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オルガ―狂奔の女帝―Ⅰ.紅への道  作者: 月桑庵曲斎
序章 帝国最後の夜
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Ⅱ 漆黒の騎士

 血は、帝座のある獅子の間から扉を超えて、朝廷の階を静かに流れていた。まるで帝座から敷かれた真紅の天鵞絨(レッドカーペット)が続いているかのように。


 本物の真紅の天鵞絨(レッドカーペット)には革命兵たちの死体が折り重なり、その中央でスネイクラストは剣を振るっていた。スネイクラストの後ろには、黒鎧の騎士たちが帝座への道に壁を作っている。


 スネイクラストの黒い外套はすでに裂け、甲冑には弾痕が刻まれていた。それでも彼は退かない。それはまるで“死”そのものが歩いているようだった。


 革命兵たちは顔を引き()らせ、ある者は足を震わせ、ある者はその場にへたり込む。


「あ、悪魔だ……!」

「撃て! 撃てぇッ!!」


 火の咆哮が獅子の間を埋め尽くす。


 硝煙の向こうで、スネイクラストの身体が揺れた。肩を穿たれ、鮮血が飛び散る。倒れるのか――誰もがそう思った。たった一人、オルガを除いて。


 次の瞬間、革命兵の首が宙を舞う。


「――遅い。炎筒(ピュロス)が我らの武器だというのを忘れたか」


 低い声。黒騎士の剣が閃くたび、人間が肉塊へ変わる。オルガは帝座からその光景を見つめていた。


 表情は変わらない。それはまるで舞台劇を眺める観客のようだ。口許に笑みさえ浮かべている。結末を知ってもなお、その舞台に上がった役者の力量を(たしか)かめるかのように。


「陛下……!」


 ラパステー枢機卿が呻く。懇願にも似たその声に、オルガが振り向いた。


「ここは危険です。お下がりください」

「――ラパステー?」


 オルガは小首を傾げる。僅かだが、間があった。それはまるで何を言っているのか分からず、考えていたと言わんばかりだ。その顔には面白そうな表情が浮かんでいる。


「何を今更。私はずっと危険だったわ」


 革命が起きる以前から――彼女は〈狂奔帝(リュッサリア)〉と呼ばれていた。北方遠征が終わるとともに〈狂奔の女帝バシレイウナ・リュッサリア〉と。


 〈広望たる大地(エウロパ)〉中に広がった帝国を統べる巨大な官僚機構を受け容れる宮殿。平和を求め続けてなお終わらない戦争。 人々の選択を奪い、誇りを傷つけた武装禁止令。そして、平和を維持するために軽くならぬ民衆への税。その全てが、彼女のたった一つの願い――民草に戦争のない世界をという想いからで、彼女ほど民を愛した皇帝は居なかった。但し、平和を乱さぬ者にだけ。


 民は誰も知らない。彼女が最初から今に至るまで狂ってなどいないことを。


――四十年程前。


 彼女がまだ〈純白の皇女プリンキピサ・レフコカタリ〉と呼ばれていた頃のたった一つの事件が、彼女の人生を急転させた。


 当時、歴史は彼女の登場を予感したのかも知れない。


 その頃、オルガが築いたよりも、もっと広大な国であった西方帝国バシレイア・ヘスペリアは、群雄割拠の戦乱の最中にあった。


 そんな中、帝都〈永遠なる中心アイオナルケ〉だけが取り残されている。

 

「世界よ……余を無視するな……」


 皇帝が弱々しく臨終の声を挙げた。そして、その声に応えるように、大きく歴史が動く――。


 統一暦一七一九年四月十二日、最後の皇帝バシレウス・エスカトス(こう)(きょ)の報が西方帝国を駆け巡る。マケドニア王国から数えて二〇〇〇年もの間続いたアルゲアス朝が終わりを迎えた。傍流にすら唯の一人も後継者を遺さずに。昏い帝座を嫌い、酒と女に溺れた結果だった。


 そして、皇帝空位時代(アケファリア)が幕開ける。辺境侯国はヘレニア聖教の名の下に王国を称した。


 帝国は緩やかに解体され、辺境国は次第に周りの諸族を併呑して行った。その中のゲルマノス人のフランゴイ族が打ち建てた辺境国で、西方最大の軍事国家に伸し上がったフランギアの国王に野心の火が灯る。


 知性と温厚篤実な性格で知られたフランギア国王アンセリオス・カロルォス・ヴァレシオス――カロルォス六世は、統一暦一七二〇年の選定会議で自らを皇帝に推した。だが、利害の合わぬレノス諸侯連盟(コイノン・レノス)の盟主ゲオルグ・カッティ・マティアブルグが擁立する何処の馬の骨ともしれぬアレキサンドロスの血筋を名乗る輩や、東ゴッティア辺境伯のロボス・アラリクス・ゴルドリオと西ゴッティア辺境伯のフクサ・テオデリク・ジルバティガの推すマケドニア王族の血を引くヘスペリア人の将軍などに阻まれる。


 野心に火がついたカロルス六世は、武功での皇帝即位を目指し、ケルタイ中部〈榛王のアルヴェルニオ〉地方に進出。これに立ちはだかったのはアルウェルニ族だった。しかし、帝国最大の版図を誇るフランギアに〈榛王(アルウェルニ)〉族が抗らえる筈もなく、味方した部族たちも併呑される。


 その中で、唯一立ち上がったのが十六歳のオルガだった。まだ少女としか言えない筈の。


 彼女は目標を掲げると、豊穣の島(エーリウ)へと戻り、国王代理を務めた叔父を排除して女公となると、瞬く間にブルトン王国を手に入れた。だが、オルガは止まらない。海峡を渡り、西ゴッティアを下し、フランギア王を平らげ、レノス諸侯を飲み込むと、東ゴッティアを征服した。


「私は――皇帝だから」


 オルガの声は、炎に落ちた。スネイクラストは足音を消してエドヴァンスを睨んだまま、視線を遮るように立ちはだかる。エドヴァンスは剣を構えたまま動かなかった。


「……違う。違うのだ、オルガレア・カポテア」


 低い声が良く響いた。突如、地鳴りのような音が割って入る。何処かの監視塔が崩落したのだろうか、民衆の歓声も聴こえてきた。


「貴女を倒すために来たわけではない」


 ラパステーが息を呑んだ。救けられる――という表情に出た。オルガの目がすうっとわずかに細まる。エドヴァンスは続けた。


「この帝国は崩壊していない。だが“完成しすぎている”」


 その言葉に、オルガの纏う空気が変わる。険しく睨みつけるかのような形相をエドヴァンスも、スネイクラストも、ラパステーも初めてだった。オルガが怒っている――ラパステーは息を飲んだ。


 エドヴァンスは崩壊ではなく、過剰な完成――それが問題だと指摘した。


「人民は救われた。飢えも戦乱も減った」


 エドヴァンスは一言一言絞り出しながら、オルガの無言の圧力に耐えて、一歩踏み出す。


「それはオルガの功績だ」

「だが代わりに――選ぶ力を失った」


 スネイクラストを手振りで抑え、オルガは怒りを隠さず黙っていた。


 否定しない。だが、肯定もしない。ただ、見ているだけだ。


「平和はある。だが――自由、いや、責務がない」


 エドヴァンスの声がわずかに強くなる。民を見ればわかることだ。民は確かにその日その日を生きているが、その目が死んでいる。戦に怯えることがなくなったというのに、今度は息苦しさに喘いでいた。


「何故、民は息苦しさを覚えるのか、分かるか? オルガレア・カポテア」


 スネイクラストの手が僅かに動く。しかし、そこまでだった。オルガが横に首を振ったからだ。


 まだ剣は抜かれない。止まったスネイクラストを見て、安堵したように、小さく息を吐いた。


「……それで?」


 その声は静かだった。問いでも挑発でもない。ただの確認。


「――人に戻す」

「何を」

「未来を描く心を」


 沈黙の帳がそこにあった。炎が天井を崩す音だけが響く。オルガはゆっくり立ち上がった。


 帝冠はない。だが、その圧倒的な存在感は変わりはしなかった。


「それはまた、戦争をする自由を与えようというの?」


 そこに居たのは、女帝の筈だった。だが、エドヴァンスには、純粋な叫びに聞こえた。あの時、兄に縋って泣いた少女の叫びに。


――兄さん、なんで、私を置いていくのっ


 だから――言葉を呑んでしまった。


 自分を取り戻すかのように首を振った。違う――いまのオルガは、最早あの時の少女ではない。〈黒百合の女公メラス・クリノス〉と呼ばれた幼き豊穣のエーリウの女王ではないのだと、自分に言い聞かせた。


「それは――民が選ぶことだ」


 その瞬間、空気がわずかに揺れた。ラパステーが目を伏せた。自分には答えがない。神々の御心のままに――それ以外に言える言葉がない。だが、それはなんと似つかわしくない言葉だろうか。


 亡き曲来ならば、たった一言「笑止千万」と言ったかも知れない。


 スネイクラストは、初めて剣を少しだけ下げた。それを目の端に捉えて、オルガは静かに笑う。


「それは、平和より危険ね」

「かもしれない」


 エドヴァンスは否定しない。民に委ねるのは危険だ。だが――


「だが人は、それでしか人ではいられない」


 再び沈黙の時が流れ、炎が落ちた。オルガはほんの一瞬、目を閉じる。長い時間のようにも感じたが、僅かなことでしかなかった。


 そして――


「……そう」


 それだけだった。スネイクラストは眉を顰めた。

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