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第6話 エッセイなら小説家の逃げ場になると思っていたらしい


 白瀬冬真が次に目を覚ましたとき、最初に感じたのは、尻の痛みだった。


 固い座席に長時間座り続けたせいで腰まで重くなっている。耳には聞き慣れない言葉が飛び交い、鼻には油と香辛料、それからどこか甘い果物の匂いが混じった空気が届いていた。


 目の前を通り過ぎていくのは、日本では見慣れない色使いの看板と、窓を開け放った古い商店。道路脇には屋台が並び、その間を大量のバイクが縫うように走っている。


 冬真は窓の外を眺めたあと、自分の隣に座っている男へ顔を向けた。


「佐伯。ひとつ確認していいか?」


「嫌な予感がするから、できれば聞きたくない」


「俺たちが乗る予定だったバスって、こんなに市場の中を走るやつだったか?」


 大学時代からの友人である佐伯は、膝の上に広げていた観光案内を見下ろした。


 数秒。


 さらに窓の外を見る。


 もう一度案内を見る。


 そして、かなり真剣な顔で答えた。


「違うな」


「やっぱり?」


「俺たち、さっきの停留所で降りるはずだった」


「どれくらい前?」


「三十分くらい」


「随分前だな」


「お前も気づけよ」


「俺はお前が分かってると思ってた」


「俺はお前が分かってると思ってたよ」


 二人でしばらく顔を見合わせた。


 どちらからともなく笑った。


 それが、冬真にとって最初の海外旅行だった。


 大学二年の夏。


 きっかけは深夜に佐伯から届いた一通のメッセージである。


『往復二万八千円なんだけど、行かない?』


 行き先より先に値段が書かれていた。


 冬真もそれを見て、


『安いな。行こう』


 と返した。


 それだけで決まった旅行だった。


 当時の二人には金がなかった。


 当然、高級なホテルになど泊まれない。


 安い宿を探し、食事も観光客向けの店より現地の食堂を選んだ。言葉もまともに話せず、地図の読み方にも慣れていない。


 結果として、二日目の朝から乗るバスを間違えた。


「とりあえず、次で降りるか」


「そのあとどうする?」


「分からん。ここがどこなのかも分からないからな」


「頼もしいなあ」


「お前も同じ状況だろ」


 バスを降りると、そこは観光案内には載っていない大きな市場だった。


 魚。


 肉。


 野菜。


 果物。


 衣類。


 日用品。


 何に使うのか分からない金属部品まで並んでいる。


 観光客らしい人間はほとんどいない。


 冬真たちは完全に場違いだった。


 それでも腹は減る。


 市場の奥を歩いていると、大きな鍋から湯気を上げている小さな食堂を見つけた。


 看板に何と書いてあるのかは読めなかった。


 メニューも分からない。


 店のおばさんに指を二本立て、隣の客が食べていたものを指差す。


 数分後。


 二人の前へ、麺料理が置かれた。


 真っ赤な汁だった。


 佐伯が不安そうに見つめる。


「これ、絶対辛いやつだよな」


「たぶんな」


「俺、辛いの苦手なんだけど」


「じゃあ何で隣の人が食べてるの指差したんだよ」


「美味そうだったから」


 恐る恐る口へ運ぶ。


 確かに辛かった。


 しかし、それ以上に美味かった。


 香草の匂い。


 肉の旨味。


 少し酸味のあるスープ。


 二人とも汗だくになりながら、結局全部食べた。


「……なあ」


「何?」


「バス間違えてよかったな」


「それは結果論すぎるだろ」


 佐伯は笑ったが、否定はしなかった。


 冬真の長い旅は、その日から始まった。


 大学時代だけで十二か国。


 卒業後は旅行関係の出版社へ入り、仕事でも国外へ出るようになった。


 最初の頃は、有名な景色を見ることが旅だと思っていた。


 世界遺産。


 有名な教会。


 大きな滝。


 写真集に載っているような絶景。


 けれど、何十年も旅を続けるうちに、冬真の手帳へ残るものは少しずつ変わっていった。


 ある年。


 山の上にある有名な展望台へ行った。


 雑誌には、


『晴天時には百キロ先まで見渡せる絶景』


 と書かれていた。


 しかし、当日は濃霧だった。


 何も見えない。


 本当に何も見えない。


 冬真は二時間かけて山を登り、真っ白な景色を前に立ち尽くした。


 その日の手帳には、こう残した。


『展望台。霧で何も見えず。犬だけ見えた。犬はかわいかった。』


 写真も一枚だけ残っていた。


 霧の中。


 知らない犬。


 後年、その写真を見るたび。


 冬真は有名な絶景より、その犬のことを思い出した。


 別の旅では、現地で知り合った老人に勧められるまま強い酒を飲んだ。


 冬真は自分の酒の強さを少し過信していた。


 翌朝。


 財布がない。


 宿の部屋を全部探した。


 鞄。


 ベッドの下。


 浴室。


 上着。


 フロントにも聞いた。


 ない。


 一時間ほど探し回ったあと。


 冷たい水を飲もうと冷蔵庫を開ける。


 財布が入っていた。


 その日の手帳。


『現地の強い酒を飲む。翌朝、財布を冷蔵庫から発見。入れた理由は不明。財布はよく冷えていた。』


 旅行雑誌の仕事をしている人間が書く記録としては、あまり役に立たない。


 それでも冬真は、そういう出来事を残す方が好きだった。


 何十年も経って覚えているのは、予定通りに見た観光名所より、道を間違えたことや、知らない人に助けてもらったことや、注文を間違えて見たこともない料理が出てきた日の方が多かった。


 結婚してからも、旅は続いた。


 妻は冬真より計画的な人だった。


 航空券。


 宿。


 移動時間。


 全部確認する。


 そのため、冬真一人だった頃より明らかに失敗は減った。


 ただし、完全にはなくならなかった。


「あなた、電車逆方向ですよ」


「……そう?」


「三駅前からです」


「もっと早く言ってくれてもよかったんじゃないか?」


「いつ気づくのか見ていました」


「楽しんでたな?」


「少しだけ」


 妻と二人で何十もの国へ行った。


 若い頃のように一日に何か所も回ることはなくなり、歳を取るほど予定は減った。


 それでも旅をやめようとは思わなかった。


 七十六歳。


 二人で訪れた海辺の町。


 特に有名な観光地ではない。


 昔、仕事で一度だけ立ち寄った場所だった。


 冬真はそこで、朝から妻と海を眺めた。


 昼。


 近くの食堂で魚を食べた。


 午後。


 海岸を少し歩いた。


 途中で疲れたので、二人ともベンチへ座った。


 そのまま夕方まで。


 ほとんど何もしなかった。


 夜。


 宿へ戻った冬真は、長年使ってきた手帳を開いた。


 何を書こうか考える。


 絶景を見たわけではない。


 珍しい料理もない。


 事件もない。


 道にも迷わなかった。


 そして。


 こう書いた。


『今日はほとんど何もしなかった。それでも、とても良い一日だった。』


 妻が横から覗き込む。


「随分短いですね」


「もう長い文章を書くほど体力ないんだよ」


「昔から日記は短かったでしょう」


「そうだったか?」


「財布が冷蔵庫にあった話、二行でしたよ」


「あれは二行で十分だろ」


 妻が笑う。


 冬真も笑った。


 旅を始めた二十歳の頃。


 遠くへ行けば何か特別なものが見つかると思っていた。


 七十六歳になって。


 ようやく。


 特別なことが何もない日も。


 きちんと覚えておきたいと思うようになった。


 そして――。


 白瀬冬真は目を覚ました。


 見慣れた六畳間だった。


 カーテンの隙間から朝日が入っている。


 枕元にはスマートフォン。


 壁には、自分で貼った安いカレンダー。


 昨日眠ったときと何も変わっていない。


 冬真はしばらく天井を眺めたあと、ゆっくり起き上がった。


「……七十六歳か」


 自分の手を見る。


 若い。


 皺もない。


 腰も痛くない。


 ただし。


 頭の中には。


 五十年以上旅を続けた記憶が残っている。


「さすがにこの歳で七十六年生きてましたとは書けないよな」


 毎回の問題だった。


 普通の小説ならいい。


 登場人物の人生として書けば済む。


 しかし。


 今回の記憶は。


 どう考えてもエッセイ向きだった。


 旅行先。


 失敗。


 人との出会い。


 何十冊にもなる手帳。


 文章にするなら、小説へ加工するより旅の記録として並べた方が自然だ。


 ただ。


 二十代の男が、


『七十六歳まで旅をしてきました』


 と書けば。


 別の意味で話題になる。


「……設定を少し整えるか」


 冬真はパソコンを開いた。


 ノベルスフィア。


 新規作品。


 ジャンル。


 エッセイ。


 少し迷ったあと。


 紹介文へこう書いた。


『長い旅を続けた一人の男が残した記録を、手帳をもとにエッセイ形式で再構成したものです。』


「嘘ではない」


 自分自身がその男であることを伏せているだけだ。


 タイトル。


『二万八千円の航空券から始まった、七十六歳までの旅日記』


「……年齢出しちゃったな」


 まあいい。


 本人が七十六歳とは書いていない。


 冬真は投稿した。


 そして。


 約十五分後。


 大型匿名掲示板。


『増えた』


『また?』


『どこ』


『エッセイ』


『は?』


『白瀬冬真』


『またお前か』


『今度何書いたんだよ』


『旅』


『普通じゃん』


『普通?』


『今まで料理、野球、VR、童話って来たから感覚狂ってる』


『タイトル見ろ』


『二万八千円の航空券から始まった、七十六歳までの旅日記』


『七十六歳?』


『作者何歳だよ』


『プロフィール二十代』


『じゃあ誰の日記?』


『説明に「一人の男の記録を再構成」ってある』


『取材したのか?』


『この作者の取材力どうなってるんだ』


 冬真は画面の前で目を逸らした。


「……取材ではないんだよな」


 読者には説明できない。


 なので。


 見なかったことにした。


 第一話。


 往復二万八千円の航空券。


 友人とバスを間違える。


 知らない市場へ到着。


 よく分からないまま注文した麺料理が美味かった。


 投稿。


 しばらくして。


『エッセイ読んだ』


『どう?』


『普通に面白い』


『何が?』


『最初の海外旅行でいきなりバス間違えてる』


『ありがち』


『でも文章が妙にリアル』


『市場の匂いまで分かる感じ』


『またそれか』


『白瀬冬真あるある』


『何でも体験談みたいに書く』


 冬真は少しだけ困った。


 本当に体験談なので。


 そこはどうしようもない。


 数時間後。


 第二話。


 霧の展望台。


 何も見えない。


 犬だけ見えた話。


 反応。


『絶景どこ』


『ない』


『犬』


『写真ないの?』


『小説サイトだぞ』


『犬見たい』


『旅エッセイで一番印象に残るの犬なの笑う』


 第三話。


 酒。


 翌朝。


 財布がない。


 冷蔵庫。


『財布冷やすな』


『なんで入れたんだよ』


『本人も分かってない』


『これ本当に他人の日記?』


『知らんけど妙に具体的』


『白瀬冬真、やっぱ人生経験おかしくない?』


 冬真は画面を閉じた。


「その話はやめよう」


 答えられない。


 夕方。


 エッセイジャンル。


 新着上位。


 夜。


 日間十位。


 さらに。


 翌朝には。


 三位。


 掲示板には、また新しい読者が現れ始めた。


『すみません、旅エッセイから来たんですが』


『いらっしゃい』


『作者ページ開いたら野球とかVRとか童話とか出てきたんですけど』


『正常です』


『何が正常なんですか』


『みんな最初それ言う』


『この人、旅行作家じゃないんですか?』


『違います』


『じゃあ料理人?』


『違います』


『野球関係者?』


『違います』


『ゲーム開発者?』


『たぶん違います』


『じゃあ何者なんですか』


『それを今みんなで考えてる』


「本人も困ってるんだよ」


 冬真は画面へ向かって呟いた。


 ここ数日。


 新しいジャンルから来た読者が。


 ほぼ同じ順番を辿っている。


 一作品読む。


 作者ページを見る。


 困惑する。


 別作品へ行く。


 さらに困惑する。


 掲示板へ来る。


『意味分からないんですが』


 と言う。


 そして常連が。


『正常です』


 と返す。


 もはや。


 一種の儀式になっていた。


 その夜。


 掲示板では。


 まだ白瀬冬真が投稿していないジャンルについて話していた。


『残り何?』


『詩』


『その他』


『もうそれくらい?』


『エッセイまで来たからな』


『詩は無理だろ』


『また言った』


『だってこの人、小説の人じゃん』


『料理の時も言ってた』


『スポーツでも言った』


『童話でも言った』


『でも詩は本当に違うだろ』


『フラグ建てるのやめろ』


 冬真は。


 その書き込みを見ながら。


「俺も詩は書けないと思うけどな」


 少なくとも。


 自分に。


 詩人として生きた記憶はない。


「次が普通にファンタジーとかだったら、そっち更新できるんだけど」


 ハイファンタジー。


 異世界恋愛。


 宇宙SF。


 続きを待たせている作品は。


 いくらでもある。


 できれば。


 次は。


 そういう世界へ戻りたい。


 冬真は。


 スマートフォンを置き。


 ベッドへ入った。


 目を閉じる。


 そして。


 次に。


 冬真が意識を取り戻したとき。


 最初に聞こえたのは。


 規則的な機械音だった。


 消毒液の匂い。


 白い天井。


 病室。


 冬真は。


 ベッドの横へ。


 座っていた。


 目の前には。


 年老いた男。


 痩せた手。


 点滴。


 けれど。


 男は。


 小さなノートを持っている。


「今日も頼む」


 男が言った。


 冬真は。


 その顔を見た瞬間。


 思い出した。


 父だった。


「今日は何を書く?」


 冬真が尋ねると。


 父は。


 窓の外を見た。


 雨が。


 降っている。


「別に大したことじゃない」


 父は。


 少し考え。


 笑った。


「雨だった。飯はまずかった。それだけでいい」


 冬真は。


 小さなノートを開いた。


 そこには。


 毎日。


 ほんの数行だけ。


 言葉が残されていた。


 そして。


 こちらの世界。


 大型匿名掲示板。


『詩は無理』


『さすがにね』


『白瀬冬真でも何でも書けるわけじゃない』


『詩は専門性違うし』


『これで侵略止まったな』


 まだ。


 誰も知らない。


 白瀬冬真自身も。


 この人生で。


 詩人になるわけではない。


 ただ。


 父が最後の一年に残した言葉を。


 少しだけ。


 整えることになる。


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