第11話 業火のあとに
二人は走っていた。
碑石の脇に口を開けていた、別の通路。
壁の継ぎ目に淡い青みの光が点々と灯り、それだけが唯一の灯りだった。
ガレンの最後の声が、フィンの脚を動かし続けていた。
ミアも震える脚で走っていた。
息はもう整わない。
——
『進め、二人とも。立ち止まるな』
マリウスの声が、フィンの内側で短く響いた。
「マリウス、この先はどこに通じるんですか」
『渡りの環、と呼ぶ古い仕掛けがある。継承者と認められた者しか通れぬ、脱出の機構だ。お前たちを、追手の届かぬ地点まで飛ばす』
「飛ばす——」
『説明は後だ。先を急げ』
フィンはミアの手を引いた。
彼女は何度かつまずきそうになりながら、それでもついてきた。
——
どれほど走ったか分からなかった。
通路がわずかに下り、上り、また下った。
やがて前方の壁に、円形の紋様が見えた。
青みの光が、そこに静かに集まっている。
『ここだ』
マリウスが告げた。
『お嬢さんと共に、円の中に立て。私が行き先を選ぶ』
「は、はい——」
フィンはミアを支えながら、紋様の上に入った。
ミアの脚がようやく止まり、彼女は息を絞り出しながらフィンの腕に寄りかかった。
『送るぞ』
——
光が、フィンの体を包んだ。
足元の紋様が強く輝き、青みの光が二人を覆う。
一瞬の無重力。
そして、足の裏に、別の地面の感触が戻った。
——
そこは森だった。
冷たい湿った空気が肺に流れ込んだ。
頭上に見上げる枝。
木々の隙間から、傾きかけた秋の日が差している。
里の方角は分からなかった。
煙も、火の匂いも、ここまでは届かない。
——
『フィン、急げ』
マリウスの声が、間を置かずに続いた。
低かった。
「マリウス——」
『こちら側の環を、今すぐに壊しておかねばならぬ。塞いだ通路を、無理にこじ開けようとする者があるやもしれぬ。あるいは、別の入口から来る者も。先に潰しておく』
「壊し方が、あるんですか」
『ある。仕組みは単純だ。だが、失敗はできぬ。落ち着いて聞け』
——
フィンの目に、薄い青みの光が見え始めた。
それは足元の、地面の下の見えない筋を辿るように流れていた。
『そこに術の核がある。お前の魔力を絡ませてな、逆位相を当てる。詠唱は要らぬ。図形を頭の中で組め』
「……こう、ですか」
『そうだ。慎重に。乱暴に壊すと、巻き戻しが来る』
フィンの息が浅くなった。
それでも、頭の中の図形を、ゆっくりと組んだ。
指先から青みの光が滲み、足元に伸びる。
地面の下の筋が、わずかに揺れた。
それから、ほどけた。
ほどけて、ほどけて——ほどけきった。
『よし。これでこの環は、もう繋がらぬ』
——
マリウスが、息を吐く調子で続けた。
『これで奴らは、この道では追えぬ。だが油断するな。地表からの捜索は必ず来る。今のうちに距離を稼ぐ』
「……はい」
フィンは自分の手を見た。
握りしめていた剣の柄が、まだ手の中にあった。
ようやく、自分が、立っていることに気付いた。
——
ミアが、その時、地面に膝をついた。
両手で顔を覆い、声を殺して——だが、肩が激しく震えていた。
体がここに運ばれた。
それは分かった。
だが、ガレンは、そこに置いてきた。
フィンも、立っているのが精一杯だった。
ミアの傍にしゃがみ込もうとした、その時——
『ふむ、若い者よ』
マリウスの声が内側で響いた。
優しさを含んでいた。
だが、優しさだけではなかった。
『気持ちは分かる。だが、ここで止まるな』
「マリウス——」
『お前たちはまだ生きている。それは易いことではなかった。それを、まず認めろ』
マリウスの声には、いつもの軽みが薄く混ざっていた。
だが芯のところで、揺るがない硬さがあった。
それが、フィンの脚をもう一度地面に立たせた。
——
『お嬢さん、すまんが、聞いてくれぬか』
マリウスの声が、ふっと向きを変えたように、フィンには感じられた。
内側から外へ——いや、もっと近くへ、何かを伸ばすような感覚。
ミアが顔を上げた。
涙で頬が濡れていた。
だが彼女の瞳は、驚きで見開かれていた。
「……今の、声」
「ミア、聞こえるのか」
ミアが肯いた。
小さく、震える声で。
「うん、あなたが英雄……?」
「マリウス、これは——」
『念話の魔術だ。私の研究の、ちと古い応用でな。お前を起点に、お嬢さんへ声を届ける』
『お嬢さん、こうしておけば、三人で話せる。今は、それが必要だろう』
ミアがもう一度肯いた。
「……はい」
涙の中の小さな声。
だが、確かに応えていた。
——
『さて、少し整理しておこう』
マリウスが調子を戻した。
『今の地点は、私の古い拠点に一番近い隠しの場所だ。拠点そのものではない。それでは、追われた時に拠点ごと落ちる。そうならぬよう、少し離した地点が組まれている。私が選んだ』
「……ここがどこか、は」
『お前たちには、まだ分からぬで、よい。後でゆっくり教える』
フィンは無意識にミアの背に手を添えていた。
——
『フィン、もう一つ教える。お前たちの足跡を消す術だ。風を地面に撫でつけ、匂いと体温を土に沈める。粗くてよい。今は、追手の目を少し遅らせられれば十分だ』
——
フィンの足元に、青みの光がもう一度漏れた。
それは踏みしめた地面を軽く撫でた。
落ち葉の乱れが整い、土の足型が消えていく。
『よし。歩け。お嬢さんも、ついていらっしゃい』
ミアが震える脚で立ち上がった。
フィンが彼女の腕を軽く支えた。
「ミア、行こう」
「……うん」
ミアの声はまだ小さかった。
だが応えてはいた。
——
二人は歩き始めた。
歩きながら、フィンは何度か振り返りそうになった。
だが振り返らなかった。
振り返ることは、ガレンが彼に許さなかったことだから。
——「行ってこい、フィン、ミア」
ガレンの最後の声が、フィンの耳に何度か蘇った。
振り返らなかった、その背中。
切られた左手から、血を滴らせていた、その姿。
フィンの目の奥が熱くなった。
だが彼はそれを押し戻して歩いた。
森の風が、彼らの後ろの足跡を優しく消していった。
——
陽が傾き、影が長くなった。
やがて木々の間の岩肌に、薄い影が見えた。
古い、岩の根方の洞窟だった。
『ふむ、ここでよかろう』
マリウスが内側で言った。
『大きく張る必要はない。お前とお嬢さんの二人分。火と匂いを隠す。それでよい』
フィンが洞窟の入口で術を結んだ。
小さな結界が淡い青みの光を宿して、彼らを覆った。
光は外からは見えない。
そう、マリウスが言った。
——
その内側で、フィンは小さな焚き火を起こした。
赤い炎が、岩の壁をゆらゆらと照らす。
ミアはフィンの隣に座っていた。
膝を抱えて。
焚き火の光の中で、彼女の頬の涙の跡が薄く光っていた。
フィンも岩の壁に背を預けた。
そしてようやく、自分の体が震えていることに気付いた。
冷えだけではなかった。
——
『小僧、お嬢さん』
マリウスの声が、内側で響いた。
今度は二人の両方に届いていた。
「……はい」
「はい」
『今日は、もう休め。これからのことは、明日考える』
「マリウス——」
『お前たちは、よく走った。よく耐えた。今夜は、それで十分だ。眠れるなら、眠れ』
——
ミアがフィンの肩に、頭をもたせかけてきた。
小さく。
彼女の体はまだ震えていた。
だが震えながらも、ミアの呼吸は、少しずつ深くなっていった。
フィンの肩に、ミアの髪の重みが、ふわりと乗った。
儀式衣の薄い香が、まだ残っていた。
(……ミアと、こうして寄り添っていれば、眠れるだろうか)
そんなことを、ふと、考えた。
昨日までなら、互いに気恥ずかしくて、出来なかったはずだ。
だが今夜は、むしろ離れる方が、二人とも、不安だった。
フィンは、彼女の肩に、自分の腕を、軽く回した。
——
ミアの瞼が、震えながら閉じていく。
頬を、涙が一筋、伝った。
それを拭うことも、しなかった。
彼女の睫が、ゆっくりと、止まった。
息が、深くなる。
そして、ミアは、眠りに落ちた。
涙の跡を、頬に残したまま。
——
フィンの体は、まだ強張っていた。
里の燃える音が、まだ耳の奥に残っていた。
父の声。
最長老の声。
ガレンの剣戟の音——その先のことを、フィンは、知らない。
知らないままの、その先が、何度も、頭の中で、繰り返された。
ガレンは、どうなったのか。
父は、最長老は、どうなったのか。
何が出来たか。
何が、出来なかったか。
ガレンを、置いてきたこと。
父の最後の言葉が、聞けなかったこと。
——これから、どこへ行けばいいのか。
明日になれば、答えは、出るのか。
——
ミアの呼吸の音が、岩の壁に、小さく反響していた。
それを聞いているうちに、フィンの考えも、少しずつ、朦朧としてきた。
ミアの肩のぬくもり。
焚き火の、薪のはぜる小さな音。
結界の青みの光。
それらが、彼の意識を、ゆっくりと、沈めていった。
——
岩の天井に、焚き火の光がゆらゆらと揺れていた。
フィンはその揺らぎを、見ていた。
ただ、見ていた。
そして、いつの間にか、彼の瞼も、閉じていた。
焚火の明かりが、二人を、包んでいた。
——第一章「灯らぬ朝、業火の夜」 終
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