第9話 雨に礼をする男に傘を差す
「君は、なぜ豆なのだ」
朝ごはんのそら豆を一粒つまんだまま、うちの居候が、真顔で聞いた。
梅雨入りの朝に、いきなり存在の根っこを問われた。
ことの起こりは、三秒前の祖父である。
「まめ。豆ば取ってくれ」
食卓の真ん中に、家の畑の最後のそら豆が、塩ゆでにして山盛りになっていた。私は鉢を祖父のほうへ押した。それを見ていた彼が、私と、豆と、もう一度私を見た。
まめが、豆を取った。耳で聞くと、そうなる。
「……あだ名。小さいけん、まめ。地区の人は、みんなそう呼ぶと」
「茂どのも、そう呼んでいる」
「じいちゃんは、まめに働くけん、まめって言う」
「まめに、とは」
「よう働く、ってこと」
どっちの由来でも、二十歳の女につけるあだ名ではない。この話は、ここで終わるはずだった。
彼は、つまんでいたそら豆を、目の高さまで持ち上げた。
「村でも、豆を作る」
皮ごと、じっと見ている。
「麦の取れない乾いた年でも、豆は最後まで実をつける。小さいが、強い」
それから、私を見た。
「……いい名だ」
箸が、止まった。
物心ついたころから、いやだったあだ名である。小さいから、まめ。言われるたびに、その場で小さく跳ねて抗議してきた。それが今、乾いた年でも最後まで実る豆として、朝の食卓で褒められている。
どういう顔をすればいいのか、分からない。分からないまま、耳だけが先に熱くなった。
「姉ちゃん、豆で照れとー」
トーストをくわえた颯太が、朝練に出る前の、いちばん余計な一言を置いていった。
母は何も言わずに、彼の小皿にそら豆を足した。うちの母は、言いたいことがあると、皿に盛る。
テレビの天気予報が、九州北部の地図を映していた。
「九州北部は、きょうにも梅雨入りしそうです。夕方から、雨が降り出すでしょう」
私は、そら豆をまとめて三つ口に入れて、立ち上がった。
「雨の前に、終わらせる仕事があるけん」
彼は、窓の外を見た。空は、まだ白いだけだった。
「雨が、来るのか」
声が、弾んでいた。
この人がうちに来てから、雨らしい雨は、まだ一度も降っていない。
薬をかける朝に、雨と聞いて声を弾ませる人を、私は初めて見た。みかん農家では、雨の来る日は、朝から急ぐ日だ。
◇
作業場の前に、祖父が赤い機械を出していた。
くすんだ赤の、ところどころ塗りのはげた、中古の動力噴霧器。エンジンの力で薬を霧にして、木に吹きつける機械だ。
笹舟の勝負の朝、溝を吹こうとして、力丸さんに「洗っても、残るものがあります」と止められた、あの噴霧器である。
設備投資、デビュー戦で出場停止。あれから二週間あまり、作業場の隅で、表向きはおとなしくしていた。
今日が、復帰戦らしい。
よく見ると、ホースが新しかった。巻いた跡のくっきりついた、つやつやの黒いホースだ。
「ホース、新しいやん」
「替えた」
ホースの先の、霧を出す金具まで、ぴかぴかだった。
「先っぽも?」
「替えた」
「替えられんとこは?」
機械の中の、ポンプのことだ。
「水ば通した」
「何回?」
祖父は答えずに、顎で下の段をしゃくった。いちばん下の段の、甘夏の木だった。
思い出した。十日ほど前の夕方、下の段で、エンジンの音が少しだけしていた。祖父が草刈り機を回しているのだと思っていた。
「……あの木に、機械に通した水を吹いて、葉っぱに何か出らんか見よったと?」
「十日、見た」
甘夏の葉は、今朝も、つやつやしていた。
「出らんかった、だけたい」
大丈夫、とは言わなかった。
力丸さんに言われたとき、祖父は一言も言い返さなかった。言い返すかわりに、ホースを替えて、先を替えて、中に水を通して、甘夏を一本だけ濡らして、十日待っていた。
……じいちゃん、そういうとこやけんね。
口には出さなかった。祖父はもう、エンジンの油を見ていた。
今日の仕事は、防除だ。病気や虫から木を守る薬を、木にかける。
噴霧器と、薬を混ぜる大きなタンクは、モノレールの荷物台車で、いちばん上の段まで上げた。人間は、歩いて上がった。
ポンプ小屋の蛇口から、池の水をタンクに入れる。私はホースの先を、タンクの水面より、こぶし一つぶん上で止めた。
「なぜ、離す」
隣で、彼が聞いた。
「薬を混ぜた水が、ホースから池に吸い戻されんように。池の水は、下の田んぼにも行くけん」
彼は、何も言わなかった。
ただ、私の手もとを見ていた。うちに来た朝、池の取水口に見とれていたのと、同じ顔だった。
……ホースの先を、持っとーだけなんですけど。
薬の分量は、祖父がJAの防除の表のとおりに、池の柵から離れたところで合わせた。うちの薬は、毎年、祖父が決める。
「その水で、何を守る」
「黒点病。……実に、黒い点々ができる病気」
私は、木の中のほうを指さした。
「枯れた枝に、カビが住んどーと。雨が降ると、そのカビが、しぶきと一緒に跳ねて、小さい実にうつる。うつった実は、皮に黒い点々が出て、見た目で値段が下がる。中身は同じでも」
だから、雨の前に薬をかけて、降り出す前に乾かしておく。乾いていれば、雨に流されにくい。
彼は、白い空を見上げた。
「雨が、病を運ぶのか」
「運ぶよ。しぶきで」
雨が来ると聞いて弾んでいた声が、少しだけ低くなった。
全部の段は、一日では回りきらない。今日は、祖父の決めた、古い木の多い上の四段から。年寄りの木ほど、枯れ枝が多い。残りは、梅雨の晴れ間に回す。
防除の日は、身なりから仕事である。
雨がっぱの上下を着てフードをかぶり、ゴム手袋をはめ、長靴をはき、農薬用のマスクとゴーグルをつける。薬の霧を、肌にも口にも目にも入れないためだ。彼にも、父の雨がっぱを着せた。袖が足りないのは、もう誰も気にしない。
支度のできた彼を見て、私は一歩下がった。
顔のいい男の、顔が、ひとつも見えない。
すぐに曇るゴーグルと、ごつい農薬用のマスクの向こうに、たしかに美形がいるはずなのに、見た目は、雨の日の工事現場の人だった。うちの池から出てきた朝から、顔の見えないこの人と並ぶのは、今日が初めてだ。
上の段で、祖父がエンジンの紐を引いた。一回目で、かかった。復帰戦は、気合いが違う。
私がホースの先の金具を持って、木のあいだに入る。彼は、私の後ろでホースを送る。枝や石に引っかからないように、ちょうどいい長さを送り出す係だ。
「水の通る管を、持たせてもらえるのか」
声が、今朝より弾んでいた。中身は薬である。
三本目の木の前で、後ろから声がした。
「その木の中に、水の上っていない枝がある」
ゴーグルの向こうで、彼が木の真ん中を見ていた。
「水の、上っとらん枝?」
「ほかの枝には、根から水が上っている。ぼんやりとだが、分かる。そこの一本だけ、何も上っていない」
私は霧を止めて、葉っぱをかき分けた。外からは、緑の葉しか見えない。腕を肘まで入れて、やっと指に当たった。鉛筆くらいの、灰色の枝だった。押すと、ぽきりと乾いた音がした。
枯れ枝だ。さっき話した、黒点病のカビの住みかである。
腰の剪定ばさみで、根元から切って、袋に入れた。カビの住みかを、園に落としていくわけにはいかない。
見つけたのは彼で、枯れ枝だと分かったのは私だった。
「まめ。次の木にも、一本ある」
ゴーグルとマスクの向こうから、聞こえた。
「……あんたまで!」
祖父と、地区のおじちゃんおばちゃん全員と、直売所の三人組と、ママに続いて、とうとう池から来た人まで。
しかも、この人に初めて呼ばれたのが、工事現場の人みたいな格好の、曇ったゴーグルの奥からだった。
少女漫画なら、初めて呼び捨てにされるのは、雨の中か、夕焼けの帰り道である。
いつもなら、ここで跳ねる。今日は、雨がっぱが重くて跳ねられなかった。そういうことにしておく。
この人の「まめ」は、たぶん、乾いた年でも実る豆のほうだ。
霧を、下から、横から、木の内側へ吹いていく。
「内側の葉が、乾いている。左の下だ」
彼が言うたびに、霧の向きを変えた。霧の当たった葉の水を、この人は、たぶん、ひとつずつ分かっている。用水路のそばの木は、溝に背を向けて吹いた。
目印の木の、花が四十一しかなかったあの枝も通った。花びらはもう全部落ちて、かわりに、豆粒ほどの緑の実が、葉のあいだに並んでいた。今朝から、豆がやけに目につく。その一粒ずつにも、霧をかけた。
タンクに水を足すたびに、三人で休んだ。今日の分の最後の木が終わったのは、昼を少し回ったころだった。
噴霧器は作業場の前に下ろして、きれいな水を何度も通した。洗った水は、裏の草地にまいた。溝にも、池にも、流さない。彼は、その水の行き先を、最後まで見ていた。
防除のあとは、順番に風呂に入って、着替える。
作業場のラジオが、九州北部は梅雨入りしたとみられます、と言った。空は、まだ白いだけだった。葉の上の霧は、乾いていた。
間に合った。……じいちゃんの噴霧器、復帰戦、勝ち。
◇
雨は、夕方の四時過ぎに来た。
最初は、作業場のトタン屋根を、ぽつ、ぽつ、と叩く音だった。それがすぐに、ざあっという音になった。斜面じゅうの葉っぱが、いっせいに鳴りだした。
噴霧器にカバーを掛けながら、気づいた。彼がいない。
作業場の窓から、段々畑を見上げた。
中ほどの段に、人が一人、片膝をついていた。風呂のあとに着替えた、乾いたシャツ一枚で、両手のひらを空へ向けている。
玄関の棚から、折りたたみ傘をつかんで走った。
町へ作業着を買いに行った日に、トートバッグに入れていった傘だ。恋愛計画表のその一は、相合傘。注意書きは「雨の確率を事前に確認すること」だった。今日は、確かめるまでもなかった。梅雨だった。
段を三つ駆け上がったところで、足が止まった。
彼は、礼をしていた。
池の縁で見た、あの長い礼とは違った。手のひらに水は浮いていない。指先も、どこにも触れていない。両手を空へ差し出したまま、私の知らない言葉で、ゆっくり何かを言っている。言葉の切れ目ごとに、雨が彼の手のひらにたまって、指のあいだからこぼれた。
雨粒が、彼の髪を、肩を、背中を、まっすぐ打っていた。
私は、彼の上に傘を差した。
膝をついている彼には、ちょうどいい高さだった。
あの日、快晴の広場で、この人は私の傘の上だけに雨を降らせて、自分は傘の外にいた。片膝をついて、日なたで。
今度は、私が傘を差す側だった。
肩を打っていた雨がやんだとき、彼のまぶたが、一度だけ動いた。それでも、言葉は止まらなかった。目を閉じたまま、三度、深く頭を下げた。
私は、傘の柄を両手で握っていた。雨の音しか、聞こえなかった。
礼が、終わった。
彼が目を開けて、上を見た。傘の内側を見た。
「……雨が、止んだ」
「止めたと。風邪ひくやん」
「雨に、礼をしていた」
「見たら分かる」
彼は膝をついたまま、傘の外へ片手を出した。手のひらに、また雨がたまっていく。
「村では、雨は年に数えるほどしか来ない。来た日は、村じゅうが外に出て、礼をする。水当番も、その日は休みになる」
水当番が、休み。弟子の子が手紙で鍵のことを聞いてきた、あの倉庫の桶も、雨の日だけは出番がないらしい。
「だから、雨の日に傘を差す者は、いない。雨を止める者も」
止めたのは、私だった。
「……ここの雨は、病気も連れてくるけん。喜ぶだけやないと」
「今朝、聞いた」
彼は、手のひらの雨を、そっと足もとの土にこぼした。
「それでも、礼はする」
彼が、立ち上がった。
傘が、彼の顎の下になった。
膝をついていた男は、立つと、頭が私の傘のはるか上にあった。そうだった。うちの池から上がってきた朝から、私の目の高さには、ずっとこの人の胸がある。
背伸びをした。腕を、伸ばせるだけ伸ばした。傘のてっぺんが、やっと彼の頭の上に来た。
腕が、ぷるぷるする。午前中ずっと、噴霧器の金具を構えていた腕である。長靴のつま先が、ぬかるみに沈む。二の腕の裏で、何かが、ぴん、と鳴った。
つった。
「いっ……!」
傘が傾く前に、上から、大きな手が下りてきた。
彼の手が、傘の柄を握る私の手を、上から包んだ。そのまま、傘を、ちょうどいい高さまで持ち上げた。
一本の傘の下に、二人がいた。
……その一。相合傘。
ずぶ濡れの人を、あとから傘に入れても、相合傘は相合傘である。私が今、決めた。
柄の上で、手が重なっている。
その五。手をつなぐ(自然に)。……これは、数に入るとやろうか。
入れたい。でも、手をつなぐ、は、たぶん、こういうことではない。保留。
つった腕は、まだ痛かった。
傘が、少しだけ、私のほうへ傾いた。傾けたのは、私の手ではなかった。
「まめ」
雨の音の中で、彼が言った。今度は、ゴーグルもマスクもなかった。
「……傘を差してもらったのは、初めてだ」
あんたまで、とは、もう言えなかった。
◇
父と颯太が帰ってきても、雨はやまなかった。
夕飯の途中で、彼が箸を止めて、天井のほうを見た。
「池が、満ちていく」
台所から池は見えない。それでも、この人には分かるらしい。段々畑のいちばん上で、うちの池が、雨を一杯ずつ受けとって、少しずつ太っていく。
「……昼の薬は、乾いてから降ったけん。大丈夫」
誰にも聞かれていないのに、言っていた。
スマホが鳴った。吉武からだった。スイは電話を持っていないので、スイあての話は、だいたい私に来る。
【吉武】スイに言うとけ。井戸、親父がよかって
【吉武】十五日の土曜。男二人で
笹舟の勝負で、この人が勝ち取った井戸だ。あの賭けの賞品の欄に、私の名前は、最初からなかった。
「スイ。王子が、井戸見せるって。十五日の土曜」
彼の箸が、置かれた。
それから、指を一本ずつ折りはじめた。右手の五本が折れて、左手の五本が折れて、右手がまた開いて、また折れていく。
「……何しよーと?」
「聞くことを、数えている」
指が、止まった。
「二十六ある」
「二十六も!?」
「二十六も聞かれたら、光司くん、今度こそ泣くっちゃない?」と颯太が言った。
彼は、もう一度指を開いて、最初から数えなおしはじめた。たぶん、数えているあいだに、二十七個目ができる。
私は、スマホの画面をもう一度見た。
男二人で。
……男二人で?
二十六の質問のどこにも、私の入る場所はなさそうだった。
うちの池から出てきた男を、隣の園の王子が、男二人で連れていくらしい。
私は、台所のカレンダーの十五日に、小さく書いた。
〔井戸 見学〕
誰が見学するのかは、書かなかった。




