第13話 白いシートで雨を止める
白いシートで、雨を止める。
そう聞いてから一週間、スイの口数が少なかった。
水を大事にする話を一日じゅう聞いた翌週に、うちの園は、雨を止める。
土曜の朝、作業場の前に、白い巻きがずらりと並んだ。去年のを巻き直したのと、新しいのとが半分ずつ。
ほどくと、幅がスイの背丈くらいある、白いシートになる。私が巻きを立てると、私の頭より上まである。さわると、紙と布のあいだみたいな、さらさらした手ざわりがする。上から落ちた雨は通さないのに、下の土の湿気は、少しずつ上へ逃がす。見た目より、ずっと賢いシートである。
「今日は、これを、木の下の土に敷くけん」
スイは巻きの前にしゃがんで、指で表面をなぞった。
「これで、雨が土に入らないのか」
「入らん。上に落ちた雨は、シートの上を滑って、流れていく」
父と母も、朝から作業着だった。
「週末くらい、休みたいっちゃけどね」
そう言った父が、家族でいちばん先に長靴をはいていた。
颯太は、中学最後の大会で、朝早くに出ていった。
「なんで、雨を止める」
スイが、やっと聞いた。一週間ためていた質問だった。
「みかんを、甘くするため」
私は、作業場の前の木を一本、指さした。
「夏に土が乾くと、木は、実に送る水を少しにする。水が少ないぶん、実の中の甘さが濃くなると。雨ばっかり吸うた実は、味がうすうなる」
スイは、黙って聞いていた。
「父の日の夜、焼酎は水で割ったら飲みやすくなるって、スイ、言いよったやん。みかんは、逆。水で割らんほうが、おいしいと」
「……みかんは、水割りにしない」
「そう」
スイが、少しだけ笑った。一週間ぶりだった。
「それに、シートは白いけん、お日さまの光を、下から実に返す。下からも日が当たると、色がよくのる」
「甘さのかわりに、何を払う」
スイの質問は、いつも水の帳尻から来る。
「大きさ。実は、ちょっと小さめになる。それと、乾かしすぎたら、木が弱る」
「下の六段だけたい」と祖父が言った。「上のほうは古か木の多かけん、乾かしたら弱る」
上のほうの段には、ひいじいちゃんのころからの木が多い。年寄りの木に、夏の乾きはこたえる。
シートの下には、今までどおり、点滴の黒い管が通る。木が渇きすぎたら、管から少しずつ水をやる。渇きすぎたかどうかは、土より先に、木のほうが合図を出す。
「雨は、いつ、どれだけ降るか選べん。管の水なら、うちが量れる」
「……配る水は、残すのか」
「残す」
「木は、喉が渇かないのか」
「渇かせると。少しだけ」
「少しだけ、とは、どれくらいだ」
「それを、毎日見ると。秋の収穫まで、ずっと」
スイは、まだ半分しか納得していない顔で、白い巻きを見下ろした。
村には、雨の日に傘を差す者も、雨を止める者もいない。梅雨入りの日に、傘の下でそう聞いた。あの日私が止めたのは、傘一本ぶんの雨だった。
今日は、六段ぶん止める。
◇
最初の段で、私が手本を見せた。
木は、段の上に一列に並んでいる。草は、先週のうちに刈って、地面をならしてある。
私は、自分の背丈より高い巻きを、横に倒して、段の端から転がしはじめた。
実のなる木の枝は、地面すれすれまで垂れている。シートは、枝の下にもぐって、幹まで引きこまないといけない。私は枝の下を、四つんばいで進んだ。
小さいけん、まめ。枝の下は、私のほうが速い。
振り返ると、スイが、枝の下を這っていた。百八十センチを超える男が、長い手足を折りたたんで、みかんの木の下を這っていた。
「……まめ。この仕事は、まめのほうが向いている」
「知っとー」
一本の列に、シートは二枚。幹の山側に一枚、海側に一枚。二枚で幹をはさむようにして、木の下の土を覆う。
「幹のところで、二枚を重ねると。手のひら一枚ぶん」
「重ね目、とは」
「シートとシートが重なるところ。ここにすき間があると、雨がそこから土に入る」
それから、上と下。段は、どれも山側へほんの少し傾けて作ってある。だから、シートの上の雨は、海側から山側へ流れる。重ねるときは、海側のシートを上にする。屋根の瓦と同じで、流れてきた雨が、重ね目の下にもぐらないように。
「水の来るほうを、上に重ねる」
スイは、それだけ聞いて、すぐに分かった顔をした。村の水路も、たぶん、そうやって組んである。
幹のまわりは、シートの端を幹に沿わせて寄せて、すき間をつぶす。
重ねたら、留める。コの字に曲げた太い針金のピンを、シートの端に刺して、長靴のかかとで踏む。ずぶ、と土に入っていく。ピンとピンのあいだには、畑の石を置いていく。風にめくれないように。
点滴の黒い管は、シートの下にもぐる。管は、シートの下でも管の仕事をする。
「手のひら一枚ぶん、とは」
スイが、重ね目の上で手を止めた。
「まめの手のひらか。私のか」
……そこ、気にすると?
スイが、手のひらを重ね目の上に広げた。私も、隣に、自分の手のひらを置いた。
スイの手のひらのほうが、指一本ぶん長かった。
少女漫画なら、重なるのは手と手である。うちの園で重なっているのは、シートとシートだった。手と手は、隣に並んでいるだけ。
並んでいるだけなのに、指先が熱かった。
「……あいだを取って、うちの手のひらと、スイの手のひらの、あいだ」
「分かった」
スイは、本当に、あいだを取った。それから、どの木でも、手のひらを置いて測った。
みかんのすじを長い順に並べた人である。重ね目も、手のひらで測るらしい。速さは、私の半分だった。重ね目は、私の倍きれいだった。
祖父は、ピンの束を腰に下げて、段から段へ、黙って配って回っていた。
隣の列では、父と母が組んでいた。
母がシートを転がし、父が端を押さえて、ピンを踏む。……はずだった。
海のほうから、風が来た。
段の真ん中で転がしかけていたシートが、ふわりと持ち上がった。父がとっさに両手でつかんだ。シートは父の頭の上で大きくふくらんで、父ごと、くるりと巻きついた。
白いシートの下から、父の長靴だけが出ていた。
……てるてる坊主やん!
父の日の次は、てるてる坊主の日だった。
母は、ピンを持ったまま笑っていた。
「和也、そのまま軒に吊るしたら、梅雨の明けるっちゃない?」
白いものの中から、父の声がした。
「……出して」
出してもらった父は、何も言わずに、いちばん長い列の端に立った。休みたいと言いながら、いちばん長い列を受け持つ。昔から、そういう父である。
昼は、母の弁当だった。
おにぎりと、卵焼き。それから、食パンに、母の加工所のマーマレードを塗ったもの。直売所に出すのとは別に、家の分も、ちゃんと作ってある。
上の段から見下ろすと、六段のうち三段が、白くなっていた。白いのは、木の下の土だけだ。緑の木が、白い帯の上に、一本ずつ並んで立っている。
「上から見たら、雪みたいやろ」
「雪、とは」
「……冬に、空から白い氷が降ってくると。たまにやけど」
スイは、白い段々畑と、私の顔を、交互に見た。
「水が、白くなって降るのか」
「そう」
「……この地の水は、忙しいな」
◇
三時過ぎに、空が急に暗くなった。
海のほうから、灰色の雲が一枚、すべるように来た。梅雨の晴れ間の、通り雨だ。
「軒下へ!」
祖父の声で、みんなで作業場の軒下へ走った。
ぱらぱら、と来て、すぐに、ざあっとなった。
スイだけが、来なかった。
段々畑の端に立ったまま、雨を見ていた。
雨は、白いシートを打っていた。
上の段の石垣の足もと、つまり、どの段も山側のきわに、細い溝が掘ってある。シートの上に落ちた雨は、土にしみこまずに、白い面を細い筋になって滑っていく。筋と筋がつながって、山側の溝へ落ちていく。
スイは、その水の筋を、目で追っていた。
濡れとー人を連れ戻すのは、先に軒下に入った者の務めである。私は、軒下を飛び出した。
「スイ! 濡れるって!」
「止めた雨は、どこへ行く」
スイが、雨の中で聞いた。
「山側の溝へ。溝を横に流れて、段の終わりで、畑の横の用水路に落ちる。用水路から、笹舟を流したあの分かれを通って、下の田んぼへ」
「……捨てていないのか」
「捨てん。土に入らんかったぶん、田んぼが受け取ると」
スイは、しばらく、白い面を滑っていく雨を見ていた。
それから、肩の力が抜けた。一週間、ずっと上がっていた肩だった。
「そうか。……行き先が、あるのか」
スイは、雨のほうへ、短く頭を下げた。梅雨入りの日に段々畑でやった長い礼の、十分の一くらいの礼だった。行き先のある雨には、それで足りるらしい。
通り雨は、五分で上がった。スイは五分ぶん、私は四分ぶん濡れた。
雨が上がると、スイは、シートのきわの通り道を歩きだした。
ときどき、しゃがんで、シートに耳を寄せた。
「ここと、ここから、水が土に入った」
スイが指したのは、二か所の重ね目だった。目では、何も見えない。白いシートが、白く濡れているだけだ。
私はしゃがんで、重ね目をめくった。
手のひら一枚ぶん重なっているはずのところが、指二本ぶん、開いていた。すき間の下の土が、そこだけ黒く濡れていた。
二か所とも、同じ列だった。
いちばん長い列。父の列だった。
「長か列は、ずれる」と祖父が言った。
毎年、父の列だけ、どこか一か所ずれる。母は、毎年それを笑う。今年は、二か所だった。
父は、何も言わなかった。母が、笑いながら、父にピンを一本渡した。
スイが、父の重ね目に、自分の手のひらを置いた。父も、隣に自分の手のひらを置いた。手のひら一枚ぶん。二人で、ピンを踏んだ。
並んだ手のひらは、父とスイのだった。
……そこ、さっきは、うちの場所やなかった?
父の耳が、父の日の夜と同じ色になっていた。
◇
夕方、中ほどから下の六段が、全部、白くなった。朝より、園が六段ぶん明るい。
片づけの途中で、スイが、上のほうを見上げた。
「上のバケツが、変だ」
夜間料金の夜を、私は忘れていない。作業場の冷蔵庫から、みかんジュースの紙パックを一本と、台所の棚から、みかんの缶詰を一つ持って、上がった。交渉は、準備で決まる。
ポンプ小屋の前のバケツは、屋根のしずくが落ちるところに置いてある。屋根で受けた通り雨が集まって、縁まで満ちていた。その水面から、濡れた小さな頭が出ていた。
わせだ。
わせは、背中の油紙の袋を揺すってから、前足の爪を二本立てた。
「二つ、と言っている」
「うちには、ないとよ。ハウスのは高いし、外の畑のは秋から」
私は、みかんジュースの紙パックを差し出した。
わせは、紙パックのにおいをかいで、前足で、ぐいっと押し返した。
「みかんではない、と言っている」
「中身は、みかんやん!」
わせは、紙パックに背中を向けた。
私は、缶詰を差し出した。わせは、前足でつついて、においをかいで、受け取った。
「……ジュースはみかんやなくて、缶詰はみかんと?」
「缶詰一つで、二つ分だそうだ」
いずみの夜の計算だった。
油紙の袋から出てきたのは、折りたたんだ紙が一枚だった。スイが開いて、声に出して読んだ。
師匠へ。
今年は、雨が早く止みました。
泉の水位が、去年の同じ日より、指三本ぶん低いです。
水当番の名簿を、日照りの名簿に替えました。村長は、また怒りました。師匠がいないせいです。
桶を小さくして、運ぶ回数を増やしました。こぼれる水が、減りました。私の案です。
師匠のところは、ひねれば水の出る筒が、家ごとにあると書いてありました。うそだと思います。
うそでなければ、少し、わけてください。冗談です。
水の多いところで、腹をこわさないでください。
ミロ
「……小さい桶は、私の案だった」
スイが言った。
「先に言われた」
いつもの「……あいつ」の顔だった。でも、手紙は、たたまなかった。
「……あいつは、冗談を言わない」
白くなった段々畑を、スイは見下ろしていた。今日、うちの園は、雨を止めた。この手紙の向こうでは、雨が来ない。
スイは、野帳の後ろのページを一枚破って、返事を書いた。長くはなかった。
それから、ポンプ小屋の前のバケツを見た。屋根から集まった、今日の通り雨だ。
「まめ。瓶は、あるか」
台所に、母のマーマレードの空き瓶があった。母は、瓶を捨てない。洗って、乾かして、棚に並べてある。私は坂を下りて、一つ持って、また上がった。今日は、よく上り下りする日だ。
私が両手で瓶を持った。スイが、バケツの上のほうの水だけを、底の泥をかき回さないように、手ですくって注いだ。魔法は使わなかった。手のひらで、一杯ずつ。二杯で、瓶がいっぱいになった。一滴も、こぼれなかった。
ふたを閉めるのは、私がやった。この人がふたを閉めると、たぶん、礼が始まる。
「返事と一緒に、これを」
わせが、瓶を見た。それから、爪を三本立てた。
「重い、と言っている」
「……重さで、値段の上がると?」
わせは返事をしないで、爪を三本立てたままでいた。缶詰一つで、二つ分。足りないのは、一つ。
「缶詰、もう持ってきとらんよ」
わせは、瓶と返事を油紙の袋に押しこんで、私を見た。
「残りの一つは、次に来たときに取り立てる、と言っている」
重いけん値上げして、足りん分はツケと?
わせは、取り立てだけは忘れない。
わせは、缶詰を抱え、ふくらんだ袋を背負って、ふらつきながらバケツに飛びこんだ。水面が一度揺れて、それきりだった。
手のひら二杯ぶんの雨が、向こうの泉に届くかどうかは、分からない。
スイは、わせが消えた水面に、長いこと頭を下げていた。通り雨のときの礼の、何倍も長かった。




