第3話 スポーツは無理だろ、と言った人は出てきてください
「監督! 九回裏です。二点差。ツーアウト満塁です。ここで逆転しないと、俺たちの夏が終わります!」
泥だらけの少年にそう叫ばれた瞬間、白瀬冬真は状況を理解していた。
理解してしまっていた、と言った方が正しいかもしれない。
目の前にいるのは、三年間一緒に野球をしてきた部員たちだった。
県立青峰高校野球部。
部員二十三名。
強豪校でもなければ、名門でもない。冬真が監督へ就任するまで、県大会では二回戦を突破できれば上出来という、ごく普通の公立高校だった。
それでも今年は勝ち上がった。
三回戦。
準々決勝。
準決勝。
そして今、甲子園出場を懸けた県大会決勝。
九回裏。
二対四。
二死満塁。
打席に入るのは、三年生の七番打者だった。
冬真はベンチからグラウンドを見つめた。
相手投手は県内でも有名な右腕で、今日ここまで十二奪三振。球数は百三十球を超えているものの、球威はまだ残っている。
一方、青峰高校の七番打者、三枝圭介は今日三打数無安打。
しかも左投手を得意としている選手で、右の本格派とは相性が悪い。
「代打、出しますか?」
隣にいた部長が、小さな声で尋ねてきた。
冬真は答えなかった。
代打候補ならいる。
二年生の山崎。
右投手への対応力だけなら、三枝より上だ。
数字だけ見れば山崎を出すべきだった。
けれど冬真は、三枝がベンチへ戻ってくる姿を何度も見てきた。
三年間。
誰より早くグラウンドへ来て、誰より遅くまでバットを振っていた。
ただし、それだけで試合に出すつもりはない。
努力した者を優先するだけなら、監督など必要ない。
冬真が見ていたのは、相手投手だった。
初回からずっと。
追い込んでから三枝へ投げている球種。
初打席は外角低めのスライダー。
二打席目もスライダー。
三打席目も、最後は外へ逃げるスライダーだった。
三枝はすべて手を出している。
そして三回とも、空振りか凡打。
相手バッテリーからすれば、最も安全な攻め方だ。
「三枝」
冬真が呼ぶと、ヘルメットを被った少年が振り返った。
緊張している。
当然だった。
十八歳の少年へ、県中の視線が集まっている。
「三年間やってきたことを全部出せ、なんて言わない。そんなことを考えたら体が動かなくなる」
三枝は黙って冬真を見ていた。
「外へ逃げる球は捨てろ。追い込まれてもだ。相手は最後にもう一度あそこへ投げる。だから、それまで来る球だけ見ていけ」
「でも、追い込まれて外へ来たら……」
「見逃し三振になるな。そのときは俺の責任だ」
三枝の表情が変わった。
冬真は続けた。
「ただし、それ以外を振り遅れたらお前の責任だからな。そこまで面倒は見ないぞ」
一瞬だけ、三枝がぽかんとした。
それから、緊張で固まっていた顔が崩れた。
「そこまで言ったなら最後まで面倒見てくださいよ、監督」
「嫌だよ。監督にだって背負える範囲がある」
ベンチから小さな笑いが起こった。
三枝も笑った。
それで十分だった。
「行ってこい」
「はい!」
三枝が打席へ向かう。
歓声が大きくなる。
冬真は腕を組み、相手投手を見つめた。
一球目。
内角直球。
ストライク。
三枝は振らない。
二球目。
高めの直球。
ボール。
三球目。
外角へのスライダー。
三枝のバットが動きかけたが、止まった。
ボール。
「よし……」
冬真の隣で部長が呟いた。
四球目。
内角。
三枝が振る。
鋭いファウルが三塁側スタンドへ飛び込んだ。
二ボール二ストライク。
あと一球で終わる。
スタンドの歓声が遠く感じられるほど、グラウンドには異様な緊張が満ちていた。
投手がセットポジションへ入る。
冬真は動かなかった。
捕手がサインを出す。
投手が頷いた。
そして。
外角低めへ、ボールが沈んでいった。
スライダー。
三枝は振らなかった。
球審の右手も上がらない。
「ボール!」
三ボール二ストライク。
相手バッテリーがわずかに顔を見合わせた。
冬真はそこで初めて、口元を緩めた。
もう一度、同じ球を続ける可能性は低い。
満塁。
フルカウント。
押し出しは避けたい。
相手投手が今日一番信用している球は、外角へ逃げるスライダーではない。
真っ直ぐだ。
そして三枝は、直球だけなら誰よりも振り込んできた。
六球目。
投手が腕を振る。
白球が、内角へ入った。
金属音が球場全体へ響いた。
三枝の打球が一、二塁間を抜ける。
三塁走者が帰る。
二人目も帰る。
同点。
そして二塁走者まで、三塁を回った。
「回れ!」
ベンチの全員が叫んだ。
右翼手から返球が来る。
走者が滑り込む。
捕手がタッチする。
砂埃が舞った。
数秒ほどにも感じられる、一瞬の静寂。
球審の両腕が、大きく横へ広がった。
「セーフ!」
その瞬間、冬真は二十三人の少年に押し潰された。
「監督!」
「勝った!」
「甲子園だ!」
「重い! お前ら本当に降りろ!」
誰も聞いていなかった。
泣いている者もいた。
笑いながら泣いている者もいた。
冬真も、この日ばかりは怒る気にならなかった。
そのあと青峰高校は甲子園へ出場し、一回戦で負けた。
全国制覇などしなかった。
漫画のように、弱小高校がそのまま全国の頂点へ駆け上がることもなかった。
それでも冬真は、その世界で野球に関わり続けた。
教師として。
監督として。
ときには解説者として。
教え子の一人がプロ野球選手になり、別の一人は高校野球の監督になった。
甲子園へ行けない年の方が、圧倒的に多かった。
部員が十一人しか集まらない年もあった。
有望な選手が強豪私立へ流れ、どうにもならない年もあった。
負けたあと、誰もいなくなったベンチで一人だけ泣いている三年生を何度も見た。
それでも毎年春になれば、新しい一年生が入ってくる。
冬真は彼らへ野球を教えた。
勝ち方も。
負けたあとの立ち上がり方も。
そうして、長い時間を過ごした。
そして――。
「……腰が痛い」
白瀬冬真は、自分の布団の中で目を覚ました。
朝七時だった。
昨日寝たのは午前零時過ぎ。
こちらでは七時間ほどしか経っていない。
しかし冬真の感覚では、数十年ぶりにこの部屋へ戻ってきたことになる。
思わず腰へ手を当てる。
痛くない。
当たり前だ。
こちらの体はまだ若い。
「最後の方、ノックするだけで腰に来てたからな……」
冬真はしばらく布団の上へ座り、その感覚が抜けるのを待った。
それから立ち上がり、顔を洗う。
冷蔵庫を開けたところで、昨日のことを思い出した。
「あ」
料理小説。
確か一位になったはずだ。
気になってスマートフォンを見る。
料理ジャンル一位。
まだ維持している。
「よかった」
嬉しい。
だが、その下に大量の通知が来ていた。
冬真は嫌な予感を覚えながら、匿名掲示板を開いた。
例のスレッドは、昨日からさらに伸びている。
『おはよう』
『おはよう』
『料理一位維持確認』
『強い』
『ところで作者起きたかな』
『知らん』
『今頃次のジャンル書いてたりして』
『やめろ』
『スポーツは無理だぞ』
『昨日もそれ言ってたな』
『だって無理だろ。生活経験でなんとかなる料理と違って、スポーツは試合描写が必要だぞ』
『野球とかサッカーとかちゃんと知らないと厳しいしな』
冬真の指が止まった。
「……野球なら書けるな」
数十年分。
かなり書ける。
むしろどこから書けばいいのか迷うほどだった。
ノートパソコンを開く。
新規文書。
冬真は少し考えたあと、県立青峰高校が甲子園出場を決めた、あの夏から書き始めることにした。
タイトルはすぐに決まった。
『弱小野球部の監督になって十五年、甲子園には一度しか行けませんでした』
「……これでいいか」
派手ではない。
全国無双もしない。
天才選手を次々育てるわけでもない。
甲子園出場は、一度だけ。
けれど冬真にとっては、それが一番正しかった。
作品を書き始める。
気づけば昼になっていた。
第一話を書き終えたところで、冬真は一度手を止めた。
そして少し悩んだ。
「今投稿したら、また騒がれるよな」
昨日の料理小説で、あれだけ騒ぎになったばかりだ。
今日くらい間を空けてもいいのではないか。
そう思った。
思ったのだが。
書いたものを投稿せず残しておく理由も特になかった。
「まあ……スポーツなら、すぐランキングに入るわけでもないだろ」
投稿ボタンを押した。
午後十二時四分。
スポーツジャンルへ、新しい作品が追加された。
その九分後。
掲示板。
『おい』
『何』
『おい』
『だから何だよ』
『スポーツ』
『?』
『来た』
『誰が』
『白瀬冬真』
『嘘つけ』
『マジ』
『昨日スポーツは無理って言った奴出てこい』
『俺です』
『感想は』
『まだ読んでる』
『逃げるな』
『待て、試合描写長いんだよ』
『面白い?』
書き込みが一度止まった。
数分後。
先ほどの人物が戻ってくる。
『……悔しい』
『何が』
『普通に面白い』
『草』
『負けたんじゃねえか』
『いや待ってくれ。これ普通の弱小高校無双ものじゃない。甲子園一回しか行けなかった監督の話だ』
『タイトルに書いてあるだろ』
『そうなんだけど、勝った試合より負けた試合の方が多そうなのに、なんか読みたくなる』
『野球詳しくない俺でも読める?』
『いける。監督視点だから選手より試合全体を見る感じ』
『野球民どう?』
『いま確認してる』
そこから数分。
掲示板では珍しく、少しだけ静かな時間が流れた。
そして。
『野球民です』
『きた』
『判定お願いします』
『腹立つ』
『またかよ』
『細かいところが普通に分かってる。高校野球の監督経験者に取材でもしたのかってくらい、ベンチの空気とか選手起用の迷い方が妙にリアル』
『白瀬冬真って何歳なんだ』
『二十代じゃなかった?』
『なんで二十代が高校野球監督十五年分の空気知ってるんだよ』
『作家だからだろ』
『作家ってすげえな』
冬真はその書き込みを読みながら、目を逸らした。
「……まあ、作家だからということにしておいてくれ」
説明するつもりはなかった。
午後三時。
スポーツジャンル日間三十七位。
午後五時。
二十一位。
午後七時。
十一位。
昨日ほどの異常な上がり方ではない。
それでも、新作一話としては十分すぎる勢いだった。
そしてランキングが上がるたび、掲示板にはスポーツジャンルの読者が増えていった。
『野球民から来ました』
『ようこそ』
『ここ何のスレなんですか』
『白瀬冬真を観測するスレ』
『本人は何なんですか』
『我々にも分からない』
『なんで料理一位なんです?』
『昨日取った』
『なんでSFも一位なんです?』
『前からいる』
『ハイファンも一位ですよね?』
『それも前から』
『意味分からないんですが』
『正常です』
『何が正常なんだよ』
冬真はとうとう笑ってしまった。
この数日で、掲示板の空気そのものが変わっている。
最初は「何者なんだ、この作者」という話だった。
今では、どのジャンルへ次に現れるのかを見守る場所になりつつある。
そして夜。
スポーツジャンル。
日間七位。
冬真はランキングを確認したあと、昨日撮ったスクリーンショットの隣に今日の画面も保存した。
「……まだ一位じゃないからな」
なぜそんな言い訳をしたのか、自分でも分からない。
掲示板では別の話題で盛り上がっていた。
『未確認ジャンル一覧更新』
『やめろって』
『童話、詩、VRゲーム、エッセイ、その他』
『だいぶ減ったな』
『いや、そもそも全部埋める必要ないから』
『次はVRだな』
『ないない』
『スポーツも昨日そう言ってたぞ』
『VRは実際にゲーム作る知識までいるだろ』
『この作者ならやりそう』
『さすがにない』
『俺は信じないぞ』
『覚えておくからな、その発言』
冬真は画面を眺めながら首を傾げた。
「VRゲームか……」
書いたことはない。
経験したことも――。
「いや、一回あったな」
ずっと昔に見た人生を思い出した。
仮想世界へ接続する技術が当たり前になった世界。
職業はゲーム開発者。
開発開始からサービス終了まで、二十年以上関わったオンラインゲーム。
ただし。
「……あれ、書いたら長いんだよな」
冬真は少し迷ったあと、スマートフォンを伏せた。
今日はもう書かない。
スポーツ小説の続きをもう一話分だけ進めて、早めに寝よう。
一方。
掲示板では。
『VRは無理』
『絶対無理』
『専門知識いるし』
『スポーツとはわけが違う』
『もし来たら謝るわ』
そんな書き込みが、次々と増えていた。
翌朝。
その発言をした者たちがまとめて謝罪することになるとは、この時点では誰も知らなかった。




