第8話 最後のジャンルが「ウサギ」なのは聞いていない
白瀬冬真が最初に理解したのは、自分の身体が人間ではないということだった。
視界が低い。
草がやけに大きく見える。
少し顔を動かしただけで、頭の上から伸びている何かが風を拾い、遠くの音まで驚くほど鮮明に聞こえてくる。
試しに声を出そうとした。
喉から出たのは言葉ではなく、小さな鳴き声だった。
「きゅう」
冬真はしばらく動けなかった。
いや、正確には動き方が分からなかった。
人間なら立ち上がろうとすればいい。
けれど今の身体には、人間のような腕も脚もない。目の前にあるのは灰色の毛に覆われた短い前脚で、その奥にはさらに大きな後脚がある。
冬真は恐る恐る身体を動かしてみた。
前へ一歩進むつもりだった。
ところが後脚に力を入れた瞬間、身体が予想以上に前へ飛んだ。
そのまま草の中へ顔から突っ込む。
鼻先に湿った土がついた。
「……きゅ」
情けない声が出た。
もし誰かが見ていたら、かなり格好悪かっただろう。
もっとも、この辺りには人間らしい姿は見当たらない。
周囲に広がっているのは、腰どころか冬真の身体そのものを隠してしまうほど高い草原だった。
風が吹くたびに草の波が揺れ、その向こうから聞いたことのない虫の声がする。
そして空には、二つの月が浮かんでいた。
一つは白く大きい。
もう一つは、それより少し小さく青みがかっている。
少なくとも、地球ではない。
冬真はそう判断した。
もっとも。
今の自分にとっては、星がどこなのかよりも重要な問題がある。
腹が減っていた。
ものすごく。
人間だった頃なら、何を食べるか考える。
しかし今の身体は、頭で考えるより先に鼻が動いた。
草。
土。
湿気。
知らない植物。
遠くにいる何かの匂い。
匂いが一つずつ分かれて感じられる。
その中に、なぜか「食べても大丈夫そうだ」と思える草があった。
冬真は少し迷った。
見た目はただの細長い草だ。
もちろん、この世界の植物図鑑など持っていない。
そもそも本も読めない身体になっている。
「……きゅう」
仕方なく、葉の先を噛んだ。
意外と美味かった。
甘いというほどではないが、水分が多く、噛むほど青い香りが口へ広がる。
もう一口。
さらに一口。
気づけば冬真は、かなり真剣に草を食べていた。
そこで。
耳が勝手に動いた。
背後。
何かいる。
冬真が振り返るより先に、灰色の小さな影が草の間から飛び出した。
冬真と同じような姿。
ただし、耳の先だけが黒い。
その個体は少し離れた場所で止まり、冬真をじっと見つめた。
敵意はない。
けれど警戒している。
冬真も動かなかった。
数秒。
相手の鼻が何度か動く。
そして、冬真の横に生えていた草を食べ始めた。
「……仲間か」
そう言おうとした。
「きゅ」
やはり言葉にはならなかった。
耳の先が黒い個体は気にした様子もなく、黙々と草を食べている。
冬真は勝手に、その個体をクロと呼ぶことにした。
名前をつけたところで伝わるわけではない。
ただ、自分の中で区別するには便利だった。
それから何日か。
冬真は少しずつ、この身体で生きる方法を覚えた。
昼間は草原の中に隠れ、日が傾いてから食べ物を探す。
危険な音がしたら、まず止まる。
走るのはそのあと。
最初の頃は怖がって何でも逃げていたが、風で枝が揺れる音と、捕食者が草を踏む音の違いも少しずつ分かるようになった。
耳は目以上に重要だった。
そして鼻は、さらに重要だった。
雨が来る前の湿った匂い。
近くを大型の獣が通ったあとの匂い。
安全な草。
食べると腹を壊す草。
人間だった頃なら見落としていた情報が、この身体では生き残るためのすべてだった。
ある日。
新しく群れへ加わった丸い個体が、見慣れない紫色の葉を食べた。
冬真は匂いを嗅いだ瞬間、何となく嫌な感じがしたので避けた。
ところが、その個体は構わず食べた。
翌朝。
ひどく弱っていた。
冬真は遠巻きに様子を見ながら、勝手にマルと呼ぶことにした。
体型が丸かったからだ。
幸い、マルは一日ほどで回復した。
そして。
三日後。
また同じ紫色の葉を食べた。
冬真は思わず駆け寄った。
「きゅう!」
もちろん意味は通じない。
マルは冬真を見た。
一度鼻を動かした。
それから、もう一口食べた。
「きゅうう!」
止められなかった。
翌日。
また腹を壊した。
冬真は少し離れた場所から丸くなっているマルを眺めながら、何とも言えない気持ちになった。
人間だったら説教できる。
けれど、今の自分にできるのは鳴くことくらいだ。
その後、マルは紫色の葉を食べなくなった。
二回で学習したらしい。
「……二回必要だったんだな」
「きゅ」
自分で言っておいて虚しくなった。
それでも。
そんな生活は、思っていたより穏やかだった。
毎日が生存競争というわけではない。
安全な場所で草を食べ。
陽だまりで眠り。
仲間の気配を感じながら過ごす。
もちろん危険もある。
空から突然襲ってくる大きな鳥。
草の中を音もなく進む細長い獣。
夜になると遠くから聞こえてくる低い唸り声。
冬真は何度も逃げた。
何度も隠れた。
そして何度か、本当に死ぬと思った。
けれど、不思議と英雄のようなことは何もしなかった。
敵を倒したこともない。
仲間を率いて大きな何かを成し遂げたわけでもない。
危険が来れば逃げる。
腹が減れば食べる。
眠くなれば眠る。
それだけだった。
冬真はやがて、一匹の雌と行動を共にすることが増えた。
その個体は他の仲間よりも警戒心が強く、冬真が気づくより早く危険を察知することが多かった。
だから冬真は、勝手にハヤと呼んだ。
ハヤが耳を立てれば、冬真も食べるのをやめる。
ハヤが走れば、冬真も走る。
何度も助けられた。
逆に冬真が先に危険へ気づき、二匹で草むらの奥へ逃げたこともある。
言葉はない。
約束もない。
それでも。
いつの間にか、二匹は一緒にいることが当たり前になっていた。
季節が変わり。
子供が生まれた。
小さい。
信じられないほど小さい。
冬真は最初、どう接していいか分からなかった。
人間として子供を育てた人生もあった。
けれど、今は何もかも違う。
抱き上げる腕もない。
言葉で教えることもできない。
だから、ただ近くにいた。
危険が来れば先に耳を立てる。
安全な草がある場所へ移動する。
それだけだった。
それでも子供たちは育った。
やがて自分で草を食べるようになり、走るようになり、少しずつ遠くへ行くようになった。
冬真はその姿を見て、妙な感覚を覚えた。
嬉しい。
けれど。
少し寂しい。
人間の親と。
あまり変わらなかった。
ある日。
クロがいなくなった。
前日までは普通にいた。
いつもの場所で草を食べていた。
それなのに翌朝。
どこにもいない。
匂いを探した。
周囲を歩いた。
何日か待った。
戻ってこなかった。
何があったのか。
冬真には分からない。
捕食者に襲われたのかもしれない。
別の場所へ移っただけかもしれない。
怪我をしたのかもしれない。
最後まで。
答えはなかった。
人間の人生なら。
行方不明になった友人を探す方法はいくらでもある。
誰かに聞く。
記録を調べる。
遠くまで探しに行く。
でも。
この身体では。
できることが少ない。
冬真は何日か。
クロがよく草を食べていた場所へ行った。
黒い耳は。
二度と見えなかった。
それでも。
季節は進む。
雨が降る。
草が伸びる。
また乾く。
新しい子供が生まれる。
古い仲間がいなくなる。
マルは相変わらず食べ物に貪欲だった。
ただし。
紫色の葉だけは。
二度と食べなかった。
そのことが。
冬真には少し嬉しかった。
やがて。
自分の身体が。
少しずつ動かなくなった。
以前なら軽々飛び越えた倒木が。
高く感じる。
走る速度も遅くなった。
耳はまだ聞こえる。
鼻も。
昔ほどではない。
ハヤも。
同じように。
ゆっくりになっていた。
二匹は。
あまり遠くへ行かなくなった。
草の柔らかい場所。
低い木の陰。
水の近く。
そこで。
静かに。
過ごした。
ある夜。
二つの月が。
よく見えた。
雲はない。
白い月と。
青い月。
若い頃から。
何度も見た空。
冬真は。
草の上へ身体を伏せた。
近くに。
ハヤがいる。
少し離れた場所では。
もう大きくなった子供たちの匂いがする。
風が。
草原を渡ってくる。
湿った土。
草。
遠くの水。
いろいろな匂いが。
混ざっていた。
冬真は。
目を閉じた。
英雄にはならなかった。
誰かに名前を残したわけでもない。
言葉さえ。
最後まで。
話せなかった。
けれど。
悪くなかった。
そう思った。
そして――。
白瀬冬真は、自分の布団の中で目を覚ました。
朝の光がカーテンの隙間から差し込んでいる。
冬真はしばらく天井を見ていた。
それから両手を持ち上げる。
指。
五本。
反対側も。
五本。
動かす。
握る。
開く。
「……手だ」
妙に感動した。
次に。
布団から起き上がる。
二本の脚で立つ。
「立てる」
当然のことなのに。
少し嬉しい。
冷蔵庫を開ける。
中に入っていた水を飲む。
コップを。
手で持てる。
「文明ってすごいな……」
ウサギのような身体で一生を過ごした直後では、何もかもがありがたかった。
冬真は台所に立った。
朝食。
何を食べるか。
少し迷う。
冷蔵庫には卵。
パン。
ハム。
そして。
野菜室。
葉物野菜。
冬真は。
しばらく。
それを見た。
「……今日はパンでいいか」
なんとなく。
草に近いものを。
今すぐ食べる気にはなれなかった。
朝食を済ませ。
コーヒーを淹れる。
そして。
パソコン。
冬真は。
しばらく。
新規作品画面を。
見つめていた。
「これ、どう書けばいいんだ?」
初めてだった。
人間ではない。
言葉がない。
職業もない。
国もない。
人間の社会も。
出てこない。
ただ。
草を食べ。
逃げ。
眠り。
子供を育て。
歳を取った。
人生。
いや。
生涯。
「動物もの……なのかな」
ノベルスフィアのジャンル一覧。
冬真は。
下へ。
スクロールした。
最後。
『その他』
「……ここか」
大型匿名掲示板で。
散々。
最後まで残ったと言われていた。
ジャンル。
その他。
冬真は。
別に。
そこを埋めるつもりなどなかった。
でも。
今回の記憶を。
どこへ入れるかと聞かれれば。
ここしかない。
「タイトル……」
考える。
人間らしい。
名前は。
いらない。
自分は。
あの世界で。
誰にも。
白瀬冬真とは呼ばれていない。
そもそも。
名前という概念が。
あったのかどうかも。
分からない。
冬真は。
ゆっくり。
入力した。
『二つの月の下で、名前も持たずに草を食べていた』
「……これでいいか」
問題は。
文章だった。
動物へ。
人間の考えを。
乗せすぎたくない。
向こうで。
実際。
頭の中へ。
人間だった頃の自分の意識はあった。
けれど。
身体から入ってくる情報は。
完全に。
別物だった。
だから。
会話は。
ほとんど使わない。
匂い。
音。
動き。
距離。
恐怖。
空腹。
安心。
それを。
中心にする。
冬真は。
書き始めた。
最初。
自分の身体に。
慣れない。
走って。
草へ突っ込む。
食べ物。
クロ。
マル。
ハヤ。
捕食者。
子供。
そして。
クロが。
ある日。
いなくなる。
そこへ。
理由は。
書かなかった。
分からないから。
「分からないことは、分からないままでいいよな」
それが。
この生涯だった。
午前。
第一話。
投稿。
ジャンル。
その他。
そして。
冬真は。
少し。
怖いものを見るような気持ちで。
大型匿名掲示板を開いた。
昨日。
『その他は無理』
と。
言っていた場所。
スレッド。
『【白瀬冬真】残りその他だけなんだが』
最新。
『増えた』
『え』
『まさか』
『その他』
『嘘だろ』
『白瀬冬真』
『何書いた』
『タイトル読んでも分からん』
『二つの月の下で、名前も持たずに草を食べていた』
『何だそれ』
『異世界もの?』
『ファンタジーじゃなくて?』
『その他に入ってる』
『読んでくる』
数分。
冬真は。
コーヒーを飲む。
また。
数分。
『戻った』
『どうだった』
『ウサギ』
『は?』
『多分ウサギ』
『多分って何』
『主人公がウサギっぽい生き物』
『…………』
『最後のジャンル』
『ウサギで埋めたの?』
『そうなる』
『意味分からん』
『俺たち昨日までその他で何書くか考えてたよな』
『作者の答え:ウサギ』
『予想できるか』
「俺も予想してなかったよ」
冬真は。
画面に向かって。
答えた。
当然。
誰にも聞こえない。
さらに。
読者が増える。
『普通に面白いんだけど』
『分かる』
『最初ちょっと笑ったけど途中から普通に読んでた』
『マルまた変な葉っぱ食ってて草』
『草だけに』
『やめろ』
『二回腹壊してやっと学習するの好き』
『クロどうなったんだよ』
『分からないまま』
『そこ妙にリアルで嫌だな』
『動物ってそうだよな。ある日いなくなって終わりって普通にある』
『最後、二つの月見ながら終わるところ好き』
冬真は。
少しだけ。
安心した。
珍しいだけの作品。
には。
なっていないらしい。
そして。
一時間後。
スレッド。
『ちょっと待って』
『何』
『これで』
『全ジャンル?』
『確認した』
『全部ある』
『マジで?』
『白瀬冬真、ノベルスフィア全ジャンル作品あり』
『しかも大体上位』
『最後だけまだ新着だからランキング待ち』
『何なんだこの作者』
冬真の手が。
止まった。
「……本当に全部?」
作者ページ。
ジャンル。
一つずつ。
確認する。
ハイファンタジー。
ローファンタジー。
異世界恋愛。
現代恋愛。
宇宙SF。
推理。
ホラー。
歴史。
ヒューマンドラマ。
コメディ。
文学。
料理。
スポーツ。
VRゲーム。
童話。
エッセイ。
詩。
その他。
「……あ」
本当だった。
最初から。
狙っていたわけではない。
気づけば。
全部。
書いていた。
掲示板。
『祝・全ジャンル制覇』
『制覇って言うな』
『侵略完了』
『最後の一手がウサギ』
『誰が予想した』
『白瀬冬真被害者の会、敗北』
『何に負けたんだよ』
『作者』
『勝負してないだろ』
『でも何か負けた気がする』
冬真は。
笑ってしまった。
「だから、勝負してないんだって」
その日の午後。
『二つの月の下で、名前も持たずに草を食べていた』
その他ジャンル。
日間。
二十六位。
夕方。
十一位。
夜。
五位。
そして。
翌朝。
二位。
掲示板。
『ウサギ二位』
『言い方』
『その他二位』
『でもウサギ二位の方が面白い』
『白瀬冬真、最後のジャンルまで上位入り』
『これ本当にタイトルみたいな状態になってない?』
『作者ページ開くと何選んでも白瀬冬真』
『ジャンル:白瀬冬真』
『それもうジャンル分けの意味ないだろ』
冬真は。
少し。
照れた。
自分でも。
さすがに。
変なことになっていると思う。
そこで。
ノベルスフィアから。
一件の通知。
公式。
運営アカウント。
「……何だ?」
冬真は。
開いた。
『ノベルスフィア運営よりお知らせ』
内容。
『近年、複数ジャンルを横断して作品を読むユーザーが増加しています。そこで今回、普段読まないジャンルとの出会いを目的とした特集企画を実施いたします』
冬真は。
続きを読む。
特集タイトル。
『ジャンル横断特集――あなたは普段、何を読んでいますか?』
「へえ」
面白そうだ。
自分も。
他の作者の作品を。
探してみようか。
そう思った。
次の一文を。
読むまでは。
『今回の特集では、複数ジャンルで多くの読者を獲得している作者へのインタビューも予定しています』
冬真は。
少し。
嫌な予感がした。
さらに。
作者用通知。
『白瀬冬真様へ。ジャンル横断特集へのご協力について』
「……俺?」
開く。
丁寧な。
依頼文。
作品制作について。
ジャンルごとの書き分け。
取材方法。
資料収集。
執筆環境。
読者が。
普段から。
掲示板で。
疑問にしていること。
それを。
公式が。
聞きたいらしい。
冬真は。
最後まで。
読んだ。
そして。
椅子へ。
深く。
もたれた。
「……取材方法」
料理。
四十六年。
自分で。
鍋を振った。
野球。
十五年。
監督をした。
VR。
二十三年以上。
作った。
旅。
七十六歳まで。
自分で。
歩いた。
そして。
ウサギ。
草を。
食べた。
冬真は。
両手で。
顔を覆った。
「言えるわけないだろ」
全ジャンルを書いたことより。
ランキングへ。
全部。
名前があることより。
今。
一番。
困っているのは。
そこだった。




