第4話 VRゲームまで書けるとは誰も聞いていない
翌朝。
白瀬冬真が目を覚ましたとき、最初に思ったのは、懐かしいという感情だった。
懐かしい。
ただし、目の前にある六畳一間のアパートに対してではない。
昨日まで二十年以上、毎日のように見ていた仮想世界の景色に対してだった。
「……終わったんだよな」
布団の上へ座ったまま、冬真はしばらく動かなかった。
頭の中には、一つの街が残っている。
空中へ浮かぶ巨大な城。
青白い光を放つ転移門。
プレイヤーたちが露店を並べる中央広場。
始めたばかりの初心者が、武器屋の場所を探して迷う路地。
そして。
最後の日。
サービス終了を迎えた瞬間までログインしていた、何万人ものプレイヤーたち。
昨夜、冬真が生きた人生は冒険者ではなかった。
勇者でも。
最強プレイヤーでも。
ゲーム世界へ閉じ込められた英雄でもない。
開発者だった。
それも、最初から最後まで。
企画会議で無茶な仕様を押しつけられ、実装できないと怒鳴り、徹夜で不具合を直し、サービス開始日にサーバーが落ちて青ざめ、初めてユーザー数十万人突破の報告を聞いた日に会社の廊下で同僚と抱き合った。
そして二十年以上。
一つのVRオンラインゲームを育て続けた。
「書くか」
冬真は起き上がった。
顔を洗い、コーヒーを淹れ、ノートパソコンを開く。
昨日までの人生を文章にしなければ、細かな感覚が少しずつ薄れていく。
冬真はまず、新規文書の一行目へタイトル候補を書いた。
『サービス終了したVRMMOを二十三年作り続けた俺、最後の日までただの運営でした』
「……地味だな」
しかし、悪くない。
むしろ冬真は気に入った。
最強スキルもない。
世界を救うわけでもない。
プレイヤーから崇拝される伝説の運営でもない。
不具合を直し、イベントを考え、時には炎上し、人口減少に頭を抱え、それでも最後までゲームを閉じなかった開発者の話だ。
冬真は書き始めた。
最初の場面は、サービス終了告知を出した日からにした。
社内会議室。
長机。
冷めたコーヒー。
誰も口を開かない会議。
最後にプロデューサーが深く頭を下げ、
『六月三十日をもって、《アーク・エターナル》のサービスを終了します』
と告げる。
冬真自身も、その場にいた。
まだ若かった頃に作り始めたゲーム。
それが終わる。
ユーザー数が減っていることは知っていた。
採算も厳しい。
機材も古い。
技術更新へ対応するには、莫大な費用が必要になる。
合理的に考えれば、終了するしかなかった。
それでも。
会議が終わったあと、誰も席を立てなかった。
その空気まで覚えている。
冬真はキーボードを叩きながら、ふと時計を見た。
「もう十時か」
朝食もまだだった。
昨日のスポーツ小説のランキングも見ていない。
スマートフォンを手に取り、小説投稿サイト《ノベルスフィア》を開く。
スポーツジャンル。
日間二位。
「……二位まで来たのか」
さすがに驚いた。
昨日投稿したばかりだ。
掲示板を開いてみる。
案の定、朝から賑わっていた。
『スポーツ二位』
『強い』
『昨日七位だったのに』
『野球民が普通に読み始めてる』
『これ一位あるぞ』
『白瀬冬真の領土がまた増える』
『だから領土って言うな』
『ところで昨日VRは無理って言ってた人たち』
『忘れろ』
『まだ何も起きてないだろ』
『そうだぞ』
『今なら撤回できる』
『撤回するのダサくない?』
『俺は言い続ける。VRだけは無理』
『フラグ立て職人』
冬真は、その書き込みを見た。
そして。
自分のパソコン画面を見る。
新作の冒頭は、すでに八千字ほど進んでいた。
「……」
もう一度掲示板を見る。
『VRは専門知識が必要』
『ゲームやっただけじゃ書けないからな』
『開発側まで描くなら相当取材しないと無理』
『白瀬冬真でもさすがに経験ないだろ』
冬真は少し困った顔をした。
「経験は……あるんだよな」
それも二十三年分。
だからといって、今すぐ投稿する必要はない。
スポーツ小説を出した翌日だ。
二日連続で新ジャンルへ行けば、また騒ぎになる。
冬真は投稿画面を閉じた。
「今日はやめておこう」
そう決めた。
一時間後。
第一話を書き終えた。
読み返す。
修正する。
また読み返す。
午後一時。
冬真は無言で投稿画面を開いた。
「……書き終わったものを置いておく意味もないしな」
誰に言い訳しているのか分からなかった。
ジャンル。
VRゲーム。
タイトル。
『サービス終了したVRMMOを二十三年作り続けた俺、最後の日までただの運営でした』
投稿ボタンを押す。
公開。
「よし」
冬真はすぐにブラウザを閉じた。
今日は掲示板を見ない。
どうせ騒ぐ。
分かっている。
だから見ない。
その決意は、十一分しか保たなかった。
「……ちょっとだけ」
大型匿名掲示板を開く。
該当スレッドは、すでに祭りになっていた。
『謝罪会場はこちらです』
『早い』
『まだ投稿から十分だぞ』
『誰だ昨日VRは無理って言った奴』
『俺です』
『俺もです』
『私です』
『多すぎる』
『全員前へ出ろ』
『いやまだ面白いか分からないだろ』
『そうだ。投稿しただけなら勝ちじゃない』
『お前ら往生際悪いぞ』
冬真は笑いを堪えながら続きを読んだ。
『タイトル見て思ったんだけど、プレイヤー側じゃないの?』
『運営らしい』
『二十三年運営する話?』
『らしい』
『VRMMO小説で運営主人公ってかなり珍しくない?』
『ゲーム内最強とかじゃないんだ』
『今のところサービス終了会議から始まってる』
『開幕が葬式みたいで草』
『草とか言ってるけどちょっと切ないぞ』
『俺、一話読んできた』
『判定』
『普通に好き』
『また負けた』
『まだだ、VR民を呼べ』
やがて、本当にVRゲームジャンルの読者らしい書き込みが増え始めた。
『VRジャンル民です』
『専門家きた』
『別に専門家ではない』
『どう?』
『ゲーム開発や運営の仕事自体は知らないけど、オンラインゲームやってる側としては妙に分かるところ多い』
『例えば?』
『大型アップデート直後にプレイヤーが想定外の場所へ集まりすぎてサーバー落ちた話とか、公式イベントで用意した景品よりバグで生まれた変な帽子の方が人気になった話とか』
『ありそう』
『あと運営が必死で考えた新コンテンツより、プレイヤーが勝手に作った鬼ごっこルールの方が流行ったくだり好き』
『それは運営泣く』
『主人公も泣いてる』
冬真は頬杖をついた。
実際に泣いた。
開発チームが半年かけて作った大型ダンジョンより、ユーザー同士が広場で始めた遊びの方が話題になったときは、会議室が何とも言えない空気になった。
しかし、その後は開き直った。
公式側も鬼ごっこ大会を支援した。
結果として、その遊びは十年以上続く恒例イベントになった。
冬真にとっては懐かしい思い出である。
『しかしこの作者本当に何歳なんだ』
『それ昨日も言ってた』
『二十代で高校野球監督十五年やって、VRMMO運営二十三年やって、宇宙船整備して、王都で料理人四十六年やった男』
『文章にすると化け物すぎる』
『やめろw』
『前世何個あるんだよ』
冬真の指が、一瞬だけ止まった。
「……前世ではないけどな」
それ以上は気にせず読み進める。
掲示板の住人たちにとっては単なる冗談だ。
『白瀬冬真職歴一覧作ろうぜ』
『やめろ』
『荷物持ち』
『ダンジョン関係者』
『宇宙船整備士』
『探偵』
『料理人』
『高校野球監督』
『VRゲーム運営』
『転職回数どうなってんだ』
『履歴書一枚じゃ足りない』
『面接官逃げるぞ』
『逆に採用するだろ。何でもできるぞ』
冬真はとうとう声を出して笑った。
「職歴扱いされてるのか」
確かに、本人にとっては全部経験した仕事ではある。
履歴書へは絶対に書けないが。
午後三時。
新作はVRゲームジャンルの日間十九位。
午後五時。
十一位。
午後七時。
六位。
そして夜九時。
三位。
「また上がるの早くないか……?」
冬真は半ば呆れながらアクセス解析を眺めた。
新規読者だけではない。
過去作から流れてきた人間も多い。
逆に、新作から作者ページへ飛び、これまでの作品を読み始めた人もいる。
ジャンルを一つ増やすたび、他作品まで数字が伸びている。
つまり。
料理読者がSFを読む。
スポーツ読者が恋愛へ行く。
VRゲーム読者が純文学へ飛ぶ。
投稿サイトとしては、かなり奇妙な読者移動が起きていた。
掲示板でも、その話になっている。
『俺VRから来たんだけど、なんで今ハイファン読んでるんだろう』
『正常です』
『その返し流行ってるの?』
『ここでは正常』
『私は異世界恋愛から来て今野球読んでる』
『俺ホラー民だったのに昨日オムレツ作った』
『影響されすぎだろ』
『料理一話読んだら食いたくなったんだよ』
『白瀬冬真、ジャンル間人口移動を発生させる』
『運営からしたら良い作者なのでは?』
『サイト内回遊率めちゃくちゃ上げてそう』
『運営「もっとやれ」』
冬真は少し考えた。
確かに、自分のせいで普段読まないジャンルへ行く人は増えているらしい。
それ自体は悪くないと思った。
自分だって、人生を体験するまでは高校野球の監督が何を考えているか知らなかった。
宇宙船の整備士がどんな生活をしているかも。
王都の料理人が毎朝何を気にして市場へ行くのかも。
知らない世界を知るのは面白い。
それが小説を通して起きているなら、少し嬉しかった。
夜十一時。
スポーツジャンルのランキングが更新された。
一位。
『弱小野球部の監督になって十五年、甲子園には一度しか行けませんでした』
作者――白瀬冬真。
「……取った」
冬真は思わず声を漏らした。
昨日二位まで上がってから、ずっと一位との差が縮まらなかった。
それがとうとう逆転したらしい。
掲示板もすぐ反応する。
『スポーツ陥落』
『また言ってる』
『白瀬冬真スポーツ一位』
『昨日まで未確認ジャンルだったんだぞ』
『料理に続いて二日連続か』
『次はVRだな』
『今三位』
『怖い』
『もう抵抗するのやめようぜ』
『何に抵抗してるんだよ』
そして。
少し間を置いて、一つの書き込みが投下された。
『未確認ジャンル一覧更新しました』
『もう好きにしろ』
『童話』
『詩』
『エッセイ』
『その他』
『……四つ?』
『四つ』
『だいぶ追い詰めたな』
『何を追い詰めたんだ』
『ランキング』
『ランキングに意思はない』
『次は詩とか?』
『さすがに詩は無理』
『お前それ何回目だよ』
『いや詩は本当に違うだろ。長編小説と技術が別物だぞ』
『俺はもう何も言わない』
『賢い』
冬真は、その書き込みを見ながらベッドへ入った。
「詩か……」
書いた経験はない。
今のところ。
エッセイもない。
童話もない。
その他ジャンルなら、何を投稿すれば該当するのかすらよく分からない。
「まあ、全部書く必要なんてないしな」
当然だった。
別に全ジャンル制覇を目指しているわけではない。
冬真はスマートフォンを充電器へ置いた。
明日はVRゲーム小説の続きを書こう。
スポーツの続きも書きたい。
料理もまだ書き切れていない。
仕事が増えたような気がする。
「……寝るか」
冬真は目を閉じた。
数分後。
意識が深く沈んでいく。
そして。
次に目を開けた冬真は、小さな女の子の前へ座っていた。
少女は布団の中から、不安そうな目でこちらを見上げている。
「おじいちゃん。眠れないから、いつものお話して」
冬真は手元を見た。
皺だらけの手。
その指には、古い木彫りの小鳥が握られていた。
窓の外では雪が降っている。
暖炉の火が、静かに揺れていた。
冬真は少女の頭を撫でながら、自然と笑った。
「今日は、森の奥に住んでいる臆病な竜の話にしようか」
「昨日の続き?」
「ああ。あの竜が初めて友達を作るところからだ」
少女は嬉しそうに布団を握りしめた。
その頃。
こちらの世界の掲示板では。
『童話だけはさすがにない』
『子供向けって難しいからな』
『白瀬冬真の作風とも違うだろ』
『今度こそ安全』
また同じような会話が繰り返されていた。
そして誰一人として。
その発言から逃げられないことを、まだ知らなかった。




