。これだけ咲くと、次の年は減る。まめの枝は、去年が三百十二で、今年が四十一だった」

「桜は、みかんやないけん! それに、裏年は順番どおりには来んと!」

 あの枝の前にしゃがんで「私も、見る」と言った朝の数字を、この人は覚えていた。


 三ページ目で、男の子が出てきた。

「『……前を見て走れよ』」

 私は、できるだけ低い声を出した。

 出なかった。いつもの声が、少しかすれただけだった。

 ……男の子の声って、どこから出すと?

 居間の隅で、祖父が寝返りを打った。

「その男は、喉を悪くしているのか」

「声を低くしとーと! 男の子やけん!」


 中ほどで、女の子が雨の中で泣く場面になった。膝をついて、空を見上げて、両手のひらを上に向けている。

「手のひらで、雨を受けている。礼だ」

「泣きよーと!」

 梅雨入りの日に、この人が段々畑でやった格好と、そっくりだった。悲しみと感謝が同じ格好をしているのは、少女漫画のせいか、向こうの村のせいか、分からない。


 男の子が女の子の前に立つと、背景が、星のようなきらきらで埋まった。

「水しぶきだ」

「きらきら! ときめいとーときの、きらきら!」

 そのきらきらに、うちの百冊ぶんのときめきが詰まっとーとに。

「……この男は、出てくるたびに、濡れているのか」

 五冊読んで、男の子は、ずっと濡れていることになった。


 スイは、絵だけは、本当によく見ていた。

「この女は、この男が出てくると、手が止まる」

「……よう見とーね」

 それから、いちばん長く見ていたのは、女の子の家の、井戸の絵だった。話とはなんの関係もない、背景の一コマだ。

「この井戸は、いい石で組んである。石と石が、すき間なく噛んでいる。これなら、崩れない」

「そこ、ヒロインの家の背景やけん!」

 八年読んできて、あの家に井戸があったことを、今日知った。


  ◇


 二時過ぎ。七巻目で、見開きになった。

 見開きは、右と左のページをつなげて、一枚の大きな絵にしたところだ。見せ場によく使う。

 放課後の廊下で、男の子が、女の子を壁際に追いつめていた。片手を、女の子の顔の横の壁について。

 ページをめくる手が、止まった。

 中一の冬、布団の中で三回読み返して、三回とも枕を叩いた見開きだった。

「この男も、壁の中の水を聞いているのか」

 スイが言った。真顔だった。

「聞いとらん!」

「では、何をしている」

「……壁ドン」

 言ってしまった。

「壁ドン、とは」

 説明しないわけには、いかなかった。研修だから。

「壁に、手を、どんってつくと。相手を、壁と自分のあいだに入れて、逃げられんようにして、顔を近づける。少女漫画では、たいてい、このあと……告白」

 説明しているうちに、顔が熱くなってきた。説明されている側より、説明している側が赤くなる研修である。

 スイは、黙って見開きを見ていた。

「……町の大きな店の、手洗いの前の通路」

 そこに、行くと?

「私は、まめの横の壁に、手をついた」

「つ、ついとったね」

「壁ドン」

 スイが、ゆっくり私を見た。

「……それは、まめの計画表の、その三だ」

 作業着を買いに行った朝、颯太が台所で読み上げた、あの計画表である。この人は、字は読めないが、耳はいい。

「構図だけ! 構図だけやけん! 中身は、全部ちがったけん!」

「中身」

「スイは、壁の中の水を聞いとっただけやろ!」

「聞いていた」

 スイは、うなずいた。

 それから、見開きの壁を見たまま、言った。

「……音が、少し聞こえにくかった」

 居間に、雨の音だけが残った。

 私は、少女漫画で顔を隠した。

 百冊読んできて、少女漫画を顔を隠すのに使ったのは、これが一回目だった。

 居間の隅で、祖父が、また寝返りを打った。

 見開きのあと、七巻目の残りに、夕方までかかった。男の子の台詞のたびに、私の声が裏返ったからだ。


  ◇


 夕方になって、雨が弱くなった。

 座卓の上に、読み終えた七冊が積んであった。全二十巻のうちの、七冊。

「この二人は、最後、どうなる」

 スイが聞いた。

「それは、最終巻」

「最終巻まで、読んでくれないか」

 ……二十巻。

 朗読会ができるのは、片づける仕事も残っていない、大雨の日だけだ。

「……雨の日に、続き、読んじゃる」

「四つ目だ」

 今度は、スイが自分の指を折っていた。秋のみかん。ダム。海の真水。漫画の続き。

 この人は、まだ数えている。


「まめ」

 居間の隅から、声がした。

「低か声は、腹から出すと」

「……いつから起きとったと!?」

 祖父は答えずに、かぶっていない麦わら帽のつばに手をやって、窓の外を見た。

「明日は、上がる」


 夜、自分の部屋で、恋愛計画表を開いた。

 〔その三 壁ドン〕の横に、〔済〕と書きかけて、消した。〔構図だけ〕と書きかけて、それも違う気がして、消した。

 いちばん下の〔その七 ダム(研修)〕の下に、一行足した。


〔その八 夏祭り(浴衣)〕


 残りは十三冊。祖父の天気は、外れたことがない。梅雨明けまでに、雨の日は、あと何日あるやろう。

 園のためには、雨は早く上がったほうがいい。それをいちばん知っとーとは、うちやのに。

 雨の量を数えるのは、薬のためだ。雨の日を指折り数えて待つのは、生まれて初めてだった。

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