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第10話 男二人で水門を見に行くな

 台所のカレンダーの十五日を、母が指でとんとんと叩いた。

〔井戸 見学〕

「これ、誰が見学すると?」


 十一日前に、私が書いた字である。誰が見学するのかは、書かなかった。書かなかったところを、母は読んでいた。

「……通訳」

「通訳?」

「王子の博多弁、早口やけん。スイには、通訳がおるやろ」

「スイくん、じいちゃんの言葉も分かりよるよ」

 知っている。あの人は、うちに来た朝から、祖父の「長か。スイでよか」も、直売所の三人組の「腕の太かねえ」も、ぜんぶ聞き取っている。字は一文字も読めないのに、耳だけは、この地区のどの言葉にも追いついている。

 通訳の出番は、最初からなかった。


 その本人は、縁側から空を見上げていた。

 梅雨に入ってから、この人は、雨が降るたびに外へ出て、雨に礼をしている。十一日で、九回。一回目は段々畑で片膝をついて長々とやったのに、日に日に短くなって、ゆうべは軒下で一回、頭を下げただけだった。向こうでは年に数えるほどしか来ない雨が、ここでは毎日のように来る。礼のほうが、雨に追いつかなくなってきている。

 今朝は、梅雨の晴れ間だった。


「まめは、夏肥。下の四段」

 祖父が、麦わら帽をかぶりながら言った。

「今年は実の少なかけん、上は、まだよか」

 夏肥。夏の前に、木にやる肥料だ。これから太っていく実の分と、実に取られて木がやせる分を、先に足しておく。裏年は、実のついた木から先にやる。

 ……分かっとー。今日やるつもりやった。

 残りの段の黒点病の薬は、先週の晴れ間に、三人で済ませてある。今日の私の仕事は、肥料のバケツだ。見学の欄は、祖父の一言で埋まった。


 九時ちょうどに、吉武が坂を歩いて上がってきた。

 前髪は、決まっていなかった。笹舟の勝負の朝と同じだ。本気の日は、決めないらしい。井戸の案内に、本気である。

「スイ、行くぞ」

「うちも……」

「男の水回りの話たい」

 水回りは、台所と風呂のことやん。

 言い返す前に、スイが胸ポケットに野帳を差して、私のほうを向いた。

「まめ。行ってくる」

 まめ、と呼ばれるのに、まだ慣れない。呼ばれるたびに、耳が半拍遅れて熱くなる。

 二人は、境の石垣を越えていった。男二人で。

 ……池から引き上げたのは、うちなのに。

 引き上げられたのは、うちのほうやったけど。


  ◇


 夏肥は、肥料をバケツに入れて、木の下の、枝の広がりの内側に、ぐるりとまいていく。一本ずつ、木の大きさと実の付き方を見て、量を決める。

 どの木から始めるかは、まく人の自由である。私は、下の段の、境の石垣にいちばん近い木から始めた。

 石垣沿いから攻めるのは、効率の問題である。どこから始めても、まく量は変わらないので。

 いちばん下の段の端からは、用水路をはさんで、王子の園の石垣が見える。王子の井戸は、その石垣の上、王子の園のいちばん下の段の端にある。子どものころから知っている。


 石垣の向こうから、声が聞こえてきた。

 私は、分かれの少し下まで下りて、右の溝をまたぎ、石垣寄りの岸に立った。笹舟の勝負の日に、二人でザリガニの穴をふさいだ岸である。石垣に、耳をくっつけた。石は、ひんやりしていた。

「ここが、親父の掘った井戸たい。深さ二十メートル」

「水は、どこから来る」

「山のほうからたい。雨が、土の中ば下りてくると」

「海は近い。塩は、混じらないか」

「夏に汲みすぎたら、塩の上がってくる。やけん、うちは汲みすぎん。親父の代から、そうしとる」

 王子は、答えるとき、一回も詰まらなかった。自分の宣伝のとき以外は、本当にきっちりしている。

 少女漫画なら、物陰で聞いてしまうのは、だいたい告白である。

 うちが聞いとーのは、井戸の深さである。

 九個目。十個目。

 質問を数えてしまうのは、毎朝、目印の木のあの枝の、四十一しかなかった花を数えていた癖だ。十一日前の申告は、二十六。まだ半分もいっていない。

「昼からは、川の井堰ば見せちゃる。男二人で」

 井堰まで、男二人で。


「水面は、どこまで下だ」

「測っちゃる。待っとけ」

 王子の足音が、ポンプ小屋のほうへ遠ざかった。それきり、何も聞こえなくなった。

 ……なんしよーと?

 石垣は、私の背より高い。向こうは見えない。

 私は、腰の水筒が石に当たって音を立てないように外して、石垣の根元に置き、空になったバケツを裏返して、その上に乗った。石垣のふちから、目だけ出した。

 目の高さに、王子の園の草があった。その向こうで、スイが一人、井戸のそばに片膝をついていた。自分の水筒の水を手のひらに受けて、小さく頭を下げる。

 笹舟の勝負の日に、右の溝で見たのと同じお辞儀だった。手のひらの水が、ひとりでに細くのびて、今度は、まっすぐ下を指した。

 ちょ、それ、王子に見られたらいかんやつやん。

 水は、王子が戻る前に、スイの水筒へ帰った。スイは地面に伏せて、井戸から突き出た太い管に、耳をくっつけた。

 王子が、重りのついたロープを持って戻ってきた。

「水面は、ここから十二メートル下だ」

「……なんで分かると?」

「聞こえる」

 王子は、管のふたの小さな栓を抜いて、ロープを下ろした。ぽちゃん、と小さな音がした。そこから少し下ろして、引き上げる。濡れて色の変わったところの目盛りを、指でたどった。

「……十二メートル。梅雨のあいだはポンプば回さんけん、これが、ほんとの水の高さたい」

 王子が、顔を上げた。

「おれの井戸のことを、おれより先に当てるな」

 それから、ロープを放り出して、自分も地面に伏せた。管に、耳をくっつける。

「おれだって聞こえる!」

 また、そこ張り合うと!?

 私は首を引っこめて、もう一度、石に耳をくっつけた。

 井戸のそばでは、男二人が、地面に伏せて管に耳をくっつけていた。

 石垣のこっち側では、私が、バケツの上で石に耳をくっつけていた。

 土曜の朝の芹ヶ浦で、三人が、何かに耳をくっつけていた。


 石垣の向こうで、何かを出す音がした。私は、また目だけ出した。

 王子が起き上がって、作業着の胸ポケットから財布を出し、カードを三枚抜いた。トランプくらいの大きさで、片面にダムの写真が刷ってある。

「スイ。これ、知っとるや」

「札か」

「ダムカードたい。ダムの管理所に行ったら、一枚もらえる。平日の昼しか、もらえんところもあるけど」

 スイは一枚を両手で受け取って、長いこと見ていた。字は読めないから、写真の水を見ているのだと思う。

「これは、何と書いてある」

「力丸ダム」

「……力丸どのと、同じ名だ」

 スイの声が、少しだけ厳かになった。

「力丸どのは、ダムの家の人なのか」

「ちがうやろ」

 この人の長い名前には、泉の名前が入っている。名前に水の場所が入っていたら、その水の家の人だと思うのだろう。次に力丸さんに会ったら、この人は、いつもより深く頭を下げる。

 スイは、カードを両手で王子に返した。

「全部、集めたい」

 王子の三枚のことではなかった。この人の目は、もう、福岡じゅうのダムを見ていた。


「今度、ダムも連れてっちゃろうか。男二人で」

 バケツの上で、息が止まった。

 スイは、すぐには答えなかった。

「ダムは、まめと行く」

 王子が黙った。私も黙った。

「……なしや」

 少女漫画なら、この次に来る理由は、一つしかない。

「まめは、ブレーキを踏む場所が、毎回同じだ」

 理由が、運転だった。

 運転、やった。

 それなのに、膝から力が抜けた。この人は、助手席から、私の運転を見ていた。

 作業着を買いに行った帰りと、いずみの帰り。家の前の坂で、二回だけ、ずれた。二回とも、あんたのせいで。

 私はバケツから降りて、石垣の陰にしゃがみこんだ。空のバケツを、両腕で抱えた。


  ◇


 昼ごはんに、スイだけ戻ってきた。

「昼からは、王子と川の水門へ行く。王子は、井堰と呼んでいた」

「……ふうん」

 知っとー、とは言えなかった。午前中の私は、夏肥をしていたことになっている。

 井堰は、川をせき止めて、下の地区の田んぼへ水を引きこむところだ。代かきと田植えで、一年でいちばん水の要るころである。まだ植えている田んぼもある。この人が行かないわけがない。

 一時に、王子の軽トラが坂を下りていった。


 午後も、夏肥を続けた。父は、会社の用で朝から町に出ている。下の四段は、私一人の受け持ちだ。

 仕事は、はかどった。話し相手がいないと、手が速い。はかどりすぎて、バケツが空くたびに顔を上げていた。下の農道のほうを、見ていた。

 軽トラの音を、三回聞き間違えた。一回目は宅配の車で、二回目は隣の地区の軽トラで、三回目は、なんの音もしていなかった。

 なんで顔を上げるのかは、考えないことにした。考えたら、肥料の量をまちがえる。

 四時前に、下の四段が済んだ。午前の遅れは、午後で取り返した。


 夕方、王子の軽トラが戻ってきた。

 助手席のドアが開いて、スイが降りてきた。降りるなり、その場にしゃがみこんだ。顔色が、雨の日の空と同じだった。

「……王子の軽トラは、揺れる」

 作業着を買いに行った帰り、うちの軽トラでも「……揺れる」と言った人である。あのとき私は「揺らしとらんよ」と言った。

 今日、王子の軽トラが証明してくれた。

 勝った。何に勝ったのかは、自分でもよく分からない。

 私は、腰の水筒を差し出した。

 王子が、運転席から降りてきた。

「こいつ、水門の前で泣いたぜ」

「王子も泣いていた」

「泣いとらん!」

 王子は前髪を整えようとして、手を止めた。

「……少ししか」

「井堰の番の、じいちゃんの前でな」と王子が言った。「毎朝、一人で、手で水門ば開けよる人たい。五十年」

「水を、五十年、毎朝配ってきた人だ」とスイが言った。「礼は、短くできなかった」

 雨には軒下で一回になっていた礼が、水を配る人には、長く戻ったらしい。番のおじいさんが泣きだして、王子も、つられたのだという。

 笹舟の勝負の日、泣こうとして一滴も出なかった人である。「泣くのは、採点に入りません」と言う人は、今日はいなかった。

「それと、こいつの質問な。最初に二十六て言いよったとが、四十超えたぜ」

 うちが数えたのは、十まで。……とは、言えなかった。


 夕飯の煮物を一口食べて、スイが真顔で言った。

「ばりうまか」

 言いたいことがあると皿に盛る母が、にこにこして、スイの小皿に煮物を足した。

「それ、王子の言葉やん」

「井堰で、おじいさんが冷やしたきゅうりをくれた。王子が、そう言っていた」

 男二人で出かけると、男前に、余計な言葉が一つ増えて帰ってくる。


  ◇


 夜、離れの縁側に出ると、スイが先に座っていた。指を折って、何かを数えている。

「王子の札は、三枚あった」

 知っとー。

「ダムの写真が刷ってあって、ダムへ行けば、一枚もらえる。この地には、ダムがたくさんあるらしい」

「福岡には、いっぱいあるよ」

「平日の昼しか、もらえない所もある」

 スイの肩が、少しだけ下がった。平日の昼は、うちの園の仕事の時間だ。

 好機、という二文字が、頭の中で光った。

「……夏に、うちが連れて行っちゃる」

 スイが、こっちを向いた。

「仕事の、研修として。水の設備を見るのは、園の勉強になるけん」

「約束だ」

 即答だった。

「……王子にも、そう言いよったもんね」

 言ってから、口を押さえた。

 遅かった。

「聞こえていたか」

「き、聞こえとらん! うちは、夏肥しよったけん!」

「まめの水筒が、午前中ずっと、石垣のそばにあった」

 ……水筒。

 この人には、水筒の中の水が、見えるらしい。石垣の根元に置いたまま、午前中ずっと動かなかった水筒の水が。

「夏肥やけん。……石垣沿いの」

「石垣沿いの木は、よく肥えただろう」

「量は、ちゃんと量った!」

 本当である。石垣沿いの木にも、まん中の木にも、その木の分だけまいた。盗み聞きはしても、木に嘘はつかない。

 スイは、少しだけ笑った。


 部屋に戻って、恋愛計画表を開いた。紙には、まだ五つしか書いていない。いずみの夜、心の中で足した六つ目を、先に書き写した。


〔その六 デュエット(王子に取られた)〕

〔その七 ダム(研修)〕


 ダムは、まめと行く。

 あれが、石垣のこっち側に聞かせるための言葉だったのかどうかは、聞けなかった。

 聞いたら、この人は、正直に答えるので。

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