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第11話 用水路の泥を愛しすぎた男

 地区の溝さらいは、毎年、六月の第三日曜日である。


 父の日も、毎年、六月の第三日曜日である。


 父は、二十年、父の日を溝で過ごしている。


 台所のカレンダーの十六日には、母の字で〔溝さらい 七時〕とあった。その下に、小さく〔父の日〕。


 私は、固まった。


 母の日には、直売所の入口でカーネーションを一本買った。


 父の日の分は、何も買っていない。


 池に男の人が浮いた朝から一か月あまり、私の頭は、水と男前で埋まっていた。


 ゆうべは、とくに埋まっていた。ダムは、まめと行く。


 あれは、石垣のこっち側に聞かせるための言葉だったのか。答えの出ないまま、朝になった。


「姉ちゃん、父の日、なんか用意した?」


 部活の荷物を担いだ颯太が聞いた。颯太は毎年、靴下を一足買う。今年の分は、もう包んであるらしい。


「……泥」

「泥?」

「父の分まで、溝の泥を上げる。それが、うちからの贈り物」

「重っ。それ、ばり重いやん」


 颯太は、靴下の包みを父の席に置いて、出ていった。


 朝ごはんの席で、スイが首をかしげた。


「父の日、とは」

「お父さんに、ありがとうって言う日」と母が言った。


 スイは、箸を置いて立ち上がった。


 まっすぐ、こっちへ来る。……え、うち?


 スイは私の横を通りすぎて、父の前で止まった。深く頭を下げる。


 池から上がってきた朝、私に礼を言ったときと同じ、腰から折るお辞儀だった。


「和也どの。服を、毎日借りている」


 作業着のほかは、スイはまだ父の服を着ている。袖は、相変わらず短い。この前の防除では、父の雨がっぱも借りた。


 父の箸が、止まった。


「……どの」


 うちに来た次の朝、七十五年生きて初めて「どの」と呼ばれた祖父は、眉一つ動かさなかった。


 四十八年生きて初めて「どの」と呼ばれた父は、耳まで赤くなった。


「……スイくん。今夜、一杯、付き合わんね」

「一杯、とは」

「酒たい」


 台所の戸棚の焼酎は、この一か月、封が切られないまま、父と同じように機会を待っていた。


「今日は、右の溝の石垣寄りば、ちゃんと直す」


 祖父が、麦わら帽をかぶった。


 先月の笹舟の勝負の日に、私とスイが溝の泥を詰めて、その場しのぎでふさいだ、あの岸だ。


 泥だらけの共同作業。少女漫画なら、距離が縮む回である。


 あの日にも、同じことを考えた。私たちの手は、触れたら泥が増えるだけだった。


 今日こそ。


 水筒を腰に下げようとして、手が止まった。


 この人には、水筒の場所が分かる。


 ……下げた。水を飲まずに溝さらいをするほうが、よっぽど危ない。


  ◇


 梅雨の曇り空の下、朝七時、下の農道の土管の前に、地区の人が集まった。


 十五、六人。スコップに、泥をかき寄せる平たい鍬のじょれん、一輪車。


 地区の人でいちばん若いのが私で、次が王子だ。


「溝の先の三枚は、来週が代かきやけん。頼むばい」


 下の田んぼのおじちゃんが、みんなに頭を下げた。今日、泥を上げた溝が、来週の田んぼの水の通り道になる。


 池から溝へ落ちる口には、祖父がゆうべ板を差して、水を止めてある。


 分かれより上の、段々畑の横を下る溝の底には、去年からの泥と、落ち葉と、空き缶が一つ寝ていた。


 毎年、ここでいちばんに文句を言うのは、祖父である。今年の祖父は、何も言わなかった。


 分かれから下の二本は、あの日にもうさらってある。


 「六月の溝さらいが、楽になるたい」と言っていたとおりだった。


 土手の草は、父が祖父の草刈り機で刈っていく。去年の秋の設備投資である。


 父は、刈る前に土手の空き缶と石を拾い、泥を上げる組より一区間先を刈っていく。


 人が近づくと、エンジンを落とす。


 王子は、お父さんと来ていた。


 王子のお父さんは、王子の三倍の速さで泥を上げて、何も言わずに次の区間へ行った。


 王子のスコップの腕がどこから来たのか、よく分かった。


「まめとスイは、右の溝の石垣寄り」


 祖父が言った。


 来た。二人で、泥だらけの共同作業。


「光司も、そっち」

 三人になった。


 右の溝の、石垣寄りの岸。あの日に踏み固めた泥はやせて、きわに、また小さな穴が一つあいていた。


「ここは、まめの水筒が置いてあった所だ」


 スイが言った。


「言わんでいいけん!」

「水筒?」と王子が言った。

「なんでもない!」


 王子が、自分の石垣の上を見上げて、首をかしげた。


 きのう、そこから私が目だけ出していたことは、知らないままでいてほしい。


 王子は、上から石垣の崩れを見てくると言って、石垣の端から回って上がっていった。


 スイは、溝の底に膝をついた。ゴム手袋を外して、両手を泥に入れた。


 泥を、撫でている。


 手のひらで、岸の土の上を、ゆっくり、ゆっくり、なぞっていく。顔が、取水口に見とれていた朝と同じだった。


「あの男前、泥ば撫でよる」


 土手の上で、地区のおばちゃんが、じょれんを動かしながら言った。


「よっぽど、泥の好きとやろうね」

「……ありゃあ、漏れば手で探しよるとたい」


 いちばん年寄りのおじちゃんだけが、正解に近かった。


 恋敵が、カワウソ、王子と来て、今日は泥になった。


「手袋しー! 缶の切り口で切るよ」

「手袋の上からでは、水が遠い」

「遠くてもいいけん。切ったら、うちが困る」


 言ってから、なんで私が困るのかを考えた。答えが出る前に、スイは手袋をはめた。


 スイは、泥を一すくい持ち上げた。指のあいだから、なかなか落ちない泥だった。


「この泥は、水を止める」

 それから、岸のほうを見た。


「この岸の中に、まだ水の道がある。……ここからは、聞こえない」


 あの日、この人は「石垣の下は、目では見えない。こうしないと、聞こえない」と言って、溝の水を手のひらに受けた。


 あれは、人に見られたらいかんやつだ。土手の上には、地区の人が十何人いる。今日の溝には、受ける水もない。


 私は、溝のふちに、スイに背を向けて、土手のほうを向いてしゃがんだ。長靴に入った泥をかき出すふりをした。


 私の背中で隠せるのは、この人の手のひら一つぶんくらいだ。


 百五十センチに届かない背中が、今日は役に立つ。小さいけん、まめ。


 ……今日だけは、小さくてよかった。


 背中の後ろで、スイが石垣の上を見上げる気配がした。誰もいなかったらしい。


 片方の手袋を外す音。泥の手を作業着でぬぐう音。水筒のふたを開ける音。


 小さく頭を下げる気配。


 振り向かなくても、手のひらの水が細くのびていくのが、分かる気がした。


 きのうも、この人は、石垣の向こうの私の水筒を、分かっていた。


「石垣の下まで、もう一本ある」


 スイの声が、耳のすぐ後ろでした。息が、首にかかるくらいの近さだった。


「……まめ。助かった」


 長靴の泥は、とっくにかき出せていた。それでも、立てなかった。


「何しよっとや、二人で」


 きのう私が目だけ出していた石垣の、今日は向こう側から、王子が顔を出していた。


 私は跳ねるように立ち上がった。立ち上がった勢いで、一歩下がった。下がった先は、溝だった。


 尻から、泥に落ちた。

 冷たっ。


 溝の底から見ると、スイの手のひらはもう空で、岸の土が一か所だけ濃く濡れていた。


 泥だらけの共同作業で、距離は縮んだ。縮んだぶん、私は溝に落ちた。


 スイが、手を差し出した。泥だらけの、ゴム手袋の手だった。私の手袋も、泥だらけだった。


 あの日は、作業着で拭いた手だ。今日は、増えて困る泥はもうなかったので、つかんだ。


 草を刈り終えて一輪車に持ちかえていた父が、土手の上から下りてきた。


 何も言わずに、首のタオルを私に渡して、また一輪車のほうへ戻っていった。


 父の日に、父からタオルをもらったのは、私だった。


「王子。石垣の下まで、もう一本、道がある」


 スイが言った。


 王子の顔つきが変わった。自分の園の、石垣の下である。


 王子は石垣の端から回って下りてきて、スイの指したところをのぞきこんだ。


 ザリガニの道は、石垣のいちばん下の石の下へ、斜めにもぐっていた。


「根石は抜かん。抜いたら、上が全部来る」


 王子は、粘る泥と小石を、棒で穴の奥へ突きこんでいった。


 突きこんでは、いちばん下の石を手で押して、動かないのを確かめる。


 井戸を案内した日、口が一回も詰まらなかったのと同じで、手が一回も迷わなかった。


 岸の、穴だらけの柔らかい土は、私が掘り出した。


 掘っている最中に、祖父が一輪車を押してきた。


 積んであるのは、黒い、波打ったプラスチックの板の束だった。


「波板やん。……どこから」

「前に、買うとった」


 何年も前に中古の何かを買ったとき、一緒に買いこんだものらしい。


 上から三段目の管を二人で直した日の、ポンプ小屋の棚の継ぎ手と同じだ。


 祖父のためこみ癖は、今日も正しかった。


 掘ったところに、波板を岸に沿って縦に立てる。


 立ててから、板と岸のあいだに、スイが「水を止める」と言った泥と土を少しずつ入れて、スコップの背で叩いて固める。


 叩いて、また入れる。ザリガニが、もう岸を掘り抜けないように。


 上がってきたザリガニは、二匹ともバケツに入れた。溝にも、外にも放さない。颯太の水槽に、仲間が増えそうだった。


 上げた泥は、父が一輪車で畑の端へ運んで積んでいく。雨で溝へ戻らないところに。


 畑から流れてきた土を、畑に返す。父は何往復もした。


 ありがとうの日に、まだ仕事を増やしている。私の贈り物、どこで間違えた?


  ◇


 昼前に、溝さらいが終わった。


 祖父が、池の口の板を外しに上がっていった。


 しばらくして、上のほうから、水の音が下りてきた。


 段々畑の横を下って、分かれの升にたまる。


 切りこみを越えて、右の溝と左の溝へ落ちていく。右に四、左に六。


 ひいひいじいちゃんの代からの分け方である。


 スイが、右の溝に沿って、下の農道の土管まで歩いていった。


 土管の口をのぞきこんで、また戻ってくる。


 勝負が決まった月曜の夕方と、同じ歩き方だった。


 分かれの升の前で、スイが止まった。


「途中で、どこへも行っていない」


 あの夕方、この人は、「途中で、どこかへ行っている」と言った。


 私は土管まで走って、口に手を入れた。手首を、水に押された。


 ……どこへも、行っとらん。


 振り返ると、スイも土管の前まで下りてきていた。頬を、涙が落ちていた。


 そんなに嬉しいなら、泥まみれになった甲斐がある。私のお尻も、少しは報われた。


 王子が、スイの横に立った。泥のついた指で、前髪を整えた。


「……今日は、泣かん」


 泣かなかった。前髪だけが、ちゃんと決まった。


 坂の下から、日傘が上がってきた。


 ママだった。


 真っ赤な口紅で、日傘を肩にかけて、手押しの台車にクーラーボックスを二つ載せている。


 王子が飛んでいって、台車を引き取った。


「溝さらいの日は、毎年、差し入れしよるとよ。今年は父の日やけん、ビールもつけたばい」


 中は、冷えた麦茶と、おにぎりと、缶ビールだった。


「父親は、一本ずつ。車の人は、麦茶。帰りは歩きやろ」


 父は缶ビールを一本受け取って、少しだけ、口の端を上げた。今夜の一杯の相手は、もう決まっている。


 父の日の贈り物は、ママに先を越された。うちの泥は、ほとんど父の一輪車が運んだ。


 ママは、泥だらけの私を、頭から足まで見た。


「まめ。溝さらいは、泥ば上げる仕事よ。泥に入る仕事やなか」

「……知っとーもん」


 それから、泥だらけのスイを見た。


「男前は、泥もよう似合うとね」


 スイは、泥のついた両手でおにぎりを受け取って、深く頭を下げた。


 ママは、その頭の下げ方を見ていた。男前のお辞儀にも、弱いらしい。


  ◇


 二個目のおにぎりを食べていると、分かれの升の前に、祖父とママが並んで立っていた。


 二人とも、流れていく水を見ていた。


「茂」

 ママが言った。


「あの夏は、この溝に、一滴も来んかったね」

「……ああ」

 祖父は、少し間を置いた。


「千代」


 私は、二個目のおにぎりを持ったまま止まった。


 ママを名前で呼ぶ声を、私は初めて聞いた。地区の人は、みんな「ママ」と呼ぶ。王子も、颯太も、直売所の三人組も。


 じいちゃんだけが、千代、と呼んだ。


 ……じいちゃんとママ、昔、なんかあったと!?


 頭の中で、少女漫画のページが、勝手に一冊ぶんめくれた。


 スイが、二人のほうを見ていた。


「あの夏、とは」

「日照りの夏たい」


 日照り、と聞いたとき、スイの手が一度だけ握られた。向こうの村のことを思い出したのかもしれない。


「昔の話たい」とママは言って、溝から目を離さなかった。


 祖父は、麦わら帽のつばを、少し下げただけだった。


 当たり前の顔で流れていく溝しか、私は知らない。

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