第12話 灯を結ぶ
いつ、眠ったのか、分からなかった。
フィンは、瞼をゆっくり開けた。
洞窟の口から、薄い光が差し込んでいた。
朝だ、と分かった。
焚き火は、もう白い灰になっていた。
体がわずかに傾いている。
ミアの肩に寄りかかったまま、眠っていたのだ。
そう気付いて、フィンは慌てて姿勢を整えようとした。
だが、肩には、誰もいなかった。
「ミア……?」
フィンの声が、洞窟の中に跳ね返った。
慌てて、辺りを見回す。
焚き火の跡。
岩の壁。
結界の青みの光、まだ薄く残っている。
だが、ミアの姿はなかった。
『落ち着け、小僧』
マリウスの声が、内側で響いた。
「マリウス、ミアは」
『お嬢さんなら外におる。結界の届く範囲で、食えるものを探してもらっておる』
「外、って……一人で?」
『心配するな。遠くへは出しておらん。隠蔽の結界も教えた。簡単なものだが、彼女は巫女の業がある。すぐに馴染んでおったぞ』
「でも、どうして」
『何かをしておらねば、崩れそうだったのだ。泣くにも、歩くにも、力がいる。今は、歩く方を選んだ。それだけだ』
『お前のほうは、よく眠っておった。あれだけ走って、あれだけ抱えていた身では、起きておれるほうが無理というものだ』
フィンは息を吐いた。
肩から、強張りがわずかに抜けた。
その時、洞窟の入口の方から、小さな足音がした。
青みの光が薄く揺れた。
ミアが、戻ってきた。
両手に、何か持っていた。
木の実。
野草の葉。
それから、きのこの数片。
彼女の儀式衣の袖を破いた布に、くるんでいた。
「あ、起きた」
ミアが、フィンを見て、小さく言った。
彼女の目はまだ赤かった。
頬の涙の跡も、まだ薄く残っていた。
だが、震えは止まっていた。
動いていることが、彼女に少し息を戻していた。
「ミア、ひとりで、外に?」
「うん。マリウスが、教えてくれて」
ミアは、彼女の手の中の食料を、岩の上にそっと並べた。
小さな、朝の食事だった。
「フィンも、食べて。少しずつ」
「……ありがとう」
二人は、岩の壁に背を預けて、並んで座った。
無言で、木の実を口に運んだ。
味は、ほとんど分からなかった。
だが、噛んで飲み込むたびに、冷えていた腹の奥が少しずつ動き始めた。
ミアの食べる手は、まだぎこちなかった。
だが、ちゃんと食べていた。
フィンも、それを見ていた。
そして、自分も食べはじめた。
——
『さて、二人とも』
しばらくして、マリウスが、調子を変えて口を開いた。
『腹に何かを入れたな。よかろう。少し話そうか』
「……はい」
「はい」
『まずは、改めてだが、これから長い付き合いになる。互いのことを、少し言葉にしておこうか』
『私はマリウスだ。四百年前に、賢者と呼ばれておった一人でな。今は、そこの小僧の中に、間借りさせてもらっておる』
マリウスの声には、軽い調子が混じっていた。
重たくなりすぎない、ちょうどよい温度。
『元素魔術と、ちと精神操作の方を、専門にしておった。賢者などと立派に呼ばれてはおったが、自分では、ただの好事家だと思っておるよ』
「小僧、おぬしの番だ」
マリウスが、続けて促した。
「……はい」
フィンは、少し戸惑った。
それから、息を整えて、言った。
「フィン、です。里の村長の息子です。十三のときに継承の証が見つかって、それからずっと、継承者として訓練を受けてきました」
「マリウスが、僕の中に来た、最初の英雄です」
『うむ。よろしく頼む』
マリウスの声が、今度はミアの方へ向いた。
『お嬢さん、お前さんのことも、聞かせてくれぬか』
ミアが、肯いた。
小さく、しかし、しっかりと。
「私は、ミアです」
ミアは、自分の手を軽く握った。
「フィンの幼馴染で、継承者の巫女です。母から、業を教わりました」
「母は、七年前に病で亡くなりました。巫女の祈りも、結界の扱いも、母から教わったものです。私は、その続きを継いで、今度の儀式に……」
『うむ』
マリウスは、ただ肯いた。
それ以上、急かさなかった。
「兄は……」
ミアの声が、少し止まった。
それから、続けた。
「兄は、ガレン。里の自警団長でした。私とフィンを、逃がして……」
声が、最後まで続かなかった。
ミアは、唇を結んだ。
『うむ。礼を言わせてもらうぞ、お嬢さん。お前の兄君の覚悟があったからこそ、我々はここにいる』
「……はい」
ひと呼吸の間があった。
それから、マリウスが、調子を変えた。
『さて、ちと急ぎの話がある』
「はい」
『この念話の魔術だ。昨日、お嬢さんに繋いだ、あれだな。実は、いつまでも保つわけではない』
「……どういう意味です?」
『儀式の直後の魔力のパスを、間借りしておるのでな。お嬢さんの中の波長が落ち着けば、繋がりは消える。今のままだと、もう一日も保たぬだろう』
ミアが、軽く息を飲んだ。
「マリウスの声が……聞こえなくなる、ってことですか?」
『そういうことだ、お嬢さん。小僧はまだ、私の声を内側で聞ける。だが、お前と私の繋がりだけは、切れる』
「……」
ミアが、唇を結んだ。
『そこで、提案だ』
マリウスが、調子を変えた。
『魔術を別の媒介に移しておく。魔道具だな。物に術を編み込んで、繋ぎを保つ。そうすれば、いつでも三人で話せる』
「魔道具……?」
『うむ。ちょうどよい素材があれば、私が教えるぞ。小僧、お前自身に作らせる。これも、訓練の一環だ』
フィンは考え込んだ。
里に置いてきたものは、たくさんあった。
だが、今、自分たちの手元にあるもの。
そのとき、ミアがゆっくりと自分の襟元に手を入れた。
革紐を引き出した。
その先に、小さな木彫りのものがぶら下がっていた。
「これ、いいかな」
フィンの目が、それに止まった。
それは、見覚えのあるものだった。
彼自身が彫ったものだった。
五弁の小さな花。
真ん中に丸い窪み。
イルケスの花。
去年の冬、ミアの誕生日に、彼が贈ったものだった。
「……まだ、つけてたのか」
「うん」と、ミアは小さく答えた。「ずっと」
革紐は、何度か結び直された跡があった。
木の表面は、彼女の指の跡で、わずかに磨かれていた。
肌身離さず触れていたのだろう、と、フィンには分かった。
『ほう』
マリウスが、内側で響いた。
『これは、よい。小僧が彫ったもののようだな』
「……はい。去年の」
『うむ。手の温度が染みておる。媒介としては申し分ない。お嬢さんがずっと身につけていたなら、波長も馴染んでおろう』
ミアがそれをフィンに差し出した。
フィンの掌に、ペンダントが置かれた。
小さい。
ぬくもりがまだ残っていた。
彼女の、肌の温度。
「……お願い」
ミアが言った。
『さて、小僧。少し難しいことをするぞ』
マリウスの声が、教える調子に戻った。
『まず、刃を出せ。ナイフでもなんでもよい。彫り直すわけではないが、表面に薄く、術の溝を刻む』
フィンが、腰の鞘から、小ぶりのナイフを取り出した。
里を出るときに、無意識に腰に差していたものだった。
『落ち着いてやれ。失敗したら、磨いてやり直せばよい。刻む文様はこのようなものだ』
マリウスの魔力が、空中に淡い図形を描いた。
「はい」
ペンダントの花弁の縁を、ナイフの先がなぞる。
ほとんど削らない。
ただ、薄く線を入れる。
『そうだ。その線に、術の流れが走る。次に、お前の魔力を薄く、ゆっくり線に馴染ませる』
フィンの指先から、青みの光が薄く流れた。
それが彫った線に吸い込まれていく。
ペンダントの木が、内側からわずかに温かくなった。
『ふむ、よい。お嬢さん、お前にも頼みがある』
「はい」
『お前の祈りを薄く、その上に添えてくれ。巫女の業の最も基本のものでよい。「守る」「繋ぐ」、その二つを念じる程度で構わぬ』
ミアが、ペンダントに両手を添えた。
フィンの手の上に、彼女の手が重なる。
ミアが目を閉じた。
唇がわずかに動いた。
古代の祈祷の断片。
母から教わったものだった。
ペンダントが、淡く白い光を纏った。
フィンの青みの光と、ミアの白い光が、ゆっくりと絡んでいく。
『よい、よい。馴染んでおる』
マリウスの声には、満足が混ざっていた。
『ここから、最後の仕上げだ。小僧、お前が最も大切に思っているもの。その想いを、ありったけ注ぎ込め』
「……ありったけ?」
『うむ。物には、想いの分だけ力が宿る。お前の魔力の量より、何を守りたいかの方が、こういう物には強く出る。少し込める者と、ありったけ込める者では、出来上がる物が違う』
フィンの息が、止まった。
大切に、思っているもの。
里の家。
父の、寡黙な背中。
練武場の、朝の霜。
ガレンの、頭を撫でた、大きな手。
「行ってこい」と、最後に告げた、声。
母の、薬を煮る音。
焚き火の、薪のはぜる音。
イルケスの、岩場の白い花。
それから。
フィンの目が、ミアの添えた手に止まった。
彼女の指は、細くて、まだ震えていた。
だが、彼の手の上に、確かに置かれていた。
フィンが、息を深く吐いた。
それから、自分の魔力を、ペンダントに流した。
すべて流した。
惜しまず流した。
止め方を忘れたまま、流し続けた。
ペンダントが、白く光った。
青みと白の光が絡みあって、混ざりあった。
木彫りの溝に沿って細い光が走り、革紐の結び目まで届いたところで、ふっと内側へ沈んだ。
そして、光が収まった。
ペンダントは、もとの素朴な木彫りに戻っていた。
ただ、表面がわずかに温かい。
触れると、ミアの祈りに合わせて、ごく弱い温かさが返ってきた。
『……ふむ』
マリウスの声が、しばらく止まった。
それから、彼は低く笑った。
『これは、これは。やれやれ、小僧。少し込めすぎではないかね?』
「え……?」
『いや、念話には十分すぎる。守りの結界も、まあ形にはなった。だがな、これはちと性質が変わっておるぞ』
「性質……?」
『本来なら、声を繋ぐための小さな器だ。だが今のこれは、守るための芯が太すぎる。並の魔術師の一撃程度なら、触れる前に弾く。竜種の吐息でも、一度なら受け止めかねん』
「……そんなに?」
『そんなにだ。お前、いったい何を込めた?』
フィンの顔が、一瞬で熱くなった。
「いや、それは……大切なものを」
『うむ。それは分かっておる。具体的に、最後に何を考えていた?』
マリウスが、意地悪く聞いた。
「……マリウス」
フィンの口が、何度か開いて、閉じた。
視線が、ミアの方へ逃げる。
ミアが、フィンを見ていた。
彼女の頬は、まだ涙の跡で濡れていた。
だが、その表情に、わずかな戸惑いが混じっていた。
『ほう、これは、これは。お嬢さんへの想い、ということでよろしいかね?』
「マリウス!」
『いや、責めておるわけではないぞ。むしろ、見事な仕上がりだ。これほどの守りを宿した魔道具は、私の四百年の経験でも、二、三度しか見たことがない』
ミアの頬が、ゆっくりと赤くなった。
彼女はフィンを見て、目を伏せて、また見上げた。
「フィン……」
「あ、いや、ミア、これは、その……」
『ふむ、もう隠せぬぞ、小僧』
「マリウス、黙ってて、ください……」
ミアが、小さく笑った。
それは、ほんの僅かな笑みだった。
だが、確かに笑みだった。
昨日から、彼女の顔に戻ってきた、最初のそれ。
フィンも、少し笑った。
笑ったあとで、自分が笑っていることに気付いた。
『うむ、よい』
マリウスの声には、もう、からかいの色はなかった。
代わりに、深い静かな温度があった。
『笑える間は、まだ立てる。覚えておけ、二人とも』
マリウスが、ふっと息を吐いた。
『さて、聞かせてもらった。共に作りもした。では、これからは、フィン、ミアと呼ばせてもらおうかな。「小僧」「お嬢さん」では、ちと距離がありすぎる』
フィンは、唇を結んだ。
内側の温かい声が、深く染み込んだ。
名前を呼ばれた。
「……はい」
ミアも、小さく肯いた。
「はい。私も……マリウス、と」
『うむ。それで、よい』
マリウスは、二人の返事を聞いてから、少しだけ黙った。
(四百年前、私も、長く笑えなんだ)
(妻と娘を失った時。私は家を空けていた。戻った時には、災厄に飲まれた跡だけがあった)
(この子らに、あれほど長く沈む時間を与えるわけにはいかぬ。足を止めれば、恐怖の方が先に育つ)
(だから、少し強引でも、よい。笑える瞬間を作ってやる。それから、もう一度、立たせる)
(私の娘も、生きておれば、こんな顔をしていたのかな)
マリウスの声は、誰にも届かないまま、消えた。
——
『さて』
マリウスが、いつもの調子に戻って続けた。
『ミア、首にかけ直すとよい。フィン、結んでやれ』
ミアが肯いた。
フィンの手から、ペンダントを取り戻して、首に回す。
革紐が、彼女の長い髪を横に流れた。
「フィン、後ろ、お願い」
「……うん」
フィンの指が、彼女の首の後ろの革紐に触れた。
細い、温かい肌の上で。
結ぶ。
丁寧に、二度結ぶ。
ミアの肩がわずかに震えた。
だがそれは、昨日とは違う震えだった。
ペンダントは、ミアの胸の前に戻った。
木の表面が、淡く、内側から温かみを放っている。
触れる者にだけ分かる程度の、温度。
ミアが両手で、それを包んだ。
そして、フィンを見上げた。
「……ありがとう」
「うん」
『ミア、これで私の声は、いつでもお前にも届く。三人で話せる』
「はい」
ミアは、ペンダントをまだ両手で包んでいた。
そこから目を上げて、フィンを見た。
「フィン」
「うん」
「……生きよう、ね」
短い、けれど、それだけで十分な言葉だった。
「うん」と、フィンは答えた。
それから、もう一度、
「うん。生きよう」
——
『さて、二人とも』
マリウスが、続けた。
『これから先、どこに向かうかは、ここから相談だ』
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