第11話 機関室がようやく燃えるのをやめた
輸送艦の機関室では、警報音と金属の軋む音が重なり合っていた。
赤い非常灯の下で、破裂した冷却管から白い蒸気が噴き出し、その向こうでは配線の被覆が焼けて小さな火柱を上げている。床は船体の振動で絶えず震え、壁面の表示盤にはいくつもの異常警告が点滅していた。
白瀬冬真は工具箱を開きながら、まず炉心温度と第二冷却系統の圧力を確認した。
火災そのものは目立つ。
だが、本当に危険なのは火ではない。
主冷却系が止まったまま炉の熱だけが上がり続ければ、機関室を消火できても船は終わる。
「リック、第三配管の遮断弁を閉じろ。手動でいい。第二系統から漏れ続けてる分を切らないと、補助冷却へ圧を回せない」
若い整備員のリックは、煙を避けながら壁際の弁へ走った。
「でも第三配管を閉じたら、左舷側の冷却が完全に止まりますよ!」
「今はもう止まってるのと同じだ。生きてる場所へ残った圧を集める。十五秒だけ補助系統を動かせれば、その間に主循環ポンプの安全装置を解除できる」
「安全装置を解除って、規定違反じゃないですか!」
「船が燃えてるときに規定を守って沈む方が怒られる」
「主任、それ絶対あとで報告書に書けないやつですよ!」
「じゃあ『現場判断』って書け。便利な言葉だぞ」
リックはこんな状況でも一瞬だけ顔をしかめたが、それ以上は何も言わず、重い遮断弁へ両手を掛けた。
若い。
まだ二十代前半。
配属されたばかりの頃は工具の置き場所すら間違えていた。
それでも今は、冬真が細かく説明しなくても次に何が必要になるかを考えて動けるようになっている。
冬真にとっては、ついさっきまで別世界でウサギとして草を食べ、病室で父の言葉を書き留め、高校野球の監督までしていた。
けれど、この船の中では何も飛んでいない。
最後にここにいた瞬間から、ほんの数秒しか経っていなかった。
そして身体は、頭より先に仕事を思い出していた。
「閉まりました!」
「補助冷却準備。俺が合図したら起動、十五秒で必ず切れ。十六秒目まで引っ張るなよ」
「一秒くらいなら――」
「その一秒で補助ポンプが焼ける。十五秒だ」
「了解!」
冬真は機関炉の側面パネルを外した。
内部から熱気が吹きつける。
通常なら触れるべきではない安全回路へ工具を差し込み、二重になっているロックを一つずつ解除した。
船体が大きく揺れた。
遠くで何かが爆発したらしい。
天井から細かな埃が落ち、リックが振り返る。
「また被弾です!」
「まだエンジンが回ってるなら気にするな。止まったら気にしよう」
「その順番でいいんですか!?」
「整備員が敵艦まで修理しに行けるなら逆でもいいぞ」
「無理です!」
「じゃあこっちを見る」
冬真は工具を回し、最後のロックを外した。
安全装置が警告音を変える。
表示盤に赤い文字が浮かんだ。
《手動介入。冷却制御保証外》
「リック、今!」
補助冷却が起動した。
低い唸りが機関室全体へ響き、止まりかけていた冷却液が一気に配管へ送り込まれる。
炉心温度。
まだ高い。
圧力。
上昇。
冬真は秒数を数えながら、主循環ポンプの再起動回路へ手を伸ばした。
「五秒……六、七……」
表示が一度消えた。
リックが息を呑む。
「主任、圧が!」
「見えてる。まだ切るな」
補助ポンプから嫌な振動が伝わる。
十秒。
十一秒。
主循環ポンプが反応しない。
リックの顔が青ざめる。
「動きません!」
「一回目はな」
「え?」
冬真は回路をいったん落とし、すぐ再投入した。
古い機関ではよくある。
一度完全に電圧を抜かないと、保護回路が中途半端な状態で噛み込む。
こちらの仕様書に書かれている方法ではない。
だが、何年もこの船を触ってきた冬真は、この機関の癖を知っていた。
十二秒。
主循環ポンプが震える。
十三秒。
低い回転音。
十四秒。
流量表示が動いた。
「リック、切れ!」
十五秒。
補助冷却停止。
ほぼ同時に主循環ポンプが本格的に回り始めた。
冷却液が主配管へ流れ、炉心温度がゆっくり下がっていく。
冬真は数秒表示を見つめ、それからようやく息を吐いた。
「通った」
リックがその場へ座り込みそうになった。
「……本当に十五秒でした」
「だから言っただろ」
「主任、最初からこうなるって分かってたんですか?」
「分かってたなら、もっと格好よくやってるよ。補助ポンプが十三秒で焼ける可能性もあった」
「今それ言います?」
「終わってからだから言える」
まだ作業は終わっていない。
冬真はすぐ火災区画へ視線を戻した。
冷却が復旧したことで、少なくとも炉そのものが焼ける危険は下がった。あとは残った火を消し、破損した配線を切り離し、最低限航行できる状態まで機関を戻す必要がある。
「消火剤、今度は使っていいぞ。ただし左奥の制御盤には掛けるな。あそこまで死んだら操舵室から推力を変えられなくなる」
「了解!」
二人で作業を続けた。
火は十分ほどで消えた。
煙が薄くなると、機関室の惨状がようやく見えてくる。
焼けた配線。
破裂した管。
熱で歪んだ床板。
それでも、機関は動いている。
船もまだ進んでいる。
冬真はインカムを取った。
「機関室から艦橋。主冷却復旧。出力は六十パーセントまでなら維持できます。それ以上は保証しません」
返事はすぐ来た。
『六十あれば十分だ! 追撃艦を振り切るまで持たせてくれ!』
「それを先に言うなよ……」
冬真は思わず眉を寄せた。
船が動くと分かった瞬間、艦橋は当然のように限界まで使おうとする。
いつものことだった。
リックが笑う。
「主任、艦橋の人たちって整備班の苦労分かってないですよね」
「分かってない。だから俺たちがいる」
「もっと怒ってもいいと思いますけど」
「帰港してから怒る。今怒って出力落とされたら困る」
「それも現場判断ですか?」
「便利だろ、その言葉」
《イーリス》はその後、六十パーセントの推力を保ったまま航路を変更し、追撃してきた敵艦を小惑星帯へ誘い込んだ。
戦闘艦ではない。
武装も少ない。
正面から撃ち合えば勝てない。
だから逃げる。
整備員にとって、戦うことより船を帰すことの方が重要だった。
追撃を振り切り、安全宙域へ入った頃には、冬真もリックも油と煤で顔まで黒くなっていた。
機関室の片隅へ座り込み、非常食の棒状ビスケットを齧る。
リックは一口食べたあと、しばらく機関炉を見つめていた。
「俺、さっき本気で終わったと思いました」
「俺も思ったよ」
「主任も?」
「そりゃ思う。冷却二系統死んで、機関室燃えて、そのうえ敵まで追ってきてるんだぞ。そこで『余裕です』って言うやつがいたら、そいつを最初に医務室へ連れていく」
リックが笑った。
「主任って、怖くないんですか?」
「怖いよ。ただ、怖いからって冷却管は勝手に繋がらないだろ」
「まあ……そうですけど」
「怖いなら確認する。逃げられるなら逃げる。直せるなら直す。それだけだ」
リックはしばらく黙っていたが、やがて自分の非常食をもう一口齧った。
「俺、いつか主任みたいになれますかね」
「やめとけ。報告書が増えるぞ」
「そこじゃなくて」
「なら、俺よりちゃんと仕様書を読め。今日みたいな方法を真似する前に、普通のやり方を全部覚えろ」
「主任は?」
「俺は若い頃にそれをやった。だから今、規定外のことをしてもどこまでなら壊れないか分かる」
リックは納得したように頷いた。
冬真はその横顔を見ながら、少しだけ昔の自分を思い出していた。
この人生でも最初から何でもできたわけではない。
工具を落とした。
配線を間違えた。
先輩に怒鳴られた。
何度も失敗した。
そうやって何年も船を触り続けた結果、ようやく音や振動だけで異常の場所を予想できるようになった。
そして、この日からも人生は続いた。
《イーリス》を降りたあとも、冬真は宇宙船に乗り続けた。
整備主任。
機関長。
やがて、船の運用そのものへ関わるようになった。
壊れたものを直すだけではなく、どうすれば壊さずに航海できるかを考える立場になった。
ただし、突然英雄になったわけではない。
戦争を一人で終わらせたわけでもない。
船を一隻ずつ帰した。
整備員を育てた。
必要な部品を確保した。
予定より危険な航路なら、艦橋と喧嘩してでも変更させた。
そんなことを積み重ねながら、冬真の役割は少しずつ大きくなっていった。
後に艦長と呼ばれるようになるまでには、まだ長い時間が必要だった。
そして――。
白瀬冬真は、自分の部屋で目を覚ました。
朝六時十一分。
しばらく天井を見上げたあと、最初に思い出したのは掲示板だった。
「……SFだったな」
昨日。
次回更新予想。
SFへ投票していた読者は二十九票だった。
冬真は布団から起き上がると、顔を洗う前にスマートフォンを確認した。
もちろん。
掲示板の人間たちは、まだ何も知らない。
『第二区画、まだ燃えてるかな』
『作中では数秒』
『何回目だそのやり取り』
『作者そろそろ起きた?』
『白瀬冬真睡眠予報では六時台』
『何だその予報』
『最近の投稿時間から逆算』
『分析するところそこ?』
「怖いな、その分析班」
冬真は苦笑しながらスマートフォンを置いた。
コーヒーを淹れ、パソコンへ向かう。
『廃星を拾った整備士、千年戦争の最後の艦長になる』
最後に投稿した場面を読み返す。
機関室。
火災。
リック。
そして。
そこから先。
今は書ける。
しかも、一話分どころではない。
向こうではその後も何年も生きていた。
「これなら、少し在庫にできるな」
昨日覚えたばかりの言葉を使って、冬真は少し得意そうに呟いた。
午前中に三話。
さらに下書きへ数話分の構成を残す。
全部を一気に出したい気持ちもある。
けれど、昨日学んだ。
連載には更新在庫というものがある。
「俺もだんだん普通の作者っぽくなってきたな」
少し方向が違う気もしたが、気にしないことにした。
午前十時。
一話目を投稿。
大型匿名掲示板。
『来た!』
『どこ!?』
『SF!』
『機関室!!』
『二十九票組勝利!』
『火は!?』
『今読んでるから待て』
『消える?』
『船は?』
『リック生きてる?』
『何でリックまで心配されてるんだよ』
数分後。
読み終えた読者が戻り始めた。
『消えた』
『機関室消火確認!』
『長かった……』
『作中では十分くらいだぞ』
『読者時間では長かったんだよ』
『補助冷却十五秒のところめっちゃ好き』
『主任、規定違反を現場判断で押し切ってて草』
『でも無茶じゃなくて、ちゃんと何年も触ってるから機関の癖知ってるって書き方なのいいな』
『急に隠された最強能力で解決しないの好き』
冬真はその書き込みを読み、少し嬉しくなった。
自分にとっては当然だった。
何十年も同じ仕事を続ければ、できることは増える。
それを特殊能力として考えたことはない。
『リックとの会話も好き』
『「怖いからって冷却管は勝手に繋がらない」って地味にいい』
『こういう現場のおっさん感どこから出てくるんだ白瀬冬真』
『作者二十代なんだよな?』
『取材です』
『また取材万能説』
「もうそれでいいよ」
冬真は諦めたように笑った。
昼。
二話目。
追撃からの離脱。
夕方。
三話目。
その後の整備と、リックが一人で小さな故障を任される話。
宇宙SFジャンル。
夕方二位。
夜。
一位。
掲示板では、SF民が妙な祝勝会を始めていた。
『SF一位復帰!』
『SF民おめでとう』
『ありがとうございます』
『いつから代表になった』
『機関室が消火されたので今日だけ代表』
『他ジャンル民は?』
『異世界恋愛です。王女まだ逃亡中です』
『ハイファンです。扉まだ開いてます』
『推理です。容疑者ずっと座ってます』
『ホラーです。押入れの前から動けません』
『料理です。誕生日が来ません』
『全部静止画みたいになってる』
冬真は思わず笑った。
そして。
当然のように。
次の企画が始まる。
『第二回・白瀬冬真次回更新予想』
『前回当たったSF民に何か賞品ある?』
『名誉』
『いらない』
『では一日他ジャンルを煽れる権利』
『最悪の賞品』
『採用』
『やめろ』
票が集まり始めた。
『今度こそハイファン』
『異世界恋愛』
『推理』
『料理』
『ホラー』
『その他』
『マル』
『まだマルいるのか』
『マルの続きは必要だろ』
『草食ってるだけだぞ』
『そこがいいんだよ』
冬真は、自分ならどこへ一票入れるか考えた。
今度は。
異世界恋愛。
王女を追いかけたところから先が、やはり気になる。
自分自身の記憶なのに、途中で切れているせいで他人の作品を読んでいるような気分になることがある。
「追いつけてればいいんだけどな」
冬真はそう呟きながら、夜になって布団へ入った。
今日は宇宙船の機関室で何年分もの人生を取り戻したような感覚がある。
身体は若いままだが、頭の奥には船の振動も、リックが歳を取っていく姿も、数え切れない航海の記憶も残っている。
目を閉じる。
そして次に冬真が意識を取り戻したとき、最初に感じたのは車輪の揺れだった。
馬車。
木製の車輪が石の多い街道を進み、窓の外では夕暮れの景色が後ろへ流れている。
目の前には。
一人の女性が座っていた。
長い髪。
旅装。
かつて王宮で見ていた豪華な衣装ではない。
それでも、冬真は一目で分かった。
国を捨てた。
元王女。
エレナ・アルシェイド。
彼女は窓の外を見たまま、静かな声で言った。
「……追ってこないでと書いたはずです」
その言葉を聞いた瞬間。
冬真の中へ。
この人生の記憶が戻った。
手紙。
王宮。
国境。
宿場を一つずつ探したこと。
馬を潰しかけるほど走ったこと。
そして。
ようやく。
彼女へ追いついた。
冬真は。
少しだけ。
息を吐いた。
「追いつけたのか」
エレナが怪訝そうにこちらを見る。
「何の話です?」
「いや。こっちの話です」
「昔から、時々そういうことを言いますね」
「すみません」
「謝ってほしいのは、そこではありません」
エレナは冬真を真っ直ぐ見た。
「どうして来たんですか?」
その問いに。
冬真は。
すぐには答えられなかった。
こちらの世界の掲示板では、第二回予想がまだ続いている。
『異世界恋愛に一票』
『今度こそ王女を追え』
『追いつくだけじゃ駄目だからな』
『ちゃんと話せ』
『何を』
『本人たちに任せろよw』
今回は。
異世界恋愛へ票を入れた読者たちが。
当たることになる。




