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オルガ―狂奔の女帝―Ⅰ.紅への道  作者: 月桑庵曲斎
序章 帝国最後の夜
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Ⅳ 蒼海の帰還

 帝座の間には漂う張り詰めた空気。真紅宮は燃え続けている。崩れた天井から灰が降り続け、赤く染まった大理石を、積み上がった屍を、白灰色で覆いはじめていた。


 誰も動かなかった――いや、動けなかった。その中で、赤子を抱くように帝冠を持ったまま立ってたオルガが、緊張など感じていないかのように、帝座にそっと置く。


――退位。


 その場の誰もがそれを感じたはずだ。彼女は誰に帝冠を授けられるでもなく、自ら帝冠を載せ、女帝となった。ブルトン王国の女王となった時は、ラパステーが老年の教皇代理として戴冠役を担っている。


 その女帝が、今、自ら帝冠を外した。その意味をオルガが一番強く感じている。だが、それが退位ということでは無い。オルガとはエーリウの女公にしてブルトンの女王であり、帝国の女帝であるのだ。


 エドヴァンスはまだ、口を開かない。ラパステーは祈ることすら忘れたまま、オルガから視線を外せずにいた。スネイクラストだけが帝座の前に立ちはだかり、エドヴァンスたちを威圧している。


「……それで」


 オルガが静かに口を開いた。


「エドヴァンス・レイン、貴方はどうしたいの?」


 問い掛けられたエドヴァンスに答えはなかった。そこでようやく気づく。自分が成功を見据えていなかったことに。


 革命は成功するのか。

 帝国は終わるのか。

 自分は何をしようとしているのか。

 何一つ分かっていなかった。


「……どうすればよかったのか。あの時も、今も、分からない」


 それは苦しみながらも、なんとか絞り出した声だ。それを聞いて、安心したようにオルガは微笑む。そして、決然と言い放つ。


「だが、理想は――いや、志は忘れたくない」

「そう……なのね」


 責めるでもなく、慰めるでもない――ただ受け容れるだけ。オルガの温かさが、エドヴァンスに染みる。変わっていない――あの戦いの時からこの人は、外見と威厳だけが増えていって誰もが仰ぎ見る存在となっても、心は十六歳の少女のままなのだ。


「私にも分からなかった」


 その言葉に誰もが驚く。


 特に目を見張ったのはラパステーだった。幼き頃より側にいて、常に大人びていた少女は、悧発で好奇心に溢れ、砂が水を吸い尽くすように知識を吸い上げる。特に曲来が家庭教師となってからは成長速度が異常だった。考えて考えて、迷いなく答えを選んでいるように見え――


――いや、違う。この娘は『迷いがないように見せて』いただけだ。


 ならば誰も返せまい。あの曲来以外に答えを持つものが居るとすれば、オルガだけだと誰もが思っている。ラパステーは自分がオルガが付けた女帝の仮面――いや、為政者の顔を見ていたことを知った。


「へい――」


 もう、終わらせよう――と、エドヴァンスが膝を着こうとした、その時だった。帝座の間へ兵士が駆け込んでくる。エドヴァンスに片膝を突いた兵士は叫んだ。


「報告! 蒼海艦隊です!」


 空気が変わった。ラパステーがスネイクラストを見る。先程の革命軍の兵が言っていた増援とはこれのことかと、言外に問うたのだ。オルガが自らを囮として罠を仕掛けたのかという問いでもある。だが、スネイクラストは首を振る。


 先程の増援は、時間的にスネイクラスト麾下の黒槍騎士団だ。黒槍騎士団は城外の軍営に駐留しているため、スネイクラストが城内の屯所から連れていたのは五十に満たない。


 城内は近衛騎士団の管轄であり、皇帝直轄軍のスネイクラストとて余り自由には出来なかった。屯所をスネイクラストとその近侍にだけ宛てがってくれただけ近衛には借りがある。


――それが活きたのだがな。


 既に近衛騎士団は壊滅していた。また、増援に駆けつけているはずの黒騎士二〇〇〇が、未だここに辿り着けない所を見ると、エドヴァンスは手勢の殆どを帝城に割り振っている。革命軍の全軍は一〇、〇〇〇程か。残る人員では帝城港と〈猛々しき者たちのべルーシア〉軍港を閉鎖するだけで手一杯のはずだ。


 ベルーシアはアストラヴェルの〈流れゆく水(セクアーヌ)〉川対岸にある港湾都市である。女帝オルガは巨大な渠梁を築いて河道を改修し、外洋艦隊の遡上を可能とした。軍港と商港が併設されたベルーシアは帝都の外港として栄え、近衛艦隊の母港としてアストラヴェルを守護している。


――黒騎士たちには些か分が悪かろう。


 黒騎士は市街戦や城内戦を得意としない。挙兵からずっと野戦専門でオルガの許にあった。同じ皇帝直轄軍でも蒼海艦隊と黒槍騎士団は性格の違う軍である。


「なんだと……」


 革命軍の兵たちがざわめきが広がる。明らかに予想外のことだ。エドヴァンスの目が細まる。罠に嵌められたのかと疑ったのだ。だが、オルガらしくない。オルガなら罠に嵌めるのではなく、堂々と招き入れるだろうから。


「第一艦隊旗艦〈バーンヴァ〉接舷」

「第二艦隊旗艦〈フォードラ〉接舷」

「両艦隊、べルーシアへ到達!」


 今度は黒騎士がスネイクラストに報告した。兜を外した一人が、窓から顔を出して確かめたのだろうか、顔に火傷があり、煤けている。


 蒼海艦隊の外洋艦が内陸部である帝都に直接乗り込めたのは、〈流れゆくもの(セクアーヌ)〉川の整備が完了していたことによる。セクアーヌ川の狭い川幅と川底では外洋艦の蒼海艦隊は普通なら入って来られなかった。


 だが、遷都に及んで東岸は空堀を掘削して河口まで繋げ河幅を広げる。さらに対岸のべルーシアの街を整備して軍港と商港を開いて、駐留艦隊の受け容れが可能にした。更にエーリウ級外洋要塞艦が二艦、帝城脇の専用埠頭に接舷できるようになっている。


 つい先日、なんとか外洋艦が入れることで栄えていた〈曲水に集うもの(ロトマゴア)〉港まで赴いて、両艦を帝城港まで回航してきたばかりであった。


 エーリウ女公座乗艦――正式にはエーリウ級外洋要塞艦と分類される艦は二艘ある。巨大な軍艦で、一番艦が〈豊穣の光(エーリウ・ソラス)〉号、二番艦が〈豊穣の星(エーリウ・レルト)〉号と名付けられた。


 どちらもエーリウの女公座乗艦で、「エーリウ女公が座乗せねば動かすこと能わぬ」という不文律がある。そのため、態々ロトマゴアまで二回も行かなくてはならず、辟易としたのを思い出した。女帝の言うことより、部族の掟が優先というのがエーリウの民らしい。


 ちなみにソラスが儀礼艦で、レルトが軍用艦となっていた。


 その横にフィンバロス・トンネイアの三番艦〈地柱の女神バーンヴァ〉号、ルアドリオ・マレクィアの四番艦〈白霧の女神フォードラ〉号が滑り込んで来る。それは普段の穏やかな接舷ではなかった。艦首から突っ込む緊急接舷である。


「フィンバロスとルアドリオか」

「海の狼と虎――〈蒼海の波(キュマキアノ)〉が来るぞ」


 スネイクラストの呟きに革命兵の悲鳴が重なる。兵たちの間に、動揺という名のどよめきが広がった。〈蒼海の波〉とは蒼海艦隊の兵員のことで、波が尽きぬように、次から次へと現れることを恐れての異名である。


 蒼海艦隊――エーリウの海を守る皇帝直属艦隊。その帰還は誰にとっても予想外だった。そう、女帝オルガでさえ。そのオルガは沈黙していた。


 ゆっくりと目を閉じる。


 違和感はあった。〈海を塞ぐもの(オケピュリア)〉叛乱の報、途絶えた連絡、蒼海艦隊の不在、革命軍の蜂起。今になって全てが一本に繋がる。


「……騙されたわ」

「陛下?」


 オルガの呟きに、ラパステーが問い掛ける。オルガは首を横に振った。


「なんでもないの」


 それ以上は語る意味がなかった。誰かは分からない。だが誰かが、居た。エドヴァンスの影に隠れて、エドヴァンスを踊らせて、帝国の目を掻い潜り、オルガの知らない盤面で動ける者など限られてはいる。この戦いを動かした者が誰かを今問うても遅かった。


 遠くで砲声が響く。蒼海艦隊の熗炮(ポリオス)のけたたましい咆哮。だが、もう遅かった。


 フィンバロスも、ルアドリオも、帝都へ帰って来た。無事で良かったとオルガは思う。だが、始まってしまったからでは、間に合わないものもあるのだ。


「これで終わるのか」


 エドヴァンスが呟いた。オルガは窓の外を見る。夜明け前の真黒な空。燃え続ける真紅宮が、雲を赤く染めている。そして、その向こうのべルーシアの軍港に慌ただしく松明の灯が動いていた。


 オルガの静かな声が静寂を払う。


「終わる訳がないわ――たぶん、ね」


 革命も、帝国も、人々の願いも、誰も答えを見つけられないまま、時は刻まれていく。戦火に包まれても人の営みが消えぬように。天災に見舞われても街を()た興すように。


 夜はまだ深かった。だが、その終わりは確かに近づいていた。

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