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第5話 童話まで来たら、もう誰も止められない



 雪の降る夜だった。


 白瀬冬真は、暖炉のそばに置かれた古い椅子へ腰掛けていた。


 こちらの世界で何歳なのかは、もう分かっている。


 七十四歳。


 若い頃は町の郵便局で働き、三十を過ぎて結婚し、娘が二人生まれた。


 妻とは五十年以上連れ添った。


 数年前に先立たれ、今は長女夫婦の家で暮らしている。


 目の前の布団には、八歳になる孫娘が横になっていた。


「おじいちゃん。続き」


「そんなに急かさなくても、竜は逃げないよ」


「昨日もそう言って、途中で寝たもん」


「寝たのはリーナの方だろう」


「おじいちゃんも寝てた」


「老人は早寝なんだ」


「ずるい」


 少女がむっと頬を膨らませる。


 冬真は笑いながら、手にしていた木彫りの小鳥を膝へ置いた。


 この人生で、彼は作家ではなかった。


 物語を書いたこともない。


 絵本を出版したわけでもない。


 ただ、孫が眠れない夜に昔話を聞かせていただけだった。


 森の奥に住む、臆病な竜の話。


 その竜は大きな翼を持っているのに、空を飛ぶのが怖かった。


 炎を吐けるのに、火を見るだけで震えた。


 森の動物たちは最初こそ竜を怖がったが、やがて誰より臆病なのだと知り、少しずつ近づいていった。


 ある日。


 森へ大雨が降った。


 川が溢れ、小さなウサギの家が流されそうになる。


 竜は助けたいと思った。


 けれど川へ近づくのが怖い。


 雷も怖い。


 空を飛ぶのも怖い。


 それでも。


「竜さんは、飛んだの?」


 孫娘が聞く。


 冬真は首を振った。


「飛べなかった」


「えー」


「怖かったからな。いきなり何でもできるようにはならないよ」


「じゃあ、ウサギさんどうするの?」


「竜は考えた。飛べないなら、飛ばなくても助けられる方法を探せばいいって」


 大きな体で倒木を運ぶ。


 川へ橋を作る。


 森の動物たちがその橋を渡り、ウサギ一家を助け出す。


 竜は結局、空を飛ばなかった。


 それでも誰かを助けることはできた。


 孫娘はしばらく黙ってから、小さく笑った。


「じゃあ、竜さんすごいね」


「飛べなくても?」


「うん。できることで助けたから」


「そうだな」


 冬真は少女の髪を撫でた。


「できないことがあっても、それで何もできないことにはならないからな」


 少女は何度か頷いた。


 そのうち瞼が重くなっていく。


「おじいちゃん……明日は?」


「続きか?」


「竜さん、いつか飛べる?」


 冬真は少し考えた。


「それは明日のお楽しみだ」


「またそれ……」


 最後まで文句を言い切る前に、孫娘は眠ってしまった。


 冬真は布団を掛け直す。


 暖炉の薪が小さく爆ぜた。


 窓の外では、まだ雪が降っている。


 そんな夜が何度もあった。


 冬真は毎晩のように話を作った。


 空を飛べない竜。


 泳げない魚。


 歌えない小鳥。


 道に迷ってばかりの旅人。


 王様になりたくない王子。


 話の主人公たちは、どこか足りなかった。


 何でもできる者など、一人もいなかった。


 けれど孫娘は、それを楽しみにしていた。


 彼女が少し大きくなってからは、今度は一緒に話を考えるようになった。


「この子はどうする?」


「森に行く」


「何しに?」


「きのこ探し」


「毒きのこだったら?」


「おじいちゃんが食べる」


「殺すな」


 二人で笑った。


 やがて孫娘は成長し、夜に物語を聞かなくなった。


 それでも、昔話を忘れたわけではなかった。


 冬真が八十を越えた頃。


 孫娘は一冊の本を持って帰ってきた。


 表紙には、小さな竜が描かれていた。


『空を飛べない竜のおはなし』


 作者欄には、孫娘の名前があった。


「……これ」


「覚えてる?」


「覚えてるどころか、俺が考えた話じゃないか」


「半分くらいね。残りは私が直した」


「勝手に?」


「おじいちゃん、出版する気なかったでしょ」


「そもそも文章にしてないからな」


 孫娘は笑った。


「だから、私が書いたの」


 冬真はしばらくその絵本を眺めていた。


 そして。


「……絵、下手だな」


「そこ褒めるところでしょ!」


「竜の首が長すぎる」


「子供向けだからいいの!」


「いや、これは竜じゃなくて鳥だろ」


「返して!」


 笑いながら本を取り合った。


 その夜。


 冬真は自室で、その絵本を何度も読み返した。


 自分の作った話が、誰かの手で形になる。


 不思議な気分だった。


 けれど。


 悪くなかった。


 それどころか、少しだけ誇らしかった。


 その人生は、大きな事件もなく終わった。


 英雄にならない。


 世界を救わない。


 国を動かさない。


 ただ家族と暮らし、孫へ昔話を聞かせて、老いていった。


 そして――。


「……あ」


 白瀬冬真は、自分の布団で目を開けた。


 朝だった。


 天井。


 スマートフォン。


 カーテン。


 見慣れた六畳一間。


 冬真はしばらく動かなかった。


「……今度は、童話か」


 口に出すと、少し笑ってしまった。


 昨日の掲示板を思い出したからだ。


 童話だけはない。


 子供向けは難しい。


 白瀬冬真の作風とも違う。


 あれだけ好き勝手に言っていた。


「ご期待に添えそうで何よりだよ」


 もちろん、誰にも聞こえていない。


 冬真は起き上がった。


 顔を洗う。


 コーヒーを淹れる。


 そしていつものようにパソコンを開いた。


 新規文書。


 最初に書く話は決まっている。


『空を飛べない竜のおはなし』


「これは、そのままでいいな」


 珍しくタイトルで迷わなかった。


 文章も、いつもの作品とは少し違った。


 難しい言葉は使わない。


 一文をただ短くするのではなく、子供が聞いて分かるように、言葉を柔らかく整える。


 昔、孫娘へ語ったときの調子を思い出す。


 冬真は何度も書き直した。


 大人が読む小説より簡単だと思っていたわけではない。


 むしろ逆だった。


 説明できない。


 誤魔化せない。


 難しい言葉で逃げられない。


「……結構難しいな」


 それでも、午前中には第一話を書き終えた。


 時計を見る。


 十一時十四分。


 冬真は昨日のことを思い出した。


 スポーツ。


 VRゲーム。


 そして今日が童話。


「三日連続なんだよな……」


 さすがに投稿するか迷う。


 掲示板がまた騒ぐ。


 ランキングがどうなるかは分からないが、少なくとも作者ページを見張っている人間はかなりいる。


 冬真は投稿画面を開いた。


 閉じた。


 もう一度開いた。


「……別に悪いことしてないしな」


 投稿した。


 午前十一時二十一分。


 童話ジャンル。


『空を飛べない竜のおはなし』


 作者――白瀬冬真。


 そして。


 大型匿名掲示板。


『……』


『……』


『……来た?』


『来た』


『どこ』


『童話』


『…………』


『昨日、童話はないって言ってた奴』


『俺です』


『何回目だよ』


『もう反省してます』


『反省が遅い』


『でも待て。童話だぞ』


『だから何だ』


『これまでの小説と全然違うジャンルだろ』


『昨日のVRの時も似たようなこと言ってたぞ』


『読む』


『俺も』


『ちょっと行ってくる』


 数分。


 書き込みの速度が落ちた。


 いつものスレッドなら珍しいことだった。


 やがて一人戻ってきた。


『読んだ』


『どう』


『……普通に童話だった』


『語彙力』


『いや、そうとしか言えない』


『竜が無双した?』


『しない』


『火吐いた?』


『火が怖い』


『飛んだ?』


『飛べない』


『じゃあ何するんだよ』


『橋作る』


『地味』


『地味なんだけど、なんか好き』


 別の読者も戻ってくる。


『子供いる人に聞きたいんだけど、これ読み聞かせいける?』


『五歳の娘いる。今読んでみた』


『もう読ませたのかよ』


『ちょうど隣にいたから』


『反応は』


『竜が飛ばないところで「なんで?」って聞かれた。最後まで読んだら「飛ばなくてもいいんだね」って言ってた』


 そこで。


 スレッドが一瞬だけ静かになった。


 冬真は画面を見ながら、コーヒーへ手を伸ばす。


 次の書き込みが来た。


『……いいじゃん』


『うん』


『普通にいい』


『なんだよ急にお前ら』


『いや、なんか茶化しづらい』


『分かる』


『白瀬冬真なのに』


『白瀬冬真に何求めてんだ』


 冬真は吹き出した。


「俺なのに、ってなんだよ」


 本人としては少し納得がいかない。


 それから、少しずついつもの調子が戻ってきた。


『しかし本当に何でも書くな』


『ハイファンで魔王城攻略してる人と同一人物とは思えん』


『昨日は高校野球監督だったぞ』


『一昨日は料理人』


『その前から宇宙船整備してる』


『今はおじいちゃんが孫に童話聞かせてる』


『情報量が多すぎる』


『白瀬冬真というジャンルを新設した方が早い』


『分類を諦めるな』


『運営「ジャンル:白瀬冬真」』


『それ便利だな』


 冬真は笑いながら、童話の続きを書いた。


 昼を過ぎる頃には、感想も増え始めた。


『息子に読んだら、飛べない竜をずっと応援してました』


『大人ですが普通に泣きました』


『いつもの作品とは全然違うのに好きです』


『飛べないまま一話終わったのが良かった。次で急に最強の竜にならないでほしい』


「ならないよ」


 冬真は小さく答えた。


 あの竜は、すぐには飛ばない。


 次の話でも飛べない。


 その次も。


 孫娘が昔、何度も尋ねた。


 いつ飛べるの。


 冬真はそのたびに答えを濁した。


 結局、竜が自分から空へ飛んだのはずっと後だった。


 誰かを助けるためではなく。


 自分が見たかった山の向こう側を見るために。


 それを孫娘は、とても喜んだ。


 午後三時。


 童話ジャンル日間二十二位。


 午後五時。


 十三位。


 午後八時。


 八位。


「……ここも上がるのか」


 冬真はランキング画面を眺めた。


 もう驚くべきなのか、普通に喜ぶべきなのか分からなくなってきた。


 掲示板では新しい読者が増えている。


『童話民です』


『いらっしゃい』


『なんですかここ』


『白瀬冬真観測所』


『またそれ言ってる』


『作者ページ見たんですけど、なんで同じ人が宇宙SF書いてるんです?』


『そういう人なので』


『どういう人なんです?』


『それを調査中』


『調査して何か分かりました?』


『何も』


『駄目じゃん』


 さらに夜。


 一つの書き込みが妙に伸びた。


『今日、久しぶりに子供へ本読んだわ』


 返信がつく。


『童話?』


『うん。最近仕事遅くて、寝る時間までに帰れないこと多かったんだけど、今日は間に合った』


『おお』


『娘が竜の話気に入ったみたいで、明日も続き読んでって言われた』


『作者明日更新しろ』


『急に責任重大になったな』


『白瀬冬真、子供の寝かしつけまで担当』


『仕事増やすなw』


 冬真は、その流れをしばらく見ていた。


 悪い気はしなかった。


 むしろ。


「……明日までに二話目出すか」


 そう思った。


 自分が書きたいから書く。


 記憶を残したいから書く。


 それは変わらない。


 けれど誰かが待っているなら、少しくらい頑張ってもいい。


 冬真は再びパソコンへ向かった。


 午後十一時。


 童話ジャンル。


 日間五位。


 ランキング画面を保存しようとして、冬真は手を止めた。


 まだ五位だ。


 それでも。


「……まあ、これも記念でいいか」


 保存した。


 これで何枚目なのか、もう数えていない。


 その頃。


 掲示板ではいつもの未確認ジャンル確認が始まっていた。


『では最新版です』


『まだやるのか』


『詩』


『エッセイ』


『その他』


『三つになった』


『とうとう三つ』


『詩だけは絶対無理』


『お前はもう黙れ』


『じゃあエッセイ』


『何を書くんだよ』


『白瀬冬真の日常』


『作品より作者の生活の方が気になる』


『十何作品も書いてる人の日常見てみたい』


『たぶん一日中書いてる』


『それはそう』


『その他は?』


『その他って何を投稿するジャンルなんだ』


『知らん』


『運営に聞け』


『運営困らせるな』


 冬真はそこまで読んで、パソコンを閉じた。


 今日は眠らないつもりだった。


 童話の二話目をもう少し書きたい。


 それに、最近は眠るたび別の人生へ行っている。


 一晩くらい休みたい気持ちもある。


 冬真はコーヒーを追加した。


 机へ戻る。


 続きを書く。


 午前一時。


 まだ眠くない。


 午前二時。


 少しだけ瞼が重くなってきた。


「……あと千字」


 そう呟いた。


 午前二時四十七分。


 冬真は机へ突っ伏したまま眠っていた。


 そして。


 次に意識を取り戻したとき。


 目の前には、教室いっぱいの学生が座っていた。


 冬真自身も若かった。


 どうやら大学生らしい。


 壇上では教授が何かを説明している。


 冬真の机の上には、一枚の紙。


 課題。


『あなたがこの一年で経験したことについて、自由に論じなさい』


 冬真は、その文章を見つめた。


 そして隣の学生が、小声で話しかけてきた。


「冬真、お前また旅行のこと書くの?」


「旅行?」


「去年だけで十二か国行っただろ。あれ、絶対単位取れるって」


 冬真は少しだけ黙った。


 窓の外には。


 見たこともない巨大な湖と、その向こうに広がる山脈があった。


 どうやら。


 今度の人生は、ずいぶん旅の多いものになりそうだった。


 その頃。


 こちらの世界の掲示板では。


『エッセイはさすがに材料ないだろ』


『小説家の日常しか書くことなくない?』


『それエッセイとして面白いか?』


『さすがに今回は大丈夫』


 誰かが書き込んだ。


『お前ら、本当に学ばないな』


 その一言に。


 誰も反論できなかった。


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