Ⅰ 紅血の帝冠
帝都アストラヴェルが燃えていた。
夜空は赤く裂け、鐘楼の鐘は絶え間なく鳴り響く。石畳を埋め尽くす民衆の叫びと、銃火の閃光。処刑台の周囲では革命軍が旗を掲げ、王宮の窓には焔が映っていた。燃えているのは帝城のみ。
その中心でただ一人、静かに玉座へ歩くのはオルガレア・カポテア・ヴィクトリア一世。常勝帝オルガ、その人である。
黒曜石のような瞳。血を溶かしたような深紅の礼装。重い帝冠を頭に戴いても、彼女の首筋は微塵も揺れなかった。左手には黄金の王笏〈万物を統べるもの〉を握り、右手には帝国の至宝と呼ばれた宝珠〈勝利を齎すもの〉を載せている。
そしてその頬には、流した血涙のような紅い化粧が施されている。それは青龍族ではなく、赤馬族の王族がする隈取であった。
「陛下、まだ間に合います」
低く響く声がした。玉座の左脇に立つ男――オルケストラ・ラパステー枢機卿が静かに頭を垂れる。青龍族象の徴たる青龍の紋章――青龍教会の法衣に身を包んだその老人は、帝国宗教界の頂点に立つ男であり、帝国最後の良心とも呼ばれていた。
「国外へお逃げください。艦隊はまだ健在です。亡命すれば再起も――」
「再起?」
オルガは笑った。愉しそうに。
但し、その笑みは美しかったが、同時に刃物のように冷たかった。だが、その笑みはラパステーからは見えない。それでもラパステーはオルガが笑っていると知っていた。
「ラパステー。民は私を殺したがっているのよ」
「それでも、陛下はこの帝国に必要です」
「違うわ」
彼女はゆっくり振り返って、左右に首を振る。幼い頃より、静かに自分を見守り続けてきたラパステーに言い聞かせるように。
「最早この国が私を必要としなくなったの」
その時、帝座の間の扉が開いた。黒煙と共に現れたのは、漆黒の軍装に身を包んだ男。右目を眼帯で覆い、死神のように髑髏と骨十字の紋章を負う将軍――ケルシウス・スネイクラストである。
彼は帝国最強の軍人であり、 革命軍からは“黒騎士”と恐れられる男だった。同じような黒い鎧を身に纏った騎士たち――三十人ほどに数を減らした黒槍騎士団がスネイクラストに付き随う。十名づつ左右の窓際に向かって剣を構え、他の者たちは真紅の天鵞絨の左右に立った。
彼は膝をつかない。ただ、オルガを見据え、低く告げた。
「西門は突破された。近衛も壊滅だ」
「そう」
「俺の部隊ならまだ道を開ける。五百騎で港まで護衛する、急げ」
苛立ちを見せながら、オルガに顎を癪ってみせた。
「逃げろと言うの?」
「生きろ――と言っている」
ラパステーが目を閉じた。自分も何故そう言えなかったのか。何処かで、皇帝でなくなったオルガはオルガでなくなるような気がしていたことに気付いた。
「豊穣の島か」
「……」
スネイクラストが無言で頷く。
オルガは皇帝であるが、紅馬族の女王でもある。西方帝国に反乱し、豊穣の島――ブルトン語でイウェルゾン――へと逃れた紅馬族は、エーリウの女王となり、大ブルトン連合王国の構成国として健在だ。そこまで行けば革命の余波に塗れることはない。
「そこまで戻れと、私に言うの?」
ラパステーは押し黙った。忠誠心から出た言葉では、オルガを説き伏せることなど出来ぬのは分かっていたが、愛しい孫娘のような彼女を失いたくない。その気持ちだけで言葉を継いでいたが、それも尽きた。
それに対し、スネイクラストは忠誠では動かない男だった。国家も神も信じていない。だが彼だけは、二十年前から変わらずオルガに剣を捧げ続けていた。
何故か。
――それは、誰も知らぬままでよい
ラパステーは人の心を慮りはしても、推し量りはしなかった。ただ神の御心を推し量るのが仕事だ。女王と騎士の関係など、邪推をすれば醜聞沙汰になりかねない。この期に及んでも、ラパステーの清らかな心の鏡には曇り一つないままだった。
オルガは帝座へ戻った。
黄金と血で飾られた帝位――歴代皇帝が世界を征服しようと目指してきた頂。何代も皇子たちが血で血を洗って手に入れてきた西方帝国の帝座がここにある。帝都〈永遠の中心〉を陥落させたオルガが、アレキサンドロス三世世界皇帝も坐った帝座を、態々〈星の宿る都〉まで運ばせた世界の中心である証だった。
彼女は静かに目を伏せた。
「……ねえ、スネイクラスト」
「何だ」
「あなた、人を愛したことある?」
唐突な問いの意図を察せなかったのか、顰めっ面をして将軍はそのまま黙して答えなかった。
沈黙が燃える王宮に満ちる。スネイクラストはどう答えたら良いものか、と腕を組んだまま、口を噤んだ。オルガは答えるまで待つつもりなのか、面白い物でも見るようにスネイクラストを眺めている。
ややあって、スネイクラストが絞り出すように口を開いた。
「愛は判断を鈍らせる」
「そうね」
時間を掛けた割に平凡な答えね――とばかりにオルガは小さく笑う。
「だから、貴方は帝王には向かない」
窓の外で爆発が起きる。革命軍が外壁を突破したのだ。兵士たちの絶叫が近づいてくる。
ラパステーが震える声で祈りを唱える。
「尊き蒼き龍よ、願わくばこの国に――」
「祈りは嫌いよ」
それを、オルガが遮った。ラパステーの良心を切り捨てるかのように冷たい声で。この神を信じぬ姿が、オルガを民から恐れさせ、貴族たちから白い目で見られた一因でもあった。
「神はいつも、死体の山ができてから降りてくるもの」
彼女は立ち上がった。帝冠を正し、王笏を握りなおす。その姿は、もはや人間ではなかった。神々しさに満ち溢れ、権威と恐怖の象徴を体現した者――滅びゆく帝国そのものだった。
「ラパステー」
「……はい」
「あなたは生きなさい。歴史に――いえ、私を正しく記させなさい」
「陛下……」
ラパステーは頭を垂れて、三歩下がる。最早、説得は無理だ。そして託された希いを後世の歴史家に穢させてはなるまい。「歴史そのものを残した宗教家」――後世、オルケストラ・ラパステーはそう評価されるが、このオルガの言葉が、膨大な史料と記録を輯めたて著された『オルガレア戦記』を誕生させた。
「スネイクラスト」
「何だ」
「最後まで側にいて」
スネイクラストは短く答えた。
「ああ」
なんの表情も浮かべず、当然だとばかりに頷いた。その瞬間、轟音とともに扉が破壊される。
――革命軍だ。
殺意が具現化したかのように雪崩込んだ兵たちは、一斉に銃口を向ける。そして短剣の旗を掲げ、短剣の紋章を付け、革命軍の兵士と化した民衆が続々と入ってきた――。
城の外で民衆は叫んでいた。
「狂帝オルガを殺せ!」
「帝国を終わらせろ!」
「皇帝を断頭台へ!」
四方から聞こえてくるオルガへの罵詈雑言を、彼女はそよ風を受けた如く意に介さない。
オルガは逃げなかった。
帝座の前で静かに立つ。その背後に黒騎士。 脇に青龍の枢機卿。
三人だけが、燃える帝国の最後に残る者たちだった。既に朝廷の群臣たちは霧散している。ある者は保身から革命軍に鞍替えし、ある者は異国の地に逃げ、またある者は本国――大オルガ帝国の前身であるブルトン王国だった地方へと避難していた。
そして、革命兵の一人が震えながら叫んだ。
「ひ、膝をつけ!」
オルガは微笑した。本当に微笑ましいと言わんが如く。その者は革命軍の揃いの帽子に羽飾りを付けおり、それが震えていた。おそらくはこの部隊の隊長なのだろうが、黒騎士の異名を持つスネイクラストと、オルガの悠然たる姿に肝を潰したのだと、オルガは見抜く。そして、優雅な笑みで、こう言った。
「帝王は、最後まで玉座に坐るものよ」
艷やかな唇が、言葉をいい終えるや否や――スネイクラストの剣が閃いた。
血飛沫が舞う中を将軍が黒い奔流となって駆け抜けた。革命軍の先頭の兵たちが吹き飛び、黒騎士は踵を返して、嵐のように敵陣へ踏み込んで行く。銃弾が甲冑を砕き、火花が散った。耳を劈くような音が駆け抜ける。それでも黒騎士の方が疾かった。幾度も、幾度も、銃線が交錯し、甲高い音がして、弾が跳ねる。
だが――それでも、彼は止まらない。
オルガはその髑髏と骨十字の紋章を負った背を見つめながら、静かに呟いた。
「あなた、本当に化け物ね」
「今さらだ」
将軍は笑ってみる。それは彼が初めて見せた、人間らしい笑みだった。かつて、皇女オルガを見守っていた――死神と呼ばれるようになる前の近衛騎士スネイクラスト青年の柔らかい暖かな目で。
そして――帝国最後の夜が始まった。




