↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
7/14

第7話 詩まで書いたら、本当に逃げ場がなくなった



 病室の窓には、朝から細い雨が降り続いていた。


 窓ガラスを伝う雨粒の向こうには灰色の空と、病院の中庭に植えられた数本の木が見える。季節は春へ向かっているはずなのに、濡れた枝にはまだ寂しさが残っていた。


 白瀬冬真は、ベッド脇の椅子へ腰掛けていた。


 目の前では、父が小さなノートを手にしている。


 以前ならもっと厚みのあった指はすっかり細くなり、点滴の管が伸びた手の甲には血管が浮いていた。それでも父は、朝になると必ずそのノートを枕元から取り出す。


「今日も頼む」


 父がそう言って、ノートを冬真へ差し出した。


「今日は何を書く?」


 冬真がペンを受け取ると、父は窓の外をしばらく眺めた。


「大したことは何もないな。朝から雨だった。昼飯の魚は妙に硬かった。看護師さんに歩けって言われたから廊下を少し歩いたら、今度は歩きすぎだって怒られた」


「それだけ?」


「それだけで十分だろ。毎日大事件が起きたら、病院なんてたまったもんじゃない」


 父は笑った。


 冬真もつられて笑いながら、ノートへ書く。


 雨。


 硬い魚。


 廊下を歩いた。


 歩きすぎて怒られた。


 最初は、本当にそれだけだった。


 父がこの習慣を始めたのは、入院してしばらく経ってからだ。


 病室で過ごす時間が長くなるにつれ、一日の区切りが曖昧になってきたらしい。


「昨日と今日の違いが分からなくなるんだよ」


 ある日、父はそう言った。


「朝起きて、飯食って、薬飲んで、昼寝して、また飯食って寝る。ずっとそれだろ。そうすると、その日が本当にあったのかどうかまで怪しくなる」


 冬真は何と答えればいいか分からず、黙って聞いていた。


「だから一個だけ残したい。今日あったことを一個。面白くなくてもいい。何もなかったなら、何もなかったって書けばいい」


 そうして始まった。


 ただし、父は長い文章を書くのが苦手だった。


 本人に書かせると、


『晴れ。飯普通。眠い。』


 で終わる。


 冬真が、


「さすがにもう少し何かなかったの?」


 と聞けば、


「じゃあ、お前が適当に整えろ」


 と返された。


 それからは父が話し、冬真が少しだけ文章を整えるようになった。


 詩を書いているつもりなど、二人ともなかった。


 ある日の父は、窓から見える月の話をした。


「今日は妙に細い月だな。あれでも月なんだよな」


「まあ、月だね」


「ほとんど見えてないのに、なくなったわけじゃないんだな」


 冬真はその言葉を聞いて、少し考えた。


 そしてノートへ書いた。


『細い月が出ていた。ほとんど見えなくても、なくなったわけではないらしい。』


 父が横から覗き込む。


「俺、そんな格好いいこと言ったか?」


「だいたい同じこと言ってたよ」


「お前が勝手に格好よくしただろ」


「少しだけ整えていいって言ったの父さんじゃん」


「少しじゃない気がするなあ」


 そう言いながらも、父は嫌そうではなかった。


 別の日。


 父は看護師に歩くよう言われ、廊下を二往復した。


 ところが、調子に乗ってさらに歩こうとしたところで止められた。


 その日のノートには、


『歩けと言われたので歩いた。歩きすぎだと言われた。人間は加減が難しい。』


 と残った。


 父は読んで笑った。


「これはいいな。俺の人生だいたいこれだ」


「歩き方だけで人生を総括しないでよ」


「仕事も酒も似たようなもんだったぞ。やれと言われたらやりすぎて、あとで怒られた」


「自覚あったんだ」


「今になってな」


 冬真は、その言葉も覚えておいた。


 病室で交わす会話は、不思議と昔より長くなった。


 元気だった頃の父は、あまり自分のことを話さなかった。


 仕事の愚痴も言わない。


 家族の前で弱音を吐くこともない。


 休日にはテレビを見て、聞かれれば答えるが、自分から昔話を始めるような人ではなかった。


 それが、病院へ入ってから少し変わった。


 若い頃に失敗したこと。


 母と初めて会った日のこと。


 冬真が生まれたとき、嬉しいより先に「こんな小さいものを自分が育てられるのか」と怖くなったこと。


 初めて聞く話がいくつもあった。


「もっと早く言ってくれればよかったのに」


 冬真がそう言ったことがある。


 父はしばらく考えてから、苦笑した。


「元気な頃は、明日言えばいいと思うんだよ」


 その一言に。


 冬真は何も返せなかった。


 父もそれ以上は言わなかった。


 その日のノートには、冬真の判断で一行だけ残した。


『明日言えばいいと思っているうちは、だいたい今日言わない。』


 父は読んで、少し笑った。


「これは俺じゃなくて、お前の言葉だろ」


「半分は父さん」


「じゃあ半分ずつだな」


 そんな日が続いた。


 父の体調には波があった。


 よく喋る日もあれば、ほとんど眠っている日もある。


 食欲が戻ったと喜んだ翌日に、何も食べられなくなることもあった。


 それでもノートだけは続いた。


 何も書けない日は、冬真が尋ねた。


「今日は何かあった?」


 父は目を閉じたまま考え、


「何もなかったな」


 と答えた。


「じゃあ、今日は空白にする?」


 冬真が聞くと、父は首を振った。


「いや。何もなかったって書いておけ」


「それを残す意味ある?」


「あるだろ。何もなかった日があったって分かる」


 冬真は少しだけ笑って、書いた。


『今日は何もなかった。こういう日が、もう一日くらいあってもいい。』


 父はそれを読んでから、珍しくしばらく黙っていた。


「……もう一日じゃなくてもいいけどな」


「じゃあ直す?」


「いや。それでいい」


 ノートを閉じる。


 その日の会話は、それで終わった。


 冬真は帰りの電車で、何度もその一文を思い出した。


 何もなかった日。


 若い頃なら、つまらない一日だったと思ったかもしれない。


 けれど父にとっては。


 何も起きず。


 痛みも酷くならず。


 普通に朝を迎えて夜まで過ごせた一日だった。


 そういう日が。


 少しずつ。


 貴重になっていた。


 季節が進み。


 窓の外の木に葉が増えた。


 父はその頃には、自力で長く歩けなくなっていた。


 車椅子で中庭へ出た日。


 久しぶりに外の空気を吸った父は、目を細めた。


「病院の中にいると、風があるの忘れるな」


 冬真は車椅子を押しながら笑った。


「忘れるものなの?」


「窓越しには見えるけど、風は見えないだろ。木が揺れてるからあるって分かるだけだ」


 その夜。


 ノートへ残した。


『風は見えない。木が揺れているから、そこにいると分かる。』


 父は文章を読み、眉をひそめた。


「これは完全に詩じゃないか?」


「父さんが言ったんだよ」


「俺、詩人だったのか」


「七十過ぎて才能見つかったね」


「遅すぎるだろ」


 笑いながら。


 父はそのページを何度か読み返した。


 冬真も。


 いつの間にか。


 そのノートを大切にするようになっていた。


 最初は父に頼まれて書いていただけだった。


 けれど今では、忘れたくないと思っている。


 父の言葉。


 その日の空気。


 笑った顔。


 文句。


 弱音。


 全部。


 残したかった。


 そして。


 冬が来た。


 父は。


 ほとんどベッドから起きられなくなった。


 会話も短くなった。


 冬真は毎日病院へ通った。


 ノートも持っていった。


 けれど。


 何日も。


 新しいページは増えなかった。


 ある夕方。


 父が珍しく目を開けていた。


 冬真が椅子へ座ると。


 父は。


 ゆっくり。


 口を動かした。


「ノート」


 冬真は。


 すぐに取り出した。


「何か書く?」


 父は頷いた。


 かなり長い間。


 考えていた。


 冬真は急かさない。


 父が。


 ようやく。


 小さな声で言った。


「楽しかった」


 冬真は。


 ペンを持ったまま。


 動けなかった。


「何が?」


 つい聞いてしまった。


 父は。


 少しだけ笑った。


「全部」


 それ以上。


 言葉は続かなかった。


 冬真は。


 ノートへ。


 ただ一つ。


 書いた。


『楽しかった。』


 整えなかった。


 何も足さなかった。


 その言葉だけで。


 十分だと思った。


 父が亡くなったのは。


 それから。


 数日後だった。


 葬儀。


 片付け。


 手続き。


 やることは多かった。


 悲しむ暇がないほど。


 人が死んだあとには。


 現実的な仕事が残る。


 冬真は。


 それを一つずつ終わらせた。


 そして。


 全部が。


 少し落ち着いた夜。


 自分の部屋で。


 父のノートを開いた。


 最初のページ。


『晴れ。飯普通。眠い。』


 思わず笑った。


 次のページ。


 雨。


 硬い魚。


 歩きすぎ。


 細い月。


 風。


 何もなかった日。


 ページをめくる。


 父が残した。


 一年間。


 大事件など。


 ほとんどない。


 病院食。


 天気。


 看護師。


 痛み。


 眠気。


 時々。


 昔の話。


 それだけだった。


 けれど。


 冬真には。


 全部。


 父の人生の一部に見えた。


 最後のページ。


『楽しかった。』


 冬真は。


 しばらく。


 その一行を見つめた。


 そして。


 新しい紙を出した。


 父の言葉ではない。


 今度は。


 自分の言葉を。


 少しだけ。


 書いた。


『最後に残った言葉が

 楽しかった、なら

 たぶん

 悪い人生ではなかったのだと思う。


 もう一度聞けるなら

 何が、と尋ねたい。


 きっとまた

 全部、と答えるのだろう。』


 書いたあと。


 冬真は。


 長く。


 何もできなかった。


 それから――。


 白瀬冬真は。


 自分の部屋で。


 目を覚ました。


 朝。


 見慣れた天井。


 若い身体。


 父は。


 こちらの世界では。


 生きていない。


 いや。


 そもそも。


 あの父は。


 この世界には。


 存在しない。


 それでも。


 冬真の中には。


 確かに。


 一年間。


 毎日のように。


 病室へ通った記憶がある。


 父の声も。


 笑い方も。


 最後の。


『楽しかった』


 も。


 全部。


 残っている。


 冬真は。


 しばらく。


 布団から。


 起き上がれなかった。


 悲しい。


 ただ。


 それだけではない。


 寂しい。


 でも。


 温かい。


 そんな。


 説明しづらい感情だった。


「……残しておくか」


 冬真は。


 ようやく。


 起き上がった。


 顔を洗う。


 コーヒーを淹れる。


 そして。


 パソコンを開いた。


 ノベルスフィア。


 新規作品。


 ジャンル。


 詩。


「……俺、詩人じゃないんだけどな」


 それは。


 本当だった。


 詩人として。


 生きたことなどない。


 ただ。


 父が。


 一年間。


 残した言葉を。


 少しだけ。


 整えただけ。


 タイトル。


『父が最後の一年に残した言葉を、俺が少しだけ整えた』


 冬真は。


 一番最初に。


 説明を添えた。


『病室で父が残した短い言葉を、家族が記録し、少しだけ文章として整えたものです。』


「……これなら」


 嘘ではない。


 冬真は。


 投稿した。


 そして。


 しばらく。


 掲示板を見なかった。


 今日は。


 さすがに。


 反応を見るのが。


 少し怖かった。


 けれど。


 一時間後。


 気になった。


「……見るか」


 大型匿名掲示板。


 昨日まで。


『詩は無理』


『さすがに白瀬冬真でも』


 と言っていた場所。


 冬真は。


 スレッドを開いた。


『……来た』


『何が』


『詩』


『は?』


『白瀬冬真』


『嘘だろ』


『本当』


『また増えたの?』


『増えた』


『タイトル何』


『父が最後の一年に残した言葉を、俺が少しだけ整えた』


 そこで。


 少し。


 書き込みが止まっていた。


 いつもなら。


 もっと早い。


『侵略』


『陥落』


『また白瀬冬真』


 そういう。


 冗談が。


 すぐ並ぶ。


 でも。


 今回は。


 少し違った。


『読んできた』


『どうだった?』


『なんか、うまく言えない』


『重い?』


『重いっていうより』


『普通の日の話が多い』


『雨とか病院食とか』


『歩きすぎて怒られたとか』


『それ詩なの?』


『読めば分かる』


 さらに。


 少しして。


『「今日は何もなかった。こういう日が、もう一日くらいあってもいい」でちょっと駄目だった』


『分かる』


『親入院してた時思い出した』


『最後の「楽しかった」がきつい』


『きついけど嫌じゃない』


『最後にそれ言えたなら、なんかいいな』


 冬真は。


 画面の前で。


 動けなくなった。


 知らない誰かが。


 父の言葉を。


 読んでいる。


 知らない誰かが。


 自分の父親や。


 母親や。


 祖父母を。


 思い出している。


『今、母親に電話した』


『何で』


『分からん。なんとなく』


『俺も明日実家行こうかな』


『急にどうしたお前ら』


『作者が悪い』


『白瀬冬真、詩ジャンルまで来て人に親へ電話させてる』


『侵略方法が違う』


『今日は「返してください」とか言いづらいな』


『でも異世界恋愛の続きは返してください』


『そこは言うのかよ』


 冬真は。


 思わず。


 少し笑った。


「そこは言うんだ」


 それで。


 少し。


 救われた。


 夕方。


 詩作品。


 日間。


 九位。


 夜。


 六位。


 翌朝。


 四位。


 また。


 作者ページへ。


 新しい読者が。


 流れ込む。


『詩から来たんですが』


『いらっしゃい』


『他の作品見たらVRと野球と料理があるんですけど』


『正常です』


『正常ではないですよね?』


『その反応まで含めて正常です』


『この作者何なんですか』


『分からない』


『詩人では?』


『昨日まで詩を書いてなかった』


『じゃあエッセイスト?』


『一昨日までエッセイもなかった』


『怖い』


『ホラーもあるぞ』


『そういう意味じゃない』


 冬真は。


 コーヒーを飲みながら。


 掲示板を眺めた。


 そして。


 ある書き込み。


『残り、その他だけ?』


 冬真の手が。


 止まった。


『たぶん』


『本当に全ジャンル行くの?』


『その他って何書けばいいんだ』


『その他だから何でもいいんじゃない?』


『逆に一番難しくない?』


『白瀬冬真でもさすがに』


『おい』


『何』


『その言い方やめろ』


『童話でも聞いた』


『詩でも聞いた』


『次の日に来るぞ』


『いや、その他は無理だって』


 冬真は。


 思わず。


 画面へ向かって言った。


「俺に言われても困るよ」


 自分で。


 ジャンルを選んでいるわけではない。


 眠れば。


 別の人生が。


 始まる。


 それだけ。


「今日は普通の続きでいいんだけどな」


 冬真は。


 少し。


 そう思った。


 料理。


 野球。


 VR。


 ファンタジー。


 続きを待っている。


 読者も。


 たくさんいる。


 夜。


 冬真は。


 ベッドへ入った。


「今度こそ、続きのある世界だといいな」


 目を閉じる。


 眠る。


 そして。


 次に。


 意識を取り戻したとき。


 最初に感じたのは。


 草の匂いだった。


 湿った土。


 風。


 何か。


 遠くで。


 鳴いている。


 冬真は。


 目を開けた。


 視界が。


 異様に低い。


「……え?」


 声を出そうとした。


 出ない。


 代わりに。


「きゅ」


 という。


 妙な音が。


 自分の口から。


 出た。


 冬真は。


 固まった。


 目の前。


 草。


 ものすごく。


 大きい。


 自分の手を見る。


 ない。


 いや。


 ある。


 でも。


 人間の手ではない。


 灰色の。


 前脚。


「……」


 もう一度。


 声を出そうとする。


「きゅう」


 冬真は。


 ゆっくり。


 空を見上げた。


 夜。


 そこには。


 二つの月が。


 浮かんでいた。


 こちらの世界。


 大型匿名掲示板。


『残るはその他』


『さすがに無理』


『もうフラグにしか見えない』


『何を書くんだよ』


『随筆でも詩でもない何か?』


『分類不能作品?』


『まあ明日になれば分かる』


『本当に増えたら謝罪する』


 まだ。


 誰も。


 知らない。


 白瀬冬真自身も。


 まさか。


 最後に残ったジャンルを。


 人間ですらない人生で埋めることになるとは。


 この時点では。


 思っていなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。