第4話 ミアの記憶
儀式の堂の脇には、巫女の控えの間がある。
ミアは、そこで、儀式の準備の合間に、一人になった。
長老たちは儀式の最終確認に堂の奥に入り、見習いの巫女たちは、香炉の準備で外に出ていた。
控えの間は、しばらく、彼女一人の場所だった。
板の上に座り、両手を膝に揃える。
深く、息を吸い、ゆっくりと、吐く。
——心を、整える。
それが、巫女の最初の作法だ、と母は教えていた。
母のことを思うと、ミアの胸の奥が、わずかに重くなる。
母は、もう、七年も前に、この世にいない。
——
ミアが八つになる年に、母は、季節の祭祀の最後を担当して、その後の冬に、原因の分からぬ病で逝った。流行り病、と里では言われた。
けれど、思えば、それが、後に災厄の前兆と呼ばれる病の、最初の一例だったのかもしれない。
母は、巫女の継承者として、最期まで、ミアに、巫女の作法を教えていた。
「あなたは、いずれ、新しい器に仕える。心と、身を、ともに」
その言葉の意味を、ミアは、その頃、まだ、十分には分かっていなかった。
「いつか、その器が、現れる。それが、いつかは、誰にも分からない。けれど、必ず、現れる。あなたは、その時、迷わずに、そこに、立ちなさい」
母は、そう、ミアの頭を、撫でていた。
その手の温度を、ミアは、まだ覚えている。
——
母を亡くしてから、ミアは、独りで、巫女の訓練を続けた。
長老ラドウィックが、教えに来てくれた。
叔母も、生きている間は、教えてくれた。
けれど、叔母も、二年前に、逝った。
ミアは、独りだった。
幼馴染の、フィンが、いた。
フィンは、ミアより、三つ上の少年だった。
里長カイルの息子で、利発で、けれど、押し付けがましくない子だった。
ミアは、彼のことを、実の兄妹のように、慕っていた。
そう、思おうとしていた。あの日まで。
——
ミアが、十歳のころ。
里の外れの、小さな川辺に、フィンと二人で、遊びに行った日だった。
その日のことは、断片的にしか、覚えていない。
魔物だった。
里の結界の、内側に、なぜ、魔物が入り込んだのか、今でも、分かっていない。
けれど、現れた。
突然に、川のほとりの繁みから、濡れた牙を剥いて、彼女に向かって、跳んだ。
ミアは、悲鳴を上げた。
声にならない悲鳴を。
その時、フィンが、彼女を、突き飛ばした。
ミアは、地面に倒れた。
土の匂いが、鼻に届いた。
背の上に、強い衝撃を感じた。
それから——
——
「ミア!」
声を、聞いた。
「ミア、無事か」
フィンの声だった。
けれど、フィンの声は、おかしかった。
喉に、何かが詰まったような、苦しそうな、声。
「フィン……?」
ミアは、起き上がった。
そこに、フィンが、いた。
立っていた。
けれど、彼の腹の脇に、深い切り傷があった。
血が、流れていた。彼の足元の地面に、紅い、染みが広がっていた。
その隣に、魔物の死骸があった。
フィンが——フィンが、何かを、した。
まだ十三だった彼が、ただの少年だった彼が、どうやって、こんなことを……
「ミア、無事か」
「フィン、フィン、駄目、それ、駄目だよ……」
ミアは、しゃがみこんで、フィンの足にしがみついた。
「動かないで、フィン、お願い、動かないで」
「……うん」
フィンは、その場に、座り込んだ。
彼の傷から、血は、止まらなかった。
ミアは、悲鳴を、上げた。
今度は、声に、なった。
——
その後の記憶は、断片的だ。
里人が、駆けつけてきた。
フィンは、運ばれた。彼女も、運ばれた。
彼女には傷はなかったが、震えが、止まらなかった。
長老たちが、フィンの治療をしたが、何日も、フィンは、目を覚まさなかった。
ミアは、フィンの傍に、ずっと付き添っていた。
——
そして、ある日、長老ラドウィックが、ミアを呼んだ。
「ミア。おまえに、話がある」
長老の顔は、奇妙な表情をしていた。
緊張と、困惑と、それから——わずかに、希望のようなものが、混ざっていた。
「フィンに、継承の証が、現れた」
「……何ですか、それは」
「彼は、継承の器なのだ。ミア、おまえは、母から、聞いていただろう。器に仕える、巫女の役目を」
ミアは、息を、止めた。
「フィンが……?」
「うむ」
長老は、肯いた。
「彼が、おまえの仕える、器だ」
——
その日のことを、ミアは、生涯、忘れない。
それは、悲しみと、喜びが、同時に来た日だった。
悲しみは——フィンが、もう、ただの幼馴染ではなくなったということ。
彼は、これから、長老たちに教育され、世界の運命を背負うことになる。
彼は、もう、自由には、生きられない。
喜びは——ミアは、それを、誰にも、言えない。
長老にも、ガレン兄さんにも、フィンにすら。
ミアは、彼を、好きだった。
子供の時から、好きだった。けれど、巫女に生まれた自分は、いずれ現れる継承の器に仕えると、母から教えられて育った。
フィンは、村長の息子。継承者ではない。
だから、ミアは、彼を、好きになっては、ならなかった。長く、長く、その思いを、押し殺してきた。
それが——彼が、自分を庇って、深手を負ってまで、守ってくれた。
その上、彼自身が、継承の器になった。ミアが仕えるべき器が、フィンになった。
我慢する理由が、消えた。押し殺してきた思いが、その日、堰を切ったように、ミアの中に、溢れ出した。
「心と、身を、ともに」——母の言葉が、その時、初めて、ミアの中で、はっきりとした意味を持った。
——
何年も、ミアは、そのことを、誰にも、言えずにきた。
フィンには、特に、言えない。
彼は、ミアのことを、まだ、姉妹のように——あるいは、妹のように——見ているような気がする。
けれど、最近——ここ一年ほど——フィンの目が、少しだけ、変わったような気がする。
ミアを見る視線が、ほんの少しだけ、長くなる。
それを、ミアは、密かに、嬉しく感じている。
——
控えの間で、ミアは、深く、息を吐いた。
もうすぐ、儀式が始まる。フィンが、初めての継承を受ける。
「絶対に、無事でいてね」
朝、フィンに、そう言った。
その言葉は、本当だった。
フィンを、支え、共に、歩む。
ミアは、その決意を、もう一度、胸の中で、確かめた。
控えの間の、外で、足音がした。儀式の準備が、最終段階に入ったらしい。
ミアは、立ち上がった。
巫女衣の裾を、整えた。
そして、控えの間の戸を、開けた。朝の光が、彼女の顔に、降りた。
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