第12話 恋愛民、ついに一か月ぶりに救済される
馬車は王都から遠ざかる街道を、一定の揺れを刻みながら進んでいた。
窓の外では、夕暮れに染まった畑と低い丘がゆっくり後方へ流れていく。王都の高い城壁はもう見えず、街道沿いに並ぶ木々の向こうには、冬真にも見覚えのない土地が続いていた。
白瀬冬真の向かいには、エレナ・アルシェイドが座っている。
かつて王宮で見ていた第二王女の姿とは、ずいぶん違っていた。
宝石の付いた髪飾りもなければ、細かな刺繍の入ったドレスも着ていない。髪も簡素にまとめられ、身につけているのは旅商人でも着ていそうな地味な外套だった。
それでも冬真には、一目で彼女だと分かった。
何年も護衛として側にいた。
歩き方も、考え込むときに少しだけ唇を結ぶ癖も、機嫌が悪いと右手の指先で左手の甲を撫でる仕草も知っている。
今も、彼女の右手はその動きを繰り返していた。
「どうして来たんですか?」
エレナがもう一度尋ねた。
先ほどより声は落ち着いている。
怒っているようにも聞こえるが、それだけではない。
冬真は答えを探した。
護衛だから。
最初に思いついたのは、それだった。
けれど、その言葉を口にした瞬間、何か大切なものを間違える気がした。
実際、もう護衛として追ってきたわけではない。
エレナが国を離れたあと、王宮から冬真へ命じられたのは帰還だった。
第二王女本人が自ら国を出た以上、護衛任務は解除する。
追跡する必要もない。
そう正式に伝えられている。
それでも冬真は馬へ乗った。
王都を出た。
街道沿いの宿を一軒ずつ回り、関所で人相を尋ね、港へ向かう可能性まで考えて道を分けた。
途中で何度も、自分が何をしているのか考えた。
任務ではない。
命令でもない。
それなのに、止まれなかった。
「最初は、護衛だからだと思っていました」
冬真はゆっくり言った。
エレナの指先が止まる。
「最初は?」
「あなたが国を出たと知ったとき、放っておけないと思ったんです。護衛だった人間として当然だと、自分ではそう考えていました」
「では、やはり護衛として追ってきたんですね」
「違います」
冬真がはっきり否定すると、エレナは意外そうに顔を上げた。
「途中で気づきました。護衛なら、王宮から戻れと言われた時点で戻ればいい。あなたの安全だけが目的なら、国境近くで無事だと確認した時点で終わりでもよかった。でも俺は、それでは嫌だったんです」
言葉にしていくと、自分でも分かってくる。
あの数日間。
眠らず馬を走らせた理由。
宿の主人から「似た女性なら昨日出た」と聞いただけで、胸の奥が軽くなった理由。
見つからなければ、このまま国の外まで追うつもりだった。
「エレナ様が無事かどうかだけじゃなくて、どこへ行くのか、これからどう生きるつもりなのか、それを知りたかった。たぶん……俺はずっと、王女としてしか見ていないつもりでいたんです」
エレナの眉が少し動いた。
「つもり?」
「護衛対象だから気にする。王女だから守る。仕事だから側にいる。そう思っていました。でも、あなたがいなくなったあと、それだけじゃなかったことに気づきました」
冬真は一度言葉を止めた。
これまで剣を持って敵の前へ立つことなら何度もあった。
命を狙われるエレナを庇ったことも、一度や二度ではない。
それなのに。
今の方が緊張している。
「俺は、あなたが王女だから追ってきたんじゃありません。エレナという一人の人間がいなくなって、それが嫌だったから追ってきました」
馬車の車輪が石を踏み、少し大きく揺れた。
エレナは何も言わなかった。
冬真も急かさない。
窓の外で、夕日が少しずつ低くなっていく。
しばらくして。
エレナは、深く息を吐いた。
「遅いです」
「……はい?」
「遅すぎます」
今度ははっきり言われた。
冬真が戸惑っていると、エレナは少しだけ睨むような目を向けてきた。
「私は何年待ったと思っているんですか」
「何をです?」
「それを聞く時点で、本当に遅いです」
冬真は言葉を失った。
エレナは窓へ顔を向けた。
「あなたは、いつもそうでした。私がどれだけ個人的な話をしても、最後には『王女殿下としては』と戻してしまう。私が市場へ行きたいと言えば警備の話をして、祭りへ行きたいと言えば護衛経路を考えて、誕生日に何が欲しいか尋ねられて『あなたと一日街を歩きたい』と言えば、護衛計画書を三枚作ってきた」
「安全は大事でしょう」
「そこで言い返すから駄目なんです」
「すみません」
「本当に分かっています?」
「今はたぶん」
エレナが呆れた顔をする。
けれど、その口元は少しだけ緩んでいた。
「私が婚約を決められたときも、あなたは何も言いませんでした」
「護衛が口を出せる話ではありませんから」
「そうでしょうね。だから私は待ちました。王女ではなく、私自身を見てくれる日が来ないかと思って」
冬真は返せなかった。
婚約。
政治。
王位継承争い。
エレナの人生には、本人の意思と関係なく決められることがあまりにも多かった。
その婚約さえ、国同士の都合で決まり。
そして相手側の事情で一方的に破棄された。
破棄されたあとは、王宮内の別派閥から次の縁談を用意された。
王女である限り。
彼女の人生は。
ずっと誰かに使われ続ける。
だからエレナは。
国を捨てた。
「手紙には、『探さないでください』と書きました」
「はい」
「本当は少しだけ、探してほしかったんです」
冬真は目を瞬いた。
エレナは恥ずかしそうに視線を逸らした。
「ずるいと思います。来ないでと書いて、来てほしいと思っていたんですから。でも、あれで本当に誰も来なかったら……私はたぶん、そのまま諦めるつもりでした」
「何を?」
「あなたをです」
冬真は完全に黙った。
数秒。
馬車の揺れしか感じない。
エレナがこちらを見る。
「そこで何か言うところでは?」
「いや、ちょっと待ってください」
「待ちません」
「俺、今かなり大事なこと聞いた気がするんですけど」
「かなり大事なことを言いました」
「……俺のこと、好きだったんですか?」
「今さらそこを確認します?」
エレナは本気で頭が痛そうな顔をした。
「王宮の侍女たちは皆知っていましたよ」
「皆?」
「ええ」
「いつから?」
「かなり前からです」
「知らなかった……」
「でしょうね。本人以外は全員知っていたと思います」
冬真は両手で顔を覆いたくなった。
護衛として周囲へ目を配っているつもりだった。
人の視線。
不審な動き。
危険な気配。
そういうものには敏感だった。
なのに。
一番近くにいた人間の気持ちだけ。
完全に見落としていた。
「俺、護衛として結構まずくないですか」
「そこを反省するんですか?」
「だって周囲の人間が全員気づいてることを俺だけ……」
「もう護衛ではないので、どうでもいいです」
エレナはそう言った。
少しの間を置いて。
もう一度。
「もう、護衛ではないんですよね?」
冬真は顔を上げた。
彼女の表情が変わっていた。
さっきまでの呆れたような顔ではない。
少し不安そうだった。
冬真はようやく。
この質問の意味を理解した。
「はい」
今度は迷わなかった。
「王宮へ戻ってくださいとは言いません」
エレナは何も言わず聞いている。
「国へ戻れとも、王女として責任を果たせとも言いません。あなたが捨てたものを、俺が勝手に拾わせるつもりもありません」
「では?」
「一人で行くつもりなら、俺も連れていってください」
エレナの目が少し見開かれた。
「それは護衛として?」
「違います」
冬真は首を振った。
「護衛ではなく、俺がそうしたいからです」
「王宮には戻れなくなるかもしれませんよ」
「もう命令を無視してここまで来ています」
「仕事も失います」
「剣くらいなら使えるので、何か仕事はあるでしょう」
「私は王女ではなくなります。お金も、屋敷も、使用人もありません」
「俺も元から持ってません」
「随分頼りになりませんね」
「剣は使えます」
「それは知っています」
エレナが笑った。
冬真も少し笑った。
そして。
しばらくして。
エレナが手を伸ばしてきた。
掌を上にして。
冬真はその意味が分からず、数秒見つめた。
「……何です?」
「手です」
「それは見れば分かります」
「握ってください」
「ああ」
冬真はようやく理解した。
手を重ねる。
これまで何度か触れたことはある。
階段で転びそうになったとき。
馬車へ乗るとき。
敵から逃げるとき。
全部。
護衛として。
でも。
今は違う。
エレナの指が。
冬真の指へ絡んだ。
「あなたは、護衛としては完全に失格ですね」
「自覚しました」
「でも、もうそれで構いません」
その言葉を聞いたとき。
冬真は。
ようやく。
追いかけてきてよかったと思った。
二人はそのまま国境を越えた。
もちろん。
国を出たからといって、突然幸せな生活が始まるわけではない。
むしろ。
最初は。
かなり大変だった。
王女として暮らしてきたエレナは。
当然ながら。
生活能力が驚くほど低かった。
「エレナ、それ何してるんです?」
「掃除です」
「床が水浸しですけど」
「床を洗うのですから、水を使うのは当然でしょう」
「井戸桶一杯全部撒く必要はないです」
「それを先に言ってください」
「普通は半分くらいで……いや、確かに知らないか」
二人が借りたのは、小さな町にある古い集合住宅の一室だった。
王宮の客間より狭い。
寝室。
小さな居間。
申し訳程度の台所。
それだけ。
けれど。
エレナはその部屋を。
意外なほど気に入った。
初めて掃除をした日。
彼女は井戸から汲んできた水を全部床へ撒き。
その結果。
自分の靴まで濡らした。
「どうして半分だけ入れると教えてくれなかったんです?」
「王女ならいけるかなと思って」
「あなた、王女を何だと思っているんですか」
「元王女でした」
「そこを訂正しているのではありません」
最初は。
料理も。
かなり危険だった。
「今日は私が作ります」
エレナがそう言った朝。
冬真は不安を覚えた。
「料理したことあります?」
「ありません。でも、見ていたことはあります」
「その理屈なら俺も刺繍できますよ」
「できますか?」
「できません」
「では余計なことを言わないでください」
結果。
完成したのは。
ほぼ黒いスープだった。
二人で鍋を見つめる。
エレナが小さく言った。
「スープって、焦げるんですね」
「俺も煮汁が残っていれば大丈夫だと思ってました」
「食べられるでしょうか」
冬真は木匙で少し掬った。
口へ入れる。
しばらく黙った。
「どうです?」
「捨てましょう」
「そんなに?」
「これは健康のためです」
「……分かりました」
二人で。
笑った。
王宮にいた頃。
エレナは。
こんなふうに笑うことが。
ほとんどなかった。
いつも誰かが見ている。
王女として。
正しく。
美しく。
落ち着いて。
失敗してはいけない。
それが普通だった。
けれど。
ここでは。
掃除で床を水浸しにしても。
スープを焦がしても。
誰も困らない。
二人で片付ければ終わる。
むしろ。
エレナは。
失敗するたび。
少し楽しそうだった。
もちろん。
いつまでも。
何もできないままではなかった。
エレナは覚えるのが早い。
一度失敗すれば。
二度目はほとんど間違えなかった。
料理。
洗濯。
買い物。
金の管理。
特に。
市場での値段交渉は。
すぐに冬真より上手くなった。
「冬真、これ高いです」
「そうですか?」
「隣の店なら同じ量で銀貨一枚安いです」
「よく覚えてますね」
「昨日全部見ましたから」
「俺、そういうの全然見てなかったな」
「あなたは何ならできるんです?」
「剣」
「それ以外です」
「……警戒?」
「生活に使えません」
冬真は反論できなかった。
王宮にいた頃。
守る側と守られる側だった。
しかし。
国を出て。
一緒に暮らし始めると。
その関係は少しずつ変わった。
冬真が仕事で家を空ければ。
エレナが家を守る。
エレナが役所の手続きに困れば。
冬真が一緒に行く。
市場では。
エレナの方が頼りになる。
町で揉め事が起きれば。
冬真が前へ出る。
どちらか一方が。
ずっと守るのではない。
二人で。
足りないものを。
補っていく。
それが。
冬真には。
不思議なくらい。
心地よかった。
年月は。
ゆっくり。
進んだ。
エレナは。
もう元王女と呼ばれることすら。
ほとんどなくなった。
町の人間にとっては。
少し品のある。
値切りの強い女性。
冬真にとっては。
一緒に暮らす人。
それで十分だった。
そして――。
白瀬冬真は。
自分の部屋で。
目を覚ました。
天井。
六畳。
カーテン。
スマートフォン。
いつもの部屋。
冬真は。
数秒。
動かなかった。
「……うわ」
布団の中で。
顔を覆った。
恥ずかしい。
今まで。
いろいろな人生を書いてきた。
料理。
戦争。
宇宙船。
スポーツ。
父との別れ。
ウサギ。
それらは。
かなり普通に。
書けた。
でも。
今回。
違う。
「これ、自分の告白書くのか……」
読者から見れば。
主人公とヒロイン。
それだけ。
でも。
冬真からすれば。
全部。
自分。
馬車。
告白。
手。
黒いスープ。
全部。
覚えている。
「きついな……」
とはいえ。
書かないわけにもいかない。
異世界恋愛作品。
『婚約破棄された王女の護衛だった俺は、彼女が国を捨てるまで何も知らなかった』
読者が。
一か月近く。
待っている。
冬真は顔を洗い。
コーヒーを淹れ。
パソコンへ向かった。
「……書くか」
一話目。
馬車。
エレナとの会話。
護衛ではなく。
一人の男として。
追ってきた。
そこまで。
書いた。
投稿。
十数分後。
掲示板。
『来た』
『どこ!?』
『異世界恋愛!!』
『第二回予想、異世界恋愛組勝利!』
『追いついた!?』
『追いついてる』
『話した!?』
『話してる』
『ちゃんと告白した!?』
『今から読むから黙れ!』
冬真は。
少し離れて。
掲示板を見る。
やがて。
読み終えた人が。
戻ってきた。
『遅い』
『何が』
『主人公』
『めちゃくちゃ遅い』
『エレナずっと待ってたじゃん』
『本人以外全員知ってたの笑う』
『侍女全員知ってたは草』
『護衛として周囲見てたのに恋愛感情だけ見落としてるの好き』
『でもちゃんと「王女だからじゃなくエレナだから追った」って言った』
『救済』
『ようやく救済』
冬真は。
少し。
顔を伏せた。
「そこ細かく感想書かなくていいんだけどな……」
昼。
二話目。
国境を越える。
手を握る。
そして。
小さな町で。
二人の暮らしが。
始まる。
投稿。
掲示板。
『同棲始まった』
『元王女、生活能力ゼロ』
『井戸桶全部床に撒いてるw』
『冬真「王女ならいけるかなと思って」』
『何をどう考えたらいけるんだ』
『元王女です』
『そこじゃないw』
『この二人ずっとこれやっててくれ』
夕方。
三話目。
黒いスープ。
市場。
少しずつ。
パートナーになっていく。
投稿。
『黒い』
『スープ黒い』
『異世界恋愛でヒロインの初料理が黒焦げなの珍しいな』
『毒見役が即「捨てましょう」で笑った』
『でもこの生活いいな』
『王宮政治より二人で市場行ってる方ずっと見たい』
『分かる』
『もう国に帰らなくていい』
『作者、頼むからしばらく幸せにしてくれ』
「いや、俺に言われても……」
言いながら。
冬真は。
少し。
笑った。
向こうで。
実際に。
幸せだった。
それなら。
そのまま。
書けばいい。
その夜。
異世界恋愛ジャンル。
一位。
掲示板では。
第二回予想。
異世界恋愛へ投票した読者が。
勝利宣言していた。
『異世界恋愛民です。本日の勝者です』
『おめでとう』
『一日他ジャンル煽れる権利どうぞ』
『では言わせてもらいます』
『何』
『皆さんまだ続き来てないんですか?』
『性格悪いw』
『その権利廃止しろ』
『SFは昨日更新されたから余裕』
『推理民に効いてる』
『犯人ずっと座ってるからな』
『ホラーも押入れ前』
『料理も誕生日前』
『ハイファンも扉前』
『止まり方一覧やめろ』
冬真は。
笑いながら。
第三回。
次回更新予想が始まるのを見ていた。
『次はハイファン』
『そろそろ扉開けよう』
『推理』
『犯人』
『ホラー』
『押入れ』
『料理』
『マルダ』
『その他』
『マル』
『マル固定票まだいるのかよ』
『俺はマルを信じてる』
今回。
一番票が多いのは。
ハイファンタジー。
次に。
推理。
ホラー。
料理。
冬真は。
自分なら。
どこへ入れるか。
考えた。
「ハイファンかな」
封印扉。
向こう。
自分も。
かなり気になっている。
夜。
布団へ入る。
冬真は。
今日書いた。
異世界恋愛作品を。
思い出した。
恥ずかしかった。
でも。
悪い気分ではない。
エレナが。
笑っていた。
王女ではなく。
ただの。
エレナとして。
それを。
残せた。
「……よし」
冬真は。
目を閉じた。
そして。
次に。
意識を取り戻したとき。
目の前には。
巨大な石造りの扉があった。
違う。
もう。
開いている。
扉の向こうには。
暗い通路。
冷たい空気。
微かに。
何かが。
動く音。
「冬真」
横から。
声を掛けられた。
槍を持った男。
ガレス。
「いつまで突っ立ってる。開いたぞ」
冬真は。
ゆっくり。
記憶を取り戻した。
魔王城。
地下。
勇者が死んだあと。
長い間。
閉ざされていた。
封印扉。
そして。
ここから。
先。
「……三回連続で当たる人、いるかな」
「何の話だ?」
「こっちの話だよ」
冬真は。
背負っていた。
大きな荷物袋を。
持ち直した。
かつて。
勇者一行で。
剣でも。
魔法でもなく。
ただ。
荷物を。
持っていた男。
その仕事が。
まだ。
終わっていない。
こちらの世界。
掲示板。
『第三回本命ハイファン』
『俺も』
『扉』
『そろそろ開け』
『もう開いてる』
『じゃあ入れ』
今度は。
ハイファンタジーへ入れた読者たちが。
正解することになる。




