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オルガ―狂奔の女帝―Ⅰ.紅への道  作者: 月桑庵曲斎
序章 帝国最後の夜
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Ⅴ 異国の賢者

 誰も剣を振れなかった。その場に居る全員が、身動ぎもせず立ち尽くしている。


 帝座の間には炎の爆ぜる音だけが響いていた。


 革命軍も、黒騎士たちも、そしてエドヴァンス自身も、誰も次の一歩を踏み出せない。


 何故なら、帝座に置かれた帝冠を、オルガが差し出したからだ。そのまま、静かにエドヴァンスを見つめている。


 その姿は不思議だった。世界最大の帝国を支配する女帝――それも狂奔の女帝とは思えないほど、清々しさに満ちている。だが同時に、今なお誰よりも皇帝らしかった。


「……私に殺せと言うのか」


 エドヴァンスが怒りを滲ませて呻く。オルガはコクンと首肯いて、さぁ――とばかりに帝冠を差し出した。


「そうよ」

「ふざけるなっ」


 エドヴァンスの剣先が、声が、体が震える。それは怒りか、(おのの)きか。恨めしさを載せて、オルガを睨みつけた。


「全部、貴女の思い通りなのか?」

「思い通り?」

「そうだ!」


 エドヴァンスは怒鳴った。


「最後まで皇帝のまま、民に裁かれることすら、貴女は自分の責任として引き受けようとしている」


 革命兵たちがざわめく。どういうことだ、将軍は何を言っているんだ――そんな声が囁かれていた。


 オルガの表情が(こわ)()る。ただし、穏やかな顔のままで。その様子が、エドヴァンスには腹立たしい。だが、何かが違う。この女性はこういう人ではなかった。いつしかこうなって行っただけ。つまり――


――演じている。


 エドヴァンスはこの期に及んでようやく理解した。


「貴女はいつもそうだ」


 声が掠れて、上手く話せない。蓋をしていた筈の感情が溢れ出して来たのだ。あのヴェルク砦を守れと命ぜられ、跡継ぎ(ウィリアム)を託され、主君(ベオウルフ)を見殺しにしなければならなかったあの日から、エドヴァンスは自分の感情を押し殺して生きている。


「全て一人で背負おうとする」


 オルガは(おとがい)に指を掛けると、首を傾げた。その仕草もあの頃のまま。軍を率いはじめた頃よりももっと昔――第二王子ベオウルフ・ヘンリーが遠乗りに妹を連れてきたと言ったときのことだ。


――ふぅん? 貴方が白熊レイン? 全然熊っぽくないのね!


 真白な乗馬服に真白なズボンを着て、金の(みずち)紋を輝かせていた、少女オルガ。あの時も頤に指を載せていた。


 そして、次に会ったのは、真黒に染められた喪服のようなドレスに、流涙の隈取をして、必死に大人びた口調で話すオルガ。


 そして、今、ここにいる演じることに慣れきった真紅の――狂奔の女帝オルガ。


 青の記憶が余りないのは、オルガの側に居ることが少なかったからだろうか――と過去に意識が引っ張られる。


 不思議そうにオルガが言った。


「そうかしら」

「そうだ!」

――そうかのぅ?


 エドヴァンスが叫ぶ声に、(しわが)れた老人の声が混じるが、幻聴に違いない。その声に聞き覚えがあるが、その声の持ち主はとうに亡くなっていた。


 ラパステーは、小さく目を閉じる。オルガにも聞こえたようだった。


 老人は最初は難破者だった。オルガの母オレネイアが大西洋で拾った東方から来た学者。そして、オレネイアに見込まれ、オルガの家庭教師となり、オルガの軍師となり、オルガを守って死んだ。


――曲来殿なら答えを持っていたのかも知れぬな。

――老師(せんせい)なら自分で出せと仰るわ。


 二人とも別々の想いで、今は居ない異国の老人に思いを馳せた。だが、それはもう取り返しのつかない過去であり、今でも、未来でもない。 


――随分、泣き虫のお姫さまじゃな。


 当時、老人は笑いながらそう言った。


 毒殺。

 暗殺。

 政争。


 王族同士が喰らい合う宮廷で、幼いオルガは夜毎怯えて泣いていた。だが、曲来は慰めもしなければ、抱き締めもしない。ただ、毒と薬の見分け方を教え、ありとあらゆる知識を与え、修辞から宮廷話術まで仕込み、洋の東西を問わず歴史を学ばせた。そして、なにより、人というものを観察させた。


『いいか、理想では国家は動かぬ。理窟を重んじよ』

『人は感情の動物でな、正しい理窟や道理だけではいかん。これが最も厄介じゃ』

『人は弱い。じゃから強い――とてつもなくな』

『兵は拙速を貴ぶじゃと? 政治は神速でやれ!』

『アレク大帝が彼処で止まらねば、東に大帝国が生まれておったじゃろうよ』


 酒臭い顔で語る老人の数々の言葉が思い出された。


 ラパステーは己に問うてみた。曲来は正しかったのだろうか、と。


――いや。あの老人は、正しいかなどと問うまいな。


 だから、非情に見えた。情に流されず、物事を判断するために。人と交わろうとしなかったのは、情を捨てる時に、良心に苛まされない為だったというのは、残された従者の話を聞いて知ったことである。


 オルガには分かっていた。曲来は間違えない、と。


――姫さんよ、アンタは非情になりきれん。だから抱え込む。難儀よのぅ。


 オルガが非情であれば、近侍さえ置いて既にエーリウ・ソラスで逃げ出していただろう。もしくは、スネイクラストにエドヴァンスを殺させていた筈だ。スネイクラストとエドヴァンスの伎倆の差はそれ程ある。だが、しなかった。


 皇帝でありながら、誰よりも人であろうとしている。それは民を愛した、戦争のない世界を与えたいと願った少女のたった一つの拠り所なのだ。


「……なぜだ。なぜそこまで帝国に拘った」


 長い沈黙。オルガは窓の外を見る。燃える真紅宮、崩れる監視塔、血に濡れた帝座に続く真紅の絨毯。その全てをじっくりと見た後で、ようやく答えた。


「怖かったのよ」


 純真な真白の服を着た草原で出会った少女が、気恥ずかしげに躊躇いながら言うように――女帝オルガが言う。


「国が――世界が壊れるのが」


 静寂に(こだま)するオルガの声は、ヴェルク砦で再会した黒衣の少女のようだった。


「皆が死ぬのが嫌だった」


 今度は為政者の顔できっぱりと。だが、それがオルガの始まりの場所である。


――良かろう、儂が導いてやる。


 あの老人ならそう軽やかに言ってのけただろうに。常にオルガの想いに応え続けてくれた老師はもういない。


 曲来から策を授けされ、身を守るために兵を挙げた。それ以後は周りの者たちを守るため、進軍するしかなくなる。そこまでは周りの状況に流されてのことだ。


 だが、あの日、濁流に飲み込まれる無辜の民を見たときから、少女の目的が定まってしまった。


――そうじゃの、これは為政者のすることではない。征くか、姫さんよ。


 高尚な理想ではない、壮大な野望でもない。ただ、失いたくなかっただけ。民の幸せを、民の暮らしを、失わせたくなかっただけなのだ。


 だから、守った――エーリウの民を。

 だから、戦った――ケルトの同胞と。

 だから、殺した――兄たちを、敵国王を。


 その果てが今だった。敵国を倒したら、そこに住む民を棄てられず、抱え込み続けた結果の帝国だった。


 エドヴァンスは言葉を失った。ようやく、オルガが何をしてきたのかが理解できる。


――戦争を無くしたいの。だから付いてきて。


 あの頃のオルガはそう言った。責めることは出来る。だが――それで終わるのか。何も変わらないではないか。


 理解もしてしまった。自分も同じだからだ。


 守りたかった――祖国を。

 残したかった――領地を。民を。人を。


 その方法が違っただけだ。


 ふとオルガが笑った。


「先生なら怒るでしょうね」


 ラパステーが顔を上げる。


「陛下……」

「情を捨てろって何度も言われたもの」


 懐かしそうだった。曲来が生きていたら、軍都〈殖える民の街(マッサリア)〉を取った時点で、「姫さんや、ここまでにしとくんじゃ」とオルガを止めただろう。その先にあるのはケルトではない帝国の本土だったから。だが、オルガは進んでしまった。地中海を取り、帝国の祖国マケドニアをも占領。東ゴッティアの先のルゥシア地方ヘ進出、北の果てスコォルディア地方まで保護したことが間違いの始まりだった。


 すべてはオルガの慈悲だった。イベリクでは躊躇いなく棄てられたものが、いつしか棄てられなくなっていたのである。


「でも、あの人」


 オルガは少しだけ笑う。


「自分が一番情深かったわ」


 返事はない。当然だった。曲来はもう居ない。それでも、

誰も否定しなかった。


 曲来を知る者なら分かる。あの偏屈な老人は、最後まで、オルガを見捨てなかったのだから。

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