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第12話 この街も水に泣いた

 父の日の夜、父の一か月越しの夢は、焼酎の水割り一杯で叶った。

 スイは、焼酎より、割った水のほうを褒めた。

 父は、それでも満足そうだった。


 あの夜、父は台所のテーブルで、戸棚の焼酎の封を切った。グラスに氷を入れて、焼酎を注いで、水を足す。スイは、その手もとから目を離さなかった。

「酒を、水で割るのか」

「割らんと、強かけん」

「水が、酒を飲みやすくしている」

 スイはグラスを目の高さに上げて、水割りを透かして見た。うちに来た夜、台所にコップを三つ並べていたときと同じ顔だった。

 一口飲んで、言った。

「いい水だ」

 父の焼酎は、ひとことも褒められなかった。父は、二人で飲んだというだけで、耳まで赤かった。スイは一杯で、縁側で寝た。二杯目の夢は、まだ先らしい。


 それから二週間近くたった土曜日の朝、颯太が台所でノートを広げた。

「じいちゃん。昔の日照りのこと、聞かせて」

 夏休みの前に出た宿題らしい。題は「地域の水の歴史」。中学三年生の宿題にしては、題が大きい。

「溝さらいの日に、ママが言いよったっちゃろ。あの夏、って」

 颯太には、私がしゃべった。じいちゃんがママを「千代」と呼んだことも、ついでに。

 この二週間、私はじいちゃんに三回聞いた。三回とも「昔の話たい」で終わった。

「スイさんも、手伝ってくれん? 水のことなら、相棒やろ」

「相棒、とは」

「一緒に仕事する人」

「……宿題なら、手伝う」

「……宿題なら、か」

 颯太の耳が、少し赤くなった。うちの家族は、この人に何か言われると、だいたい耳から赤くなる。


 私は、黙って二人の後ろに立った。

 弟の宿題を手伝うのは、姉の務めである。宿題のついでに、じいちゃんとママの昔が分かったとしても、それは姉の責任ではない。

「午後から、千代が来る」

 祖父が、麦わら帽をかぶりながら言った。

 また、千代。

「俺が頼んだと。きのう、坂の下で」と颯太が言った。「中学生は、ママの店には入れんけん」

 秘密を守る相棒は、法律も守る。

 少女漫画なら、祖父母の世代の秘めた恋は、だいたい最終巻で明かされる。うちの最終巻は、今日の午後かもしれない。

 午前中は、梅雨の晴れ間に、上の四段の、二回目の黒点病の薬だった。噴霧器は、今日も紐の一回目でかかった。


  ◇


 三時に、ママが来た。

 日傘をたたんで、玄関を通らずに庭から縁側へ回ってきて、縁側のいちばん涼しいところに座った。

 うちの縁側のどこがいちばん涼しいのか、私は二十年住んで、最近やっと分かったばかりである。

 ……昔なんかあった人は、縁側の涼しいところまで覚えとーとやろか。

 母が冷たい麦茶を出した。父も座った。颯太はタブレットとノート、スイは野帳。祖父は、柱にもたれた。


 颯太が、質問を読み上げはじめた。いつ。どこで。何があったか。三つ目の質問のあとに、私は、ごく自然に口をはさんだ。

「ママとじいちゃんって、いつから知り合いなん?」

「それ、宿題に要る?」と颯太。

「地域の、歴史やけん」

 ママは、麦茶を一口飲んだ。

「茂が十五のときからたい」

 十五。じいちゃんが地区の溝さらいに出はじめた歳だ。

 ……溝で出会うたと!?

「あんたのじいちゃん、あたしより背の低かったとよ」

 年上のお姉さんと、背の低い男の子。

 少女漫画の、いちばんおいしいやつやん!

 祖父は、黙って麦茶を飲んでいた。


「あの夏の話たい」

 ママが、颯太のタブレットのほうへ顎をしゃくった。

 四十六年前の夏。祖父が二十九、ママが三十二。父は二歳で、

「覚えとらん」

 と父が言った。母は、その年の生まれだった。

「雨が、降らんかった」

 祖父が言った。

「春から降らんで、梅雨も、ろくに降らんやった。池の底が、割れた」

 うちの池の底。毎朝、私が取水口を見に上がる、あの池の底が、ひび割れて干上がっていたらしい。

「溝には、一滴も来んかったとよ」とママが言った。「町は、もっとひどかった。水道の、一日に何時間かしか出らん。給水車の来たら、バケツとやかんば持って、道に長か列たい。高台の家は、出る時間にも出らんやった」

「おれが高校のときも、夜は水の止まったぞ」と父が言った。

「それは、また別の夏たい」とママが言った。「給水車は、来んかったやろ」

 スイが、台所のほうを振り返った。

 うちに来た夜、この人は、台所の蛇口の前で「これは、ひねると、いつでも出るのか」と聞いた。出るよ、と私は答えた。

 四十六年前なら、そうは答えられなかった。

 この縁側で、給水車に並んだ夏を知っているのは、祖父とママだけだった。


「おれは、あの夏」

 祖父が、少しだけ胸を張った。

「顔ば洗うた水で、足ば洗うて、その水ば、みかんにやった」

 顔で使うて、足で使うて、みかんに!?

 うちのみかん、じいちゃんの足の水で生きのびたと!?

「三回で威張りんしゃんな」

 ママが、鼻で笑った。

「あたしは四回たい。米のとぎ汁で茶碗ば洗うて、その水で雑巾ばしぼって、残りば庭の花にやった」

「……五回」と祖父が言った。

「嘘つきんしゃい」

 ママは、スイのほうへ顎をしゃくった。

「スイ。あんたが決めんしゃい。水の人やろ」

 笹舟の勝負のとき、水の争いには裁き手が要ると言った人が、今日は裁き手にされた。

 スイは野帳を置いて、本気の顔で考えた。

「店主どのは、四度。茂どのは、三度」

 ママが、勝った顔をした。

「だが、茂どのの三度目は、みかんだ。水が、実になって返ってくる」

 来年の実で 返します。

 いずみの夜に、この人に教わった返しの歌が、頭の中で鳴った。

 スイは縁側の板の上に正座して、祖父に向かって深く頭を下げた。

「茂どの。一杯の水を、三度。……見事だ」

「……頭ば上げんね」

 祖父は麦わら帽のつばを下げようとして、家の中ではかぶっていないことに気づき、その手で頭をかいた。

「それでも、下の段の何本かは、枯れた」と祖父は言った。「その跡に植えたとが、今の甘夏たい」

 防除の前に、祖父が機械の水だけ吹いて十日見た、あの甘夏だ。あの木は、あの夏の空いたところに立っていた。


「ママも、大変やったとね」と母が言った。

「大変やら言いんしゃんな」

 ママは、麦茶のグラスを置いた。

「あの夏も、あたしは、ちゃんと楽しかったとよ」

 それから、ぽつりと言った。

「日照りの年は、井戸に礼ばしよった。地区の下の、古か井戸。あの夏、地区で涸れんかったとは、あの井戸だけやった。毎朝、手ば合わせたと。今日も出てくれて、ありがとう、て」

「昔の人は、そげんしよったとね」

 私が言うと、ママが、じろりとこっちを見た。

「昔の人て、あたしのことね」

「……ちがいます」

 スイが、ママの手もとを見ていた。麦茶のグラスを持つ、皺の多い手だった。

 この人は、礼の話になると、耳が立つ。

「その井戸を、見たい」

「ふたしとる」と祖父が言った。


「光司の親父は、あの夏、まだ子どもやった」とママが言った。「跡ば継いで、いちばんに井戸ば掘ったと」

 石垣越しに聞いた「うちは汲みすぎん。親父の代から、そうしとる」には、塩のほかにも、わけがあった。

 汲みすぎないのは、あの夏を子どもで見た人の、家の決まりだった。


  ◇


 颯太が、タブレットを指でめくった。図書館で調べてきたメモらしい。

「あの夏のあと、福岡は、水を大事にする街になったって。蛇口に、水の出すぎん部品をつけたり。遠くの大きな川から、長い管で水を引いたり。ダムも増やして」

 スイの鉛筆が、野帳の上を走っていた。波紋のような字が、どんどん増えていく。

「そのあとも、もう一回大きな日照りのあって。それで、海の水を真水にする工場ができたって。このへんの水道にも、来とるらしい」

 鉛筆が、止まった。

「……海の水を、真水に?」

 スイが、颯太のタブレットをのぞきこんだ。字は読めない。それでも、写真の白い建物と、その向こうの海を、長いこと見ていた。

「まめに、聞こうと思っていた」

 スイが言った。

「この地の人は、海の水を真水にする方法を、たぶん、もう考えている。そう思っていた」

 答えたのは、颯太だった。弟は、姉より先に、この人の知りたいことに答えた。

 ……相棒の勝ちやん。

 いちばん上の段から初めて海を見た朝、この人は「……なんて、もったいない」と言った。

「もったいなくない海が、この地には、あるのか」

「あるらしいね」と母が言った。

 スイは立ち上がって、庭の端まで出た。坂の下の屋根の向こうに、海が見える。今日の海は、梅雨の晴れ間の日を受けて、白っぽく光っていた。


「この街も、水に泣いたのか」

 スイが言った。

 誰も、すぐには答えなかった。祖父は柱にもたれたまま、ママは麦茶のグラスを両手で持ったまま、黙っていた。

「泣いたあとで、水を大事にする街になった」

 スイの目は、海のほうを見ていた。でも、海よりもっと遠くを見ている気がした。雨が年に数えるほどしか来ない村が、その先のどこかにある。

 私は、知らないうちに口を開いていた。弟に先を越されたままでは、姉の面目が立たない。

「夏に、連れて行っちゃる。海の水を、真水にするところ」

 スイが、振り返った。

「研修として。水の設備を見るのは、園の勉強になるけん」

 前にも、どこかで言った理屈だった。正確には、ダムのときに言った理屈である。

「俺も行く」と颯太が言った。

「研修は、園の者だけ」

「宿題も、研修やろ」

 母が、何も言わずに、私のグラスに麦茶を縁まで注いだ。言いたいことがあると、皿に盛る人である。皿がないときは、グラスに盛る。

「よか研修たい」とママが言った。

 祖父は、かぶっていない麦わら帽のつばに、二度目の手をやった。

「三つ目だ」

 スイが言った。

「三つ目?」

 私は指を折った。秋になったら、うちのみかんを食べさせる。夏にダム。夏に海の真水。

 ……この人、数えとる。

 研修の行き先は、二つになった。約束は、三つになった。

 夏、忙しくなる。


 ママは、五時前に帰った。店を開ける支度があるらしい。

 帰りぎわ、ママは祖父に何か小さく言った。

 私は縁側の板の上を、お尻ですべって近づいた。

「まめ。耳ば、こっちに向けんしゃんな」とママが言った。

 見つかった。祖父は、うなずいただけだった。

 じいちゃんとママの昔の恋は、一つも分からなかった。分かったのは二つ。じいちゃんが十五のときからの知り合いで、じいちゃんは昔、ママより背が低かった。

 ママを見送りに出た庭先で、祖父が言った。

「来週は、シートば張る」

「シート、とは」とスイが聞いた。

「園に、白いシートを敷くと。雨を、土にしみこませんように」と私は言った。

 スイが、私を見た。

「……水を、止めるのか」

 一日じゅう、水を大事にする話を聞いたあとの顔だった。


  ◇


 夜、離れの縁側に出ると、スイが野帳を開いていた。

 今日の話を、書いているらしい。波紋のような字が、二頁も続いていた。

「まめ」

 スイが、鉛筆を差し出した。

「この街の名を、書いてくれないか。まめの字で」

「……なんで、うちの字で」

「この街の名は、この街の字で書くほうがいい」

 私は、鉛筆を受け取った。

 表紙の日付だけは、前に私が書いた。上から三段目の管を二人で直した日に、「作業記録なら、日付も書いとかんと」と言って。中の頁に書くのは、これが最初だ。

 波紋の字のあいだの、空いているところに、書いた。


〔福岡〕


 自分の字が、こんなに角ばっていると思ったことはなかった。

 スイは、私の字を少し見てから、その横に、自分の字で何か書いた。丸い線が、角ばった二文字に、寄り添うように並んだ。

「何て書いたと?」

「同じことだ」

 同じこと、と言った波紋の字は、私の二文字の、倍くらい長かった。

 耳が、熱い。

 何が書いてあるのかは、今夜も読めない。

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